昨日の文を書いた後、俳句は「ためいき」のようなものだと思いました。
ところで、最初、俳句をつくっていくうえで、
大いに役に立ったのが有季定型でした。
季語があって、575というカタチをはっきりと持っていることです。
もやもやした情念を、言葉にするには、とても難しいことです。
これがすっきりと表現できたら、病気は半分治ってしまいます。
俳句の場合、まず、季語を選べば良いのです。
これを決めると、その磁力によって忘れていた言葉がよみがえってくる。
集まってくると言った方が近いかも知れません。
また575という明確で短いカタチがあるから、
迷うことが少なく、作りやすいのです。
子規の唱えた写生という手法は、自己の内面に、
直接、向かい合わなくても、気持ちを表現することが出来ます。
本当の自分の顔を見るのは、なかなか勇気がいります。
このテクニックも俳句に入りやすくしてくれました。
自然の景に託して自分の気持ちを表すことが出来るからです。
これは、和歌の伝統的なテクニックでした。
たとえば、凡河内躬恒の「はるの夜 梅の花をよめる」歌。
春の夜のやみはあやなし梅の花
色こそ見えね香やはかくるる
春の夜の闇は、何とも理屈に合わないものだ。
梅の花を暗闇によって覆い隠しているが、
香りがちゃんと花の在処を明らかにしてしまっているではないか。
というものです。
美しい女のところに通ってくる男の歌。
母親や乳母が女を男から守ろうとする。
姿は見えないが、香は隠せないという恋の歌ですが、
梅の花だけを詠って、恋心を表しています。
俳句の写生も、この伝統のうえに成り立っています。
もうひとつ、切れ字にも重要な働きがあります。
切字は言い切るものです。
言い切ることによって、もやもやにカタチを与えた
という満足感が生れるのです。
すっきりと溜息がつけるのです。
いまにして思うと、日本の伝統が、私のなかで死なずに
生きていたことが分かります。言葉のなかにあるDNAの力です。
しかし・・・俳句は敷居は低かったが、奥行きは深い。