原石鼎<はらせきてい> 1886年 島根県出雲
の医家の生まれ。島根県立大社高校時代に地
元誌「山陰新報」の俳句コラムに入選。大社
高校の教師を勤め俳人でもあった「竹村秋竹」
<たけむらしゅうちく>宅に寄宿し短歌や俳句
を「国文学」に投稿するようになります。高
校卒業後、京都府立医科大学に入学。大学内
で句会を立ち上げ明星派の歌会でも活躍しま
す。しかし、2年で大学を中退。この一件で
両親より勘当されてしまいます。
石鼎は、しばらく兄の医院を手伝ったりしま
すが、上京し「ホトトギス」に入社。しかし、
長続きせず「ホトトギス」を退社し「東京日
々新聞」に入社。やがて「小野蕪子<おのぶ
し>が主宰していた「草汁」を引き継ぎ「鹿
火屋」と改称し新しい主宰者となります。
石鼎は吉野の山中で隠遁生活したことがあり、
この時、軽やかで自由な独自の作風を生み出
しています。ちなみに、石鼎は「ホトトギス」
で鮮やかな色彩の挿絵画を描いています。画
家の視点で俳句を詠んだことから、当時、色
のついた俳句と呼称されています。
「頂上や 殊に野菊の 吹かれ居り」
「秋風や 模様のちがふ 皿二つ」
関東大震災以降に心が不安定となり、師であ
る虚子から離れ、最晩年まで後進の指導に力
を尽くします。石鼎 の没後「鹿火屋」は石鼎
の妻「コウ子」が主宰。下記は辞世の句。享
年56歳。
「松朽ち葉 かゝらぬ五百木<いおき> 無かりけり」
余談となりますが、石鼎の在学時、大社高校
の教師に「大町桂月」<おおまちけいげつ>が
いました。桂月は美文調で知られる高知出身
の文人。実は家内の遠戚にあたります。そこ
で桂月について尋ねてみました。しかし、南
国市の大町家には、酒豪だった桂月の酒器が
残されている。といった程度。たしかに、桂
月より数代経ています。「明治は遠くなりに
けり」といった感。
写真と文<殿>