575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

23日が句会です。 題詠は「踊り」

2006年08月19日 | Weblog

今回の題詠は「踊り」です。

季語集・坪内稔典(岩波新書)によりますと、

 季語の場合、盆踊りを指す。
 お盆には祖先の霊を迎えるが、
 盆踊りの踊り手はその祖先の霊。
 笠や手拭いは異界の者であることを示す衣装。

 実際の踊り手は、此の世の人。
 あの世のかっこうをして踊る。
 あの世と此の世が入り交じる。

 櫓を中心に輪になるよりも、行進する方が古い形。
 行進してあの世まで祖霊が帰っていく姿らしい。

   

締め切りは21日一杯です。
よろしくお願いします。   遅足

ちょっと気になる句
  
 づかづかと来て踊子にささやける 高野素十


 

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俳句は手ごわいですね

2006年08月18日 | Weblog
俳句と聞くだけでびびっていました。
世界で最も短い定型詩、たった17文字で、写生や心象をどう綴ればいいのか。所詮は手の届かないものと、敬遠していたのに、妙なご縁でお仲間入り。否応なしに拾い読みすることになりました。

そして出会ったのが  ”肌のよき石にねむらん花のやま”  路通

神も仏もすでに遠く、絢爛たる花に包まれて安息する境地。惹かれました。
そして、もう少し勉強してみたいと。

寡聞にして、路通について知るのは、ほんのわづかです。

 大豆の葉も裏吹くほどや秋の風

 鳥共も寝入っているか余吾の海

路通について、教えてください。句集とか、文献とかを。

 かって湖北を訪れたときの、1首

  鳥も発ち風も死にたる余呉の湖 わたしの鬱は投げずにおこう

                     鳥野
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出会い

2006年08月17日 | Weblog
先日、初めて八ヶ岳に行きました。日差しは強くても木陰に入ると
爽やかで心地よかったです。

写真は柳生博さんが経営されている八ヶ岳倶楽部のギャラリーです。
屋根の上に草を植えた「草屋根」になっていました。

さて、帰り道に「平山郁夫シルクロード美術館」の標識に導かれて
訪れると、
甲斐小泉駅前におととしオープンしたばかりの素敵な美術館がありました。

中に入るとインドの古城の作品の両サイドに
壁面いっぱいに広がる大作二点。「砂漠行くキャラバン」の夜の風景「月」と
朝日の砂漠を行く「太陽」。前者は青を基調とし、後者はオレンジ。
まるで自分が砂漠の中にあるような不思議な感覚に襲われ、しばらく動けずに
いました。

旅先で出会った絵画に心を動かされ、癒された気持ちで帰って来ました。
平山さんが一目ぼれしたというガンダーラの菩薩像も彫りが深い顔立ちで
異国情緒漂う石仏でしたよ。

八ヶ岳周辺は日本文化の源である縄文文化の中心地であり、絹の往来する道であったとのこと。
日本のシルクロードだったわけですね。皆さんも八ヶ岳にお出かけの際は
ぜひのぞいて見て下さいね。麗


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銃後といふ不思議な町を丘で見た 渡辺白泉

2006年08月16日 | Weblog

銃後、という言葉は、砲火の背後に活動する将士という
意味だったそうです。
その意味が大きく変ったのが、1937年(昭和12)でした。
日中戦争が始まったこの年の12月26日、
天皇が帝国議会の開院式で

「朕カ(が)銃後ノ臣民ヨク協力一致シテ時難ニ当タレリ」

と述べたことから、銃後の臣民、つまり内地にいて、
直接戦闘に参加しない一般国民のことを指すように変ったそうです。

戦争が一気に内地の国民にも及んできたわけです。

白泉の句は、新しく、銃後、とされた町を、
丘の上から見て詠った、時事的な句でもあったのですね。


ひとつの方向に引っ張られるように流れていく国民の心。
銃後という言葉も、そうした力を秘めていたのかも知れません。

今でいうと、規制緩和などでしょうか?

