26・日坂(佐夜の中山)
金谷から七.二粁で次の宿、遠州日坂に達するが、その途中に、佐夜(小夜)の中山がある。ここに夜泣石の伝説がある。日坂の妊娠した女が金谷の夫を訪ねる途中、この佐夜の中山にかかった時に山賊のために斬り殺された。しかし、腹の子は助けられ、附近の女がこれを飴によって育てた。母親が殺された時の血が傍らの石にかかり、その石が夜な夜な泣いたというので、この石を夜泣石といった。この夜泣石は現在もあり、子供を飴で養育したというので、子育飴として名物になっている。
広重は画題に「佐夜ノ中山」とある通り、街道にある、この夜泣石を描き、このあたりの坂道を面白く見せている。坂道の高低を幾分の誇張もあるが、実に巧みに描写している。夜泣石の周囲に集まっている旅人の伝説を偲ぶ府有情が修逸である。右手の山が左へ明るく開けた構図もいい。また、街道の左右に、まばらに立つ松の木がこの絵を生かしている。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
金谷から七.二粁で次の宿、遠州日坂に達するが、その途中に、佐夜(小夜)の中山がある。ここに夜泣石の伝説がある。日坂の妊娠した女が金谷の夫を訪ねる途中、この佐夜の中山にかかった時に山賊のために斬り殺された。しかし、腹の子は助けられ、附近の女がこれを飴によって育てた。母親が殺された時の血が傍らの石にかかり、その石が夜な夜な泣いたというので、この石を夜泣石といった。この夜泣石は現在もあり、子供を飴で養育したというので、子育飴として名物になっている。
広重は画題に「佐夜ノ中山」とある通り、街道にある、この夜泣石を描き、このあたりの坂道を面白く見せている。坂道の高低を幾分の誇張もあるが、実に巧みに描写している。夜泣石の周囲に集まっている旅人の伝説を偲ぶ府有情が修逸である。右手の山が左へ明るく開けた構図もいい。また、街道の左右に、まばらに立つ松の木がこの絵を生かしている。
絵の出典:食るり愉るり知多半島
※歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日(1858年10月12日)
浮世絵師。江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となったが 現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある[2]。 また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』