575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

鶏頭            草女

2008年10月17日 | Weblog
 桑名市多度にある大きな花市場へ行ったとき、房鶏頭がとても美しかった。ワインレッドの花が太陽を透かして燃えている。そういえば最近、鶏冠のような鶏頭をあまりみかけないなと思い調べてみた。
 インド原産のヒユ科の1年草で非常に古い時代に渡来。万葉集にでてくる韓藍(からあい)はケイトウのことで染物に使った。蕪村や子規の俳句のケイトウは古代のケイトウと同じトサカケイトウ。あの鶏冠の部分は茎の先が変化したもので花はその下にある。その花を園芸家達が改良し、世界的に認められて多くの賞をうけている。
 鶏冠の部分が球状になるクルメケイトウや花冠が細い羽毛状で円錐状になるフサケイトウなどがある。
 現在の主流はフサケイトウのようで花屋にあるのはこればかり。これからの世代が蕪村や子規の俳句をイメージするときの鶏頭の花は、ちぐはぐで理解しにくくなるといっても過言ではない。鶏頭全てがトサカケイトウではなく、美しいフサケイトウになると俳句が持つ言外の世界まで変わるかもしれない。          けれど人は世に連れ、歌は人に連れという文句を聞いたことがある。だから、それでいいのだと納得。

 鶏頭の喉のあたりの種をとる        赤松恵子
 鶏頭の十四五本もありぬべし        正岡子規
 鶏頭は百姓の花肉厚く           大井雅人
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木犀    遅足

2008年10月17日 | Weblog
荻原俳句教室。先回の宿題は「木犀」
私の句は、

 別れ路の木犀の香を手ににぎる

別れ路、とは恋の別れですね、と先生。
どうしたんですか?と、追撃。

 別れ路の木犀の香の手をにぎる

なら、分かりますが、通俗ですね。
木犀の香を手ににぎる、を生かしたほうが良いでしょう。

別れ路、が湿っぽいですね。
もっと軽いものを上五に持ってきたほうが、木犀が香ります。
との診断。

そして

 夕闇の木犀の香を手ににぎる

と添削。

ウーン、ずっと良くなったなあ。


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10月句会の最終結果です。    遅足

2008年10月16日 | Weblog
出席は7人。行楽の秋、旅行に行かれた方も。
結婚40周年の新婚?旅行も。


題詠「恋」

1 焼け棒杭けむり一筋秋の風(愚足)愚山・能登・鳥野・亜子・狗子
2 ときめきも夕までもたず花木槿(晴代)朱露・能登・鳥野・愚足・郁子・静荷
3 寄りそいて石にかえれる無縁仏(遅足)朱露 ・静荷・立雄 
4 飲み過ぎて行方不明の冬の恋(朱露)郁子・麗子・晴代・狗子・立雄
5 初めての少なくなりし秋の恋(童子)麗子
6 ときめきは灰になるまで苧殻焚く(亜子)  
7 片恋ひにピリオドを打つ同窓会(郁子)童子・愚山・能登・愚足・麗子・静荷・晴代・狗子・立雄
8 訃報ありて恋の秘めごと夢のよう(立雄)愚山  
9 いつまでもいつまでも振る君への手(麗子)童子・郁子・遅足
10 夢にだにまみえずなりて薄紅葉(静荷)亜子・晴代  
11 面影のかすめる月に大誤算(狗子)朱露・遅足
12 わが恋はあわあわ咲きし黄蜀葵(愚山)愚足・亜子・遅足  
13 落日に母恋うる風曼珠沙華(能登)童子・鳥野

1の焼け棒杭の句は、恋にたけた人の句という評が。
13の能登さんが一人、母への恋を。
バラエティに富んだ恋の句。面白かったです。

 
自由題

1 秋晴れや晩学の夫教室へ(亜子)愚山・愚足・麗子・静荷・立雄 
2 魂ゆする風の道見ゆ秋桜(能登)郁子
3 わっしょいと神輿の上に秋光る(晴代)能登・愚山・郁子
4 入日さす整理のつかぬ古写真(郁子)朱露・愚足・晴代・狗子・遅足
5 この道はいつもその日に彼岸花(立雄)鳥野・麗子・晴代・遅足    
6 秋夜長素粒子のこと考える(麗子)朱露・能登・鳥野・郁子・亜子・静荷・狗子・遅足
7 頼朝の山道辿る秋の汗(朱露)狗子
8 お呪いそれとも儀式案山子立つ(狗子)
9 手術後のつらい日々過ぐ秋悲し(愚山)亜子  
10 リルリルと声満天の夜長かな(愚足)童子
11 三味の音は名古屋甚句か十三夜(静荷)童子・朱露・愚山・愚足・亜子・立雄  
12 秋風のころがっている野球場(遅足)童子・能登・鳥野・麗子・静荷・晴代・立雄