                    遅足

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秋扇(しゅうせん)や美しきまま母となり  中村汀女

2006年08月15日 | Weblog

たった一瞥なのに、こうして俳句に残すと
すっかりその人を忘れられないのである。
扇は黒っぽかった。きちんとととのえた胸もと。
かきあげた髪。それでいてとりすました感じも
冷やかさも見えなかった。
年のころは四十をいくつか越えた人。
私は、その人になんでこんなにはっきりと
母性を感じたものだろうかと、
今、思い返してみたら、戦時、男の子を持つ
母親の祈願、それをこの人に感じたのだった。


中村汀女・自句自注より

この句は昭和15年の作です。
日中戦争が始まって3年、次第に英霊となって
帰国する兵士が増えていきました。
私の叔父も、この頃、中支で戦死し
無言の帰国をしています。

今日、小泉総理が英霊を祀る靖国神社に参拝しました。
どうも困った人です。
個人としての参拝はともかく、総理の靖国参拝には反対です。
宗教的な行為ではなく、まったく政治的な行為ですから。

              遅足



 


   
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終戦忌に思いをはせて。       愚足

2006年08月14日 | Weblog
六十一回目の終戦記念日を明日に控えて、「終戦忌」の俳句を掲げてひと時平和に思いを馳せたいと思います。

      終戦日妻子入れむと風呂洗ふ       中村草田男

      敗戦日空が容れざるものあらず      秋元不死男

      終戦忌杉山に夜のざんざ降り       森  澄雄

      土熱く灼けゐし記憶終戦日        沢木 欣一

      堪ふることいまは暑のみや終戦日     及川  貞

      敗戦忌饒舌ならぬ若者ら         久保田月鈴子

      夕焼けてすさむ家うち敗戦忌       岡本  眸

 これらの句を読むとき、作者を超えて戦争についての傷や想いが想像されされてなりません。 
          
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俳句は敷居が低かった  遅足

2006年08月13日 | Weblog
   
昨日の文を書いた後、俳句は「ためいき」のようなものだと思いました。

ところで、最初、俳句をつくっていくうえで、
大いに役に立ったのが有季定型でした。
季語があって、575というカタチをはっきりと持っていることです。

もやもやした情念を、言葉にするには、とても難しいことです。
これがすっきりと表現できたら、病気は半分治ってしまいます。

俳句の場合、まず、季語を選べば良いのです。
これを決めると、その磁力によって忘れていた言葉がよみがえってくる。
集まってくると言った方が近いかも知れません。
また575という明確で短いカタチがあるから、
迷うことが少なく、作りやすいのです。

  

子規の唱えた写生という手法は、自己の内面に、
直接、向かい合わなくても、気持ちを表現することが出来ます。
本当の自分の顔を見るのは、なかなか勇気がいります。
このテクニックも俳句に入りやすくしてくれました。
自然の景に託して自分の気持ちを表すことが出来るからです。

これは、和歌の伝統的なテクニックでした。
たとえば、凡河内躬恒の「はるの夜 梅の花をよめる」歌。

 春の夜のやみはあやなし梅の花 
   色こそ見えね香やはかくるる  

春の夜の闇は、何とも理屈に合わないものだ。
梅の花を暗闇によって覆い隠しているが、
香りがちゃんと花の在処を明らかにしてしまっているではないか。
というものです。

美しい女のところに通ってくる男の歌。
母親や乳母が女を男から守ろうとする。
姿は見えないが、香は隠せないという恋の歌ですが、
梅の花だけを詠って、恋心を表しています。

俳句の写生も、この伝統のうえに成り立っています。

  

もうひとつ、切れ字にも重要な働きがあります。
切字は言い切るものです。
言い切ることによって、もやもやにカタチを与えた
という満足感が生れるのです。
すっきりと溜息がつけるのです。

  


いまにして思うと、日本の伝統が、私のなかで死なずに
生きていたことが分かります。言葉のなかにあるDNAの力です。

しかし・・・俳句は敷居は低かったが、奥行きは深い。



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俳句をなぜ始めたのか?   遅足

2006年08月12日 | Weblog
もう俳句を始めて10年余。先日、どうして始めたんですか?
と、問われました。とっさには返事が出来ませんでした。
そこで、昔を振り返ってみました。



