
4:三世佐野川市松の祇園町の白人おなよと市川富衛門の蟹坂藤馬
写楽は、第一期作品中で半身二人立の絵を五図描いているが、これはその内の一図で、やはり「花菖蒲文禄曽我」の狂言に登場する二人である。
写楽はこれら二人立半身図の上で、つねにいくつかの対照をとらえている。
この絵にあっては、佐野川市松の痩せた顔と市川富右衛門のふとった顔、市松の上がり眉と富右衛門の下がり眉、市松のおさ形の眼と富右衛門の丸い眼、といったようにそれぞれの対照によって絵に変化を与え趣きをみせている。
この絵は無雑作に二つの肖像を寄せ集めたような感じであるが、前述のいくつかの対比の妙によって巧みに連絡をみせている。
市松の白人おなよを一人立で描いた絵は別にあるが、この絵ではむしろ富右衛門の描写を見るべきである。
この蟹坂藤馬という役は、悪人たちの方の人物であるが、たいした役でなく、富右衛門も上級の貧乏らしさ、これが市松の白人(私娼のこと)おなよの派手さと、これも画面の上の対照としての面白さをみせている。
三世佐野川市松は、当時若女形として上位にあった。
初代は石畳模様(俗に元禄模様という)の衣裳を用いて流行になり、市松模様の名を起こした役者である。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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