自由題はノーベル賞の句が最高点でした。
時事を取り込んだ句ですが、夜長と素粒子の取り合わせは、
いつ読んでも面白いのではないでしょうか。

    

次回は11月19日(水)午後6時 安田屋
題詠は「時雨」です。

安田屋で「しぐれ」のおにぎりを食べますが、
これって時雨と関係あるのでしょうか?宿題。




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恋句会    麗

2008年10月16日 | Weblog
今月の題詠は恋でした。
淡い思い出をたぐり寄せ、あるいは今もひそかに思い続ける恋ありて
なかなか面白い句会となりました。

トップ賞の郁子さんの

「片恋ひにピリオドを打つ同窓会」

実際に同窓会に出席した郁子さんの実体験でした。

同窓会に行きたいような行きたくないような。。。
焼け棒杭に火がつくかもしれませんが
やはり現実を突きつけられる瞬間かもしれません。

ところで昨日の句会では
どのようにして俳句を作るかという話題で盛り上がりました。
私は締め切りの日が近づくとパソコンを開けそれから
あまり時間をおかずに俳句を作る省エネ俳句。推敲が足りないのはそのせいです。

遅足さんは描写ではなくまず言葉ありき。抽象画に近い感覚です。
どんな作り方でもなぜか引かれあう俳句の妙。
たった17文字なのにさまざまな絵が描かれるのが不思議です。

来月はどんな時雨が描かれるのでしょうか?
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荻原先生はニューウェーブ    遅足

2008年10月15日 | Weblog
あるブログを覗いていたら、
1998年に出版された「新星十人・現代短歌ニューウェーブ」に
荻原先生ら10人の歌人が載っていました。
その10人の歌です。


目覚ましかはりのソフトは二十二世紀のLAの空を奏でる雲雀  荻原裕幸

いたましくホットケーキは焼き上がりきみもぼ、ぼくも笑っちゃいそう  加藤治郎

新しき柑橘の味試しみる土曜の午のかろき重たさ  紀野恵

核酸も蛋白質もラセンもちねぢれゐるなりソファに床に  坂井修一

湯に剥きし赤茄子のごとかなしめり五歳になって乳に縋るを  辰巳泰子

口紅で塗りこめる荒れた唇は楽しい嘘しか要らないピンク  林あまり

透き通る受話器のなかのカラフルな配線を視る勃起しながら  穂村弘

少女神のブラウスとなる夏空よ鈍色の鳥のボタンならべて  水原紫苑

みずうみは深呼吸せり春空へ黒羽の鷹を押し上げてゆく  吉川宏志

育つあたま死にゆくあたま頭抱けば夏はあかくて眠たかりけり  米川千嘉子


  私の感覚では理解ギリギリだったり、不可能な歌もありますが、
  なんとなく新しいという感じはあります。
  前の世代と、どういう点が違っているのでしょうね?
  そういえば、社会詠はありませんね。




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徒然なー     鳥野

2008年10月14日 | Weblog
東京弁と地方語、標準語と方言、いつの間にか日本の言葉にも格差が生まれました。
東京弁と言ってもさまざま。山の手と下町では趣きが違うし、土着の江戸っ子と流入の人とは大違い。で、標準語とは、NHKのアナウンサーがニュースを読む言葉だそうです。

堅苦しいばかりのこれに比べて、方言の限りないおもしろさ。

忘れられないのは、佐賀地方で使われている「トゼンナー」。つまり徒然、やることもなくて、退屈だなーと、無聊を訴える時に言っています。

古文で出会った表現が日常会話に生きているとは。

いま一つ。明治末年生まれの母が口にしていたのは「ダイツーサン」。名古屋弁ではディヤーツーさん。正しくは大通さん。
小粋で、物分りのよい美人。既婚でも決して奥様ではない婦人です。
「アノお人はディヤーツーサンだで・・」と羨まし気でした。

