17:二世坂東三津五郎の石井源蔵

この絵は、寛政六年七月、河原崎座上演の「二本松陸奥生長」に登場する敵役、川島治部五郎を描いた作である。この狂言の四立目富田介太夫を殺すのが、この川島治部五郎であるが、この場に現れる市川男女蔵の富田兵太郎(介太夫の子)の絵も写楽にあって、これは二枚続きとなる絵であるが、この鬼次の一枚だけでも独立した名画であり、細判中の傑作の一つである。背色の鼠地は暗夜が示され、その鼠地に対して、着付の濃い灰色(濃緑のもある)と襦袢の紅は、何か陰惨な敵役を現し、頬被りの手拭の白が、いかにも不気味である。右手をあげて兵太郎から顔をかくし、左手でぐっと柄頭を握った形。そして上半身から下肢へかけての力強い彎曲。また衣紋をあらわす描線の力強さ。赤い目隈と青い髭あとに彩られた顔面と横目に睨んだ表情の見事さ。内面的な写実と殺し場という雰囲気が、これ以上には描き得ない極致を見せている。
二世大谷鬼次は、三世大谷広次の門人で、永助、春次をへて師の前名鬼次をついで、写楽はこの襲名のときの狂言も描いているが、同八年十一月に三十六歳で没した。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

この絵は、寛政六年七月、河原崎座上演の「二本松陸奥生長」に登場する敵役、川島治部五郎を描いた作である。この狂言の四立目富田介太夫を殺すのが、この川島治部五郎であるが、この場に現れる市川男女蔵の富田兵太郎(介太夫の子)の絵も写楽にあって、これは二枚続きとなる絵であるが、この鬼次の一枚だけでも独立した名画であり、細判中の傑作の一つである。背色の鼠地は暗夜が示され、その鼠地に対して、着付の濃い灰色(濃緑のもある)と襦袢の紅は、何か陰惨な敵役を現し、頬被りの手拭の白が、いかにも不気味である。右手をあげて兵太郎から顔をかくし、左手でぐっと柄頭を握った形。そして上半身から下肢へかけての力強い彎曲。また衣紋をあらわす描線の力強さ。赤い目隈と青い髭あとに彩られた顔面と横目に睨んだ表情の見事さ。内面的な写実と殺し場という雰囲気が、これ以上には描き得ない極致を見せている。
二世大谷鬼次は、三世大谷広次の門人で、永助、春次をへて師の前名鬼次をついで、写楽はこの襲名のときの狂言も描いているが、同八年十一月に三十六歳で没した。
※東洲斎 写楽
東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、旧字体:東洲齋 寫樂、生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師。
寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年3月にかけての約10ヶ月の期間内に約145点余の錦絵作品を出版し、忽然と浮世絵の分野から姿を消した正体不明の謎の浮世絵師として知られる。
本名、生没年、出生地などは長きにわたり不明であり、その正体については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波の能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、1763年? - 1820年?)だとする説が有力となっている。
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