8:難波屋おきた
浅草観音境内の水茶屋難波屋の娘おきたは歌麿が最も数多くモデルにして描いた評判娘である。島屋おひさと対照的な顔立ちで、鼻すじから顔全体に整いすぎむしろ冷たい感じを与える。寛政時代歌麿が最も脂ののりきった頃の作品で、幾多のおきたの絵柄のなかでもこれは特にすぐれている。淡藍のひとえに黒繻子の幅広の帯、高く結い上げた娘島田から見事に流れるうなじの線と、全体の構図も申し分がない。
※喜多川歌麿
江戸時代の日本で活躍した浮世絵師の代表的な一人。
姓は北川、後に喜多川、幼名は市太郎、のち、勇助(または勇記)と改め、名は信美。
初号は豊章といい、歌麻呂、哥麿とも号す。
通常は「うたまろ」と読むが、秘画本には「うたまる」としているものもある。
俳諧では石要、木燕、燕岱斎、狂歌名は筆の綾丸、紫屋と号して、蔦屋重三郎とともに吉原連に属した。
国際的にもよく知られる浮世絵師として、葛飾北斎と並び称される。
繊細で優麗な描線を特徴とし、さまざまな姿態、表情の女性美を追求した美人画の大家である。
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