間もなく死語になる、あるいはすでに死んでしまった言葉たち。残念。

短歌には方言を巧みに生かした作品を見受けますが、俳句ではいかがでしょうか。

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10月句会の句があつまりました。   遅足

2008年10月14日 | Weblog
今回の題詠は「恋」です。いろいろな恋があります。


題詠「恋」

①焼け棒杭けむり一筋秋の風
②ときめきも夕までもたず花木槿
③寄りそいて石にかえれる無縁仏
④飲み過ぎて行方不明の冬の恋
⑤初めての少なくなりし秋の恋
⑥ときめきは灰になるまで苧殻焚く
⑦片恋ひにピリオドを打つ同窓会
⑧訃報ありて恋の秘めごと夢のよう
⑨いつまでもいつまでも振る君への手
⑩夢にだにまみえずなりて薄紅葉
⑪面影のかすめる月に大誤算
⑫わが恋はあわあわ咲きし黄蜀葵
⑬落日に母恋うる風曼珠沙華


自由題

①秋晴れや晩学の夫教室へ
②魂ゆする風の道見ゆ秋桜
③わっしょいと神輿の上に秋光る
④入日さす整理のつかぬ古写真
⑤この道はいつもその日に彼岸花
⑥秋夜長素粒子のこと考える
⑦頼朝の山道辿る秋の汗
⑧お呪いそれとも儀式案山子立つ
⑨手術後のつらい日々過ぐ秋悲し
⑩リルリルと声満天の夜長かな
⑪三味の音は名古屋甚句か十三夜
⑫秋風のころがっている野球場

さて、句会の結果はどうなるでしょうか?
楽しみです。
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「虚子・・今、思うこと」          川崎展宏氏の講演から

2008年10月13日 | Weblog
★最近川崎展宏氏の俳句に関心があってネットで検索していたら氏の「虚子」についての講演記録に出会いました。http://www5d.biglobe.ne.jp/~NANPU/kouen.html
 わからない点も多いのですが興味深かったので虚子について勉強したくなりました。                      (愚 足)

******************************
・・・近代の詩人達の多くが狂うのはそういうことではないかと思うのです。文学に致しましても、常に個人とその個人の独創が尊ばれます。そして新しさをお互いに競うのが近代文学の在り方でございます。そういうものに私はついて行けない、又、人々について行けないという共感が得られる時期が来ているのではないかと思います。
 そういう私にとりまして、今、虚子が新しいのです。新しいというのは近代の方向で新しいのではなくて、違った意味で新しい、そういう思いを今いたしております。「今、思うこと」の中心はそういうことでございます。
 そこに虚子の芭蕉の葉がございます。これをどう詠むか、
 横に破れ縦に破れし芭蕉かな (昭和9・11 新歳時記)
 どうしてこの句を真っ先に挙げるかと申しますと、ぼろぼろになるまで使っております虚子の新歳時記の中で、この一句が最近ぐーんと胸に来たんですね。そしてそのぐーんと来た気持ちを何とか今日この席でお話できたらと思いまして始めに挙げる次第です。・・・・・この句は単純そのものですね。しかし、何か背筋をただされる、詩歌の鞭で背中を強く打たれたといったある種の痛さと快感がある、そんな気持ちでこの句を受け取ったのでございます。その時に思い出した虚子の言葉があります。

 『渇望に堪へない句は、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句、無味なる事水の如き句、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句』

