ペンションに行くには8年ほど前に行った 藁葺き屋根の家屋が多く残され今は里山の伝統的農村として維持されている
美山町へ入る直前に27号線で和知町を通る。
この27号線は由良川に沿って走るが、道沿いの4、5キロにわたってなだらかな山の斜面に大小さまざまな農家がいい間隔で点在し、
甲州か信州を中央線の車窓から見るような風景だった。
走行する車も少なくゆっくりこの空間を楽しみながら走ったが、京都府にこんなところがあるとは知らなかった。
道の駅「和ーなごみ」で昼飯にした。
蕎麦定食と鮎の塩焼きを頼んだ。期待した以上の味で殆ど満員の席の理由がわかったような気がした。
「道の駅」というものの存在は、今から5年ほど前に、兵庫県と鳥取県の県境に近い新戸倉スキー場にある友人の野本君の山荘に誘われて、
中国道の山崎インターで下りて一般道を北上して走った時に知った。
要は一般国道のサービスエリアにあたり、当時の建設省の補助金を受け、市町村が事業主体になって建設、運営をしている車の旅人のための休憩所である。
パーキングエリアとトイレ設備に地元産品の販売店と食堂が併設されている。
最近は殆どの「道の駅」は業者に丸投げ委託で運営されるようになり、売っているものも野菜や果物の
農家直売品以外はいかにも土地のもののように見えるが、実際は大量生産の業者品が多くなっている。
ところが、この地の「和」という「道の駅」はレストランも土地の女性たちが勤め、店の産物も垢抜けないが
この町で作られた物が多く、鮎の甘露煮、黒豆羊羹、蕗の薹の佃煮などつい沢山買物をしてしまった。
ここは、いままで中国、四国、近畿地区を含めて訪れた「道の駅」の中でベストの駅だった。
◎ペンションからそう遠くないところに「北山杉資料館」があった。
北山杉の植樹から育成、伐採、床柱までの製品化の過程がパネルや実物で展示してある。
主として数寄屋造りの磨丸太や茶室などに使われた高級床柱も、今は需要がどうなんだろうと思いながら見てまわった。
室町時代から全国の分限者、御大尽、旦那衆が珍重した日本文化の粋の一つだったのだろうが、
戦後の嫉妬の税制のお陰で世界で唯一の社会主義国家となった日本で、そのユーザー層が数少なくなり、
こういう製品を購入する需要がどれだけあるのかと思ってしまった。
10数年前まで多くの皇族が見学されたようでそのおりの写真も沢山置いてあった。
江戸時代からこのあたりの村の人達は男女共に分業化し、このブランド化した製品で日本全国へ
販路を広げていたようだ。 京都ブランドは当時から価値があったのだろうと思った。
◎帰りは周山街道を次に高雄へ走り、何十年かぶりに神護寺に参拝して「嵐山・高雄パークウェイ」に入った。
途中の展望台から保津峡を眺め、嵐山に下りて渡月橋をわたってしばらく走ったところで、街の中を「舟」が動いているのが見えた。
保津川下りの舟が終点につきトラックに三杯ほど重ねて載せられ、また亀岡の出発点まで運ばれるているのだった。
話