3:大谷徳次の奴袖助
寛政六年五月都座の「花菖蒲文禄曽我」に出る仇討ちをする方の奴の袖助を描いた作で、大谷徳次は当時の道化役の一人者であった。
その滑稽味が、下がった眉、つぶらな眼に、よく現れている。
写楽が役者、役柄を表現した佳作の一つである。
この絵で、写楽は人物を思いきって左へよせ、右側をひろく空間にするという構図法をとって成功している。
つまり落款さえも右下に入れて、顔の前面に余裕をもたせることで、徳次の動く美しさがあり、また顔面描写がさらに生きている。
また、この写楽は、彼の独特な構図法よく用いるのであるが、三つの類似型のつみ重ねをみせている。
すなわち顔の輪郭と、右手のコブシの形の大小二つの類似型、これによって左側を固め、これに対して刀の鍔下を握っている左手の同型の類似型を描くことで、絵の均衡と安定がはかられている。
色彩は、渋い着物の色を大部分とし、あとは僅かな部分の濃い黄と朱だけで、その中で刀の鞘の朱の色が全体のきき色となっている。
少ない描線、少ない色彩で絵の効果を考えるのは、写楽の絵の特色であるが、その特徴を最もよく知ることのできる作品といえる。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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