50歳の頃 突然、秋風が身にしみました。ふっと、ああ、秋、なんだと。
中年から老年に入る頃。思秋期?
世の中、世間のことから、ふっと気持ちがそれた。
その時、思い出したのが・・・・

  秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

という和歌でした。その時は作者の名前も忘れていました。

体調が思わしくなく、妙に悲しく、さみしい。死ぬ時はひとり。
思えば、死んでいった人の方が圧倒的に数が多い。
そんな時に、俳句なら短い。自分でも作ることが出来るのじゃないか?
と思いつきました。

575と短いので、とにかく作ってみました。

作ってみると、気持ちがスッキリしたのです。
もやもやした心にあるカタチを与えたことによって、
一時的に、気が済んだようです。
しばらくすると、また飢えてくる。作る。
その繰り返し。・・・・

こころが風邪を引きかけていた。
そんな時に俳句に惹かれていった。
言葉に出来ないもやもやした感情。
これに俳句というカタチを与えることによって、
だんだん風邪から回復していったように思います。


写真は野鹿の滝。福井県名田庄にあります。

 
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合併は功? 罪?

2006年08月11日 | Weblog
誘われて、伊吹の蕎麦を食べにでかけました。湧水で、地元産の粉を打ったという名品。奥伊吹の山里にあるはずなのに、目当ての伊吹町が、見つからない。

そのはず。今年に1月1日から米原市に合併されて、市内になっていたのです。そういえば滋賀県の変わりようは甚だしくて、なかなか理解できません。
ゲンジボタルで知られる山東町も米原市。八日市市は消えて、永源寺町や五箇荘町とともに東近江市になってしまいました。

 「町名が一つ変わるごとに、千年の歴史が消える」と嘆いていたのは、或る万葉学者。

当方の住所も、かっては「深井町」。御深丸御庭の松山の中であった証しとか。いまでは広大な「城西」の一部です。

バス停には、わずか樋之口、数奇屋などの名が残り、個人宅の外灯に「鷹匠町」と墨書しているツワモノもおられます。

さて、伊豆の国市、四国中央市、南アルプス市、北杜市、・・・大好きな、そして馴染み深い場所。ああ、あそこだと、地図の上に浮かびますか。それとも、わたしが疎いのか。

 本題。並んで、待たされて、ようやく食べた蕎麦の味。恭しいものでした。

  蕎麦(そばきり)の季語を教えてください。
  そばの花、そば刈り、そば掻きはあっても、つるりと食べるおなじみのやつは見当たりませんが。
             鳥野

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天橋立

2006年08月10日 | Weblog
先月、天橋立に行ってきました。

松並木の中はとてもさわやかで自転車で走ると
風が何とも言えず心地よかった。
途中色んな松がありました。これは幹が3本に分かれた智慧の松。

与謝野寛、晶子夫妻が天橋立を詠んだ歌碑もありました。

小雨はれ みどりとあけの虹ながる 
与謝の細江の朝のさざ波  寛

人おして 廻旋橋のひらく時
くろ雲うごく 天の橋立  晶子

三人寄れば文殊の知恵で有名な文殊堂にもお参りしてきました。

それでは三人目を目指して

松並木 走る自転車軽やかに
行き交う人の 笑顔はじける  麗

初めての短歌です。お粗末(松)でした。


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物語り紡がぬ人と秋の夜   朱露

2006年08月09日 | Weblog

  50数年読み渋っていた「星の王子さま」。
  この秋内藤濯訳を読んでずっと泣いていた。
  44才で死んだ大先輩、サンテグジュペリ。   
  ロクな物語りも紡がないまま生きている私。

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立秋のあるがままなる籐椅子(といす)かな 中村汀女

2006年08月08日 | Weblog
今日は「立秋」
台風が近づいているせいか、朝から雨模様。
涼しい立秋となりました。

中村汀女は、ホトトギスで活躍した俳人。

  あはれ子の夜寒の床に引けば寄る

といった家庭的な句を詠んだ人です。

掲句は立秋を詠んだもの。
自句自註に次のように書いています。

 ただ置いてある籐椅子の向きではあるが
 それは過ぎし一夏の日を思わせ
 ふりかえらせるのだった。
 このことにはっきり気づいたのは、
 今日を、そして今年もはや立秋と知った
 なんとなき心の責めのごときものだった。

この心の責めのごときものは、
当時の家庭の主婦が共通して感じたもの
だったのでしょうか?

