「散歩の収穫」は赤瀬川源平だが、暇人の散歩の収穫はガラスの浮き球である。
今日銭函海岸へ散歩に行って、波打ち際で小さなガラスの浮き球を拾った。
今時ガラスの浮き球は珍しい、しかもほとんどキズが無い、何年も海上を
漂った後此処に打ち上げられたのか。
小さなガラスの浮き球に思いを馳せてみるものの、所詮暇人の収穫は浮き球一つ。
それ以上は画にも文章にも成らないのである。
島崎藤村はヤシの実一つで詩を書いた、それも柳田国男からの聞きかじりで、
暇人にとっては、浮き球は浮き球以外の何物でもないという現実しか頭に浮かばない。
「故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月」
ふむふむ・・・解る・・・この浮き球も同じ様な歳月を送ったのだろう。
でもその後の詩文「孤身(ひとりみ)の浮寝の旅ぞ~いずれの日にか国に帰らん」
までは自意識過剰に思えるのだが、黙って「海の日の沈む」を見ていれば良いものを。
思いを自己の内に留めて置くことが出来ないのが芸術家なんだろうな。
でなければ、作品が後世に残らない。