20:坂東善次の鷲塚寛太夫の妻小笹 岩井喜代太郎の鷲坂左内の妻藤波
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この絵は坂東彦三郎の鷲坂左内の絵と同じく、寛政六年五月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」の登場人物であるが、つまり善人悪人の二人の妻を描いている。第一期作品中二人立半身像は五枚あるが、この図だけが対面でなく、同一方向を向いた構図となっている。そのために、構図的にいささか平板である。また描線が多いのも写楽の画法としては異色である。また同じ系統の色彩が、二人の打掛と帯の色に用いられているのも疑問である。しかし、これらの点があったとしても、坂東善次の屈曲のある力強い性格描写には写楽の鋭い芸術力が見られる。悪方の女形としては圧巻である。これに対して、喜代太郎の屈曲のない、おだやかな顔には善人方の女形の雰囲気が十分見られ、着附けの薄紅に年の若さが示されている。また二人の手の描写にも善悪の姿が見られる。二人の眼の形は違うが、目線が合っているのは、伊達の与作と乳人重の井の二人にそそがれているであろう。これでこの絵は生きている。
坂東善次は当時実悪方であったが、そう上級の役者ではなかったが写楽は善次をこの絵の外にも描いている。そのマスクを写楽は好んだのであろう。岩井喜代太郎は、半四郎の門弟で天明七年、かるもから喜代太郎となった。寛政六年当時は、「上上半白吉」の位にあり、第一流の女形ではなかった。写楽はつねに上級の役者ばかりは描いていない。そこに特色がある。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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この絵は坂東彦三郎の鷲坂左内の絵と同じく、寛政六年五月河原崎座上演の「恋女房染分手綱」の登場人物であるが、つまり善人悪人の二人の妻を描いている。第一期作品中二人立半身像は五枚あるが、この図だけが対面でなく、同一方向を向いた構図となっている。そのために、構図的にいささか平板である。また描線が多いのも写楽の画法としては異色である。また同じ系統の色彩が、二人の打掛と帯の色に用いられているのも疑問である。しかし、これらの点があったとしても、坂東善次の屈曲のある力強い性格描写には写楽の鋭い芸術力が見られる。悪方の女形としては圧巻である。これに対して、喜代太郎の屈曲のない、おだやかな顔には善人方の女形の雰囲気が十分見られ、着附けの薄紅に年の若さが示されている。また二人の手の描写にも善悪の姿が見られる。二人の眼の形は違うが、目線が合っているのは、伊達の与作と乳人重の井の二人にそそがれているであろう。これでこの絵は生きている。
坂東善次は当時実悪方であったが、そう上級の役者ではなかったが写楽は善次をこの絵の外にも描いている。そのマスクを写楽は好んだのであろう。岩井喜代太郎は、半四郎の門弟で天明七年、かるもから喜代太郎となった。寛政六年当時は、「上上半白吉」の位にあり、第一流の女形ではなかった。写楽はつねに上級の役者ばかりは描いていない。そこに特色がある。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』