    

徒然草の一節です。

 をりふしの移り変はるこそものごとにあはれなり 

夏の極まったところから秋が始まる。
しかし、まだまだ暑い日が続きます。
お体を大切に。
                  遅足

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原爆忌・・広島の俳人の句          愚足

2006年08月07日 | Weblog
昨年、第40回 平和祈念俳句大会、が8月7日(土)広島市中央公民館4階ホールにおいて開かれ時の作品で、応募人員124名(1人2句)の投句を得て、いつもながらの平和を希求する俳句愛好者の熱意が感じられたそうです。
 
 主な作品は、

 ○広島県知事賞
 廃線の枕木を踏む原爆忌・・・・松原 英明

 ○広島県議会議長賞
 祈る手のケロイド汗を弾きけり・・・・木村 年男

 ○広島市長賞
 「母さん」とだけ太く書き流灯す・・・・林   明

 ○広島俳句協会平和賞(Ⅰ)
 哭く蝉と一つになりし祷りかな・・・・大原 萩尾

 ○広島俳句協会平和賞(Ⅱ)
 喜雨しみる瓦礫の一つひとつかな・・・・長谷川明子

 ○中国新聞社賞
 合掌を解かぬ羅漢や蝉しぐれ・・・・中村 初枝
 知り人のめっきり減りて原爆忌・・・・信廣 高陽
 球場に半旗掲揚広島忌・・・・田中 恵子
 平服の父の遺影や終戦日・・・・森本 弘子
 八十路には八十路の日暮原爆忌・・・・内田 大正
 電車待つ人みな無口ヒロシマ忌・・・・寺田 記代
 川清く流れるばかりヒロシマ忌・・・・務中 昌己
 敗戦日明治の母は愚痴言はず・・・・重西あつ子

 ○広島市中央公民館長賞
 起きぬけの喉の渇きや原爆忌・・・・山口ひろ女

広島を中心とした俳人たちの熱い平和の想いを読み取りました。

              
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今日は広島の原爆忌

2006年08月06日 | Weblog

朝、8時からNHKが広島の平和記念式典の
様子を生中継していました。
私がテレビ局に入社した頃は、民放各局も中継をしていました。
被爆から61年。人の心もいつの間にか、少しつづ、
変っていくものですね。

原爆忌を詠った句は多いです。

 彎曲し火傷し爆心地のマラソン  金子兜太

劣化ウラン弾による被害が広がっています。
これもきれいな原爆といわれた武器ですが、
きれいな、とはよくも言ったものです。


さすが暑い一日も、夜ともなれば少しは涼しく感じます。
夏も終りに近づくと、夜はどことなく
秋めいた感じになる。
それを夜の秋、というそうです。

 めつむれば眼鏡重たし夜の秋  神尾久美子

 夜の秋影絵あそびの指と指   片山由美子

夜に一句つくってみようかな。  

 目をつむり一句をひねる夜の秋  遅足



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暑い!暑い!

2006年08月05日 | Weblog

炎天。

昨日、今日、まさに炎天。
燃えるような天とはよく言ったものです。

今日の名古屋の最高気温は37度。
これは日陰の気温、日向は5度は高いといいますから、
42度!!ですよ。暑い!暑い!

暑い時は暑い句。
「炎天」や「炎昼」の句をプレゼント。
 
 炎昼やカンカン帽の昭和あり    中野

 炎昼や街に聖書の伝道車      静荷

 炎天を飛び越す機上の人となり   遅足

           (塔句会から) 

プロの俳人の句

 炎天へ打って出るべく茶漬飯  川崎展宏

ユーモアのある句ですね。
どこか痩せた人を連想してしまいます。

 炎天の隙間を風の来たりけり  上田五千石

そうです。炎天とはいっても、風が吹けば・・・・
のんびり昼寝でもして。

写真くらいは涼しいものを。蓼科の湖です。
東山画伯が北欧の湖を描く時に、参考にしたそうです。
  

                  (遅足)
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