19:三世坂東彦三郎の鷲坂左内
寛政六年五月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」に登場する人物鷺坂左内を描いたのがこの絵である。この狂言の由留木家の御家騒動で悪人方は鷲塚官太夫で、善人方は鷺坂左内である。この図は伊達の与作の勘当場の左内であることが絵本番附によってわかる。端正な彦三郎の風貌が、この役にぴったりであることが、その顔の輪郭、眼の上の中途からひかれたマブタの筋の弧線と引き上げられた眼、力強い唇の線などによって十分把握されている。いかにも切実味のある表情である。そして構図的に、ここにも写楽独特の類似型描写が見られ、つまり左内の左向きの顔と右手にもつ雪洞の形の類似の二つが左右にあって、この絵に安定が与えられている。色彩は濃く、濃紫の着付けと橙色の肩衣が、写楽としては珍しく濃厚で、この配色いささかしつっこい。しかし、この絵が夜であることを考えると、写楽の意図もそこにあったのではないかと考えられる。
三世坂東彦三郎については、第九回配画の解説に記してあるが、「場当たりを好まず」「コセつかぬ芸風」の評語そのままがこの絵に現れ、「至って実体なる気質、民俗律義なり」の彦三郎の性格も表現されている。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寛政六年五月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」に登場する人物鷺坂左内を描いたのがこの絵である。この狂言の由留木家の御家騒動で悪人方は鷲塚官太夫で、善人方は鷺坂左内である。この図は伊達の与作の勘当場の左内であることが絵本番附によってわかる。端正な彦三郎の風貌が、この役にぴったりであることが、その顔の輪郭、眼の上の中途からひかれたマブタの筋の弧線と引き上げられた眼、力強い唇の線などによって十分把握されている。いかにも切実味のある表情である。そして構図的に、ここにも写楽独特の類似型描写が見られ、つまり左内の左向きの顔と右手にもつ雪洞の形の類似の二つが左右にあって、この絵に安定が与えられている。色彩は濃く、濃紫の着付けと橙色の肩衣が、写楽としては珍しく濃厚で、この配色いささかしつっこい。しかし、この絵が夜であることを考えると、写楽の意図もそこにあったのではないかと考えられる。
三世坂東彦三郎については、第九回配画の解説に記してあるが、「場当たりを好まず」「コセつかぬ芸風」の評語そのままがこの絵に現れ、「至って実体なる気質、民俗律義なり」の彦三郎の性格も表現されている。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』