 この言葉だったんですね。これは明治36年10月に「ホトトギス」に発表されました「現今の俳句界」という碧梧桐の作品に対する批評の文章なんです。実は、「渇望に堪へない句は、単純なること棒の如き句」の前に「碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて」と付いております。「碧梧桐の句にも乏しいやうに思はれて、渇望に堪えない句は・・・」と続いていくわけです。                では、碧梧桐とはなにか、これはやはり個性と独創を競う近代俳句の新を求め続けるという姿勢の原点となった、そういう意味で近代俳句の非常に大きな存在だということは申し上げるまでもございません。                   <横に破れ縦に破れし芭蕉かな>が今の私には強靱な句に思えます。「重々しき事石の如き」というのは比喩でありますから、私が受け取ったのはまず強靱だなということ、それから単純なる事棒の如き句だと思います。<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>それだけなのですから。無味なる事水の如き句、ちっとも味付けがしてございません。                                 これは正に平成の現今の俳句界で渇望に堪えない句ではないかと思った訳です。この齢になって、又一つ虚子の句を発見したという思いがします。見方を変えて言えば、これは、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句じゃないでしょうか、だってただ<横に破れ縦に破れし芭蕉かな>なのですから。何じゃこれは、冗談じゃない、何にも新しくない、ただの葉っぱじゃないかということですけれど、立場を変えれば渇望してやまない句の条件をいくつも満たしている句じゃないですか。                                虚子の発言は一言でいえば、・気の利いた新しさ・を狙った碧梧桐の俳句の在り方を痛烈に批判した文章であります。私にとっては、近代俳句の問題として、現代俳句の問題として、今の自分自身の問題として、渇望に堪えないのが、単純なる事棒の如き句、重々しき事石の如き句ということですね。無味なる事水の如き句、立場をかえていえば、ボーツとした句、ヌーツとした句、ふぬけた句、まぬけた句、そういう句が出来たらなあと思います。句は授かるもので作れるものではありませんが、今こそこういう句が欲しいと思います。

 

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連想力            愚足

2008年10月12日 | Weblog
大岡信氏の折々のうたに横山悠子さんの
 【 片仮名は折れやすき文字草雲雀 】
が紹介されていた。
「折れやすい」の連想から「片仮名」と「草雲雀」が湧き出るのは思いもつかない事だ。  こうしたセンスはどこから生まれれるのだろう。
 また、毎週の朱露氏の俳句にしても、しばし考えてからニヤリとするのであるが、あの連想力もしかり。
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鷹一つ家財没収所払い    朱露

2008年10月11日 | Weblog


   鷹一つ見つけてうれしいらご崎。
   鷹は芭蕉の愛弟子の坪井杜国だ。
   米の空売りで伊良湖保美へ流刑。
   伊良湖に差羽の大群が渡る秋だ。


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根無蔓             草女

2008年10月10日 | Weblog
 ヒルガオ科ネナシカズラ属。つる性の1年草の寄生植物。発芽した始めから根がないわけではない。秋、地面に落ちた種子は春発芽し蔓をのばし寄り主をさがすときは根がある。ターゲッーゲットが見つかるとそれに巻きつく。巻きついたところから下の部分はかれはじめる。絡みついたところから寄生根を出し宿主の茎から養分を横取りする。もう完全に根無草。                     他人様の養分でどんどん成長し、ネナシカズラの茎は毛糸が絡みついているみたいになる。葉は退化して無いから宿主の光合成は妨げられない。
 秋、小さいが漏斗状の可愛い花をつける。花は集まってつき、数が多い。種子が寄生主の近くで発芽するとは限らないから大量生産する。芽生えても適当な草がなければ成長できないから個体数は多くない。

 ネナシカズラに会いたいと思い続けて、やっと願がかなった。ネナシカズラとアメリカネナシカズラ(北アメリカ原産の帰化植物)が海上の森にあった。
 こんな草に取り付かれたらたまらない。海上の森での可哀そうな植物はイタドリ。ネナシカズラは花盛りなのにそのイタドリに花は無かった。生きて光合成して他の草をせっせと養う。不条理の極まりである。イタドリに防ぐ方法は無い。   しかし全てうまくいくとは限らない。近くのアメリカネナシカズラは小さくて痩せたヤハズソウに寄生したため気の毒なくらい細い。全て運と言えばそれまでだが
が・・・・

 

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ノーベル賞   麗

2008年10月09日 | Weblog
2日続きの日本人のノーベル賞受賞、しかも名古屋にゆかりのある人、
ということで名古屋大学で働く友人にお祝いのメールをしたら
意外にもアカデミックな世界は冷静でした。

学部が違うからか話題にも上らないとのこと。
盛り上がっているのはは日頃理科系の話題に無関心なマスコミでしょうか?

でも私は素粒子やクオークなど日頃耳にしない言葉が出てくるだけで
なんだかわくわくして嬉しいのです。
自分のわからない世界でまじめに生きている人がいる。
賞を目指して研究をしているわけではないけど
それが認められることはやはり研究の神様からのご褒美だと思います。

益川先生が尊敬する湯川秀樹博士は核兵器廃絶を求めた
「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名しているそうです。
益川先生の言葉を毎日新聞から引用すると

「湯川先生の原動力は核で人類が滅ぶ恐怖だったと思う。
僕は一人一人の今の生活を守りたい。殺されたって戦争は嫌だ。
もっと嫌なのは自分が殺す側に回ること」

英語が苦手という益川先生。是非12月の受賞式では
日本語で堂々とこのスピーチをしてもらいたいです。

      目に見えぬもので平和を訴える   麗
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題詠は恋の句     遅足

2008年10月08日 | Weblog
今月の句会の題詠は「恋」。
恋、恋と思って、本を読んでいたら、
蕪村のこんな手紙を紹介する文章を見つけました。

65歳の蕪村が、自分より若い43歳の漢学者から、
遊郭通いを諌められたことに対する返事です。

  ごもっともの意見、小糸(京都の遊女)とは、
  これきりと致します。
  さりながら、求めて得た一句、
  ご批判をお願いします。

 妹がかきね三線草の花さきぬ

  この句、泥のなかに入って玉を拾った気持ちです。

漢学者のあなたも、固いことをいわずに、
恋のひとつもしたら?と軽くいなした感じですね。

恋を読むのなら恋をしなくては、
蕪村にそう言われたような気がしました。

ウーン・・・・

さて句会には、どんな句が出てくるのでしょうか?
楽しみです。








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好きなんです    鳥野

2008年10月07日 | Weblog
「俳句は難しい」「よく分らない」と敬遠していた私めに、これでもわかりませんか、というような句集が出たらしい。
残念なことに、本物の入手はかなわず、中日新聞の「俳句月評」で、ほんの抜書きを見ただけですが。

  ・  麦踏むやメフィストフェレス背後より

  ・  春昼の毬は羽化するかもしれぬ

  ・  涅槃図に行方不明の父の居て

作者は富山市の高橋修宏。月評の筆者・宗田安正は”前句集「夷狄」も好評だったが、今回の第2句集「蜜楼」ではさらにその方法と詩世界を明確にしたようだ”と賛辞を送っています。

私めは、”前衛といえる景と心象を詠みながら、有季定型をきっちりと守り、揺るぎないところ”に惹かれたりしています。

  ・  煉獄は菜の花明かりかもしれぬ

  ・  尾の見えてすめらみことの更衣(ころもがえ)

  ・  黒揚羽昼の厠に入りきらぬ
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ことし生まれの子       (清水哲夫の増殖する俳句歳時記より)

2008年10月06日 | Weblog
   秋かぜやことし生れの子にも吹く     小西来山
   どの子にも涼しく風の吹く日かな     飯田龍太

 小西来山は西鶴や芭蕉よりも若年だが,ほぼ同時代を生きた大阪の俳人だ。「酒を愛し,人形を愛し,そして何よりも俳句を愛した」俳人である。
 掲句は一見どうということもない句に見えるが,それは私たちがやむを得ないことながら、現代という時代のフィルターを通して読んでしまうからである。
 前書きに、こうある。「立秋/天地平等 人寿長短」。すなわち来山は,自分のような大人にも「ことし生れの子」にも、平等に涼しい秋風が吹いている情景を詠み,しかし天地の平等もここらまでで、人間の寿命の長短には及ばない哀しさを言外に匂わせているわけだ。このときに「ことし生れの子」とは、薄命に最も近い人間の象徴である。一茶の例を持ち出すまでもなく,近代以前の乳幼児の死亡率は現代からすれば異常に高かった。したがって往時の庶民には「ことし生れの子」は微笑の対象でもあったけれど、それ以前に大いなる不安の対象でもあったのだった。現に来山自身,長男を一歳で亡くしている。
 この句を読んだとき,私は現代俳人である飯田龍太の「どの子にも涼しく風の吹く日かな」を思い出していた。龍太は「どの子にも」の「子」に「天地平等」は言っていても「人寿長短」は言っていない。「どの子にも」という現在の天地平等、これから長く生きていくであろう「子」らの未来を言っているのだ。類句に見えるかもしれないが,発想は大きく異なっている。俳句もまた、世に連れるのでる。

★夏に三人目の孫が生まれ、この文に出会って「どの子」にも戦争・環境など不安な未来の「人寿長短」への想いが拭えないのであるが。 
 
                  (愚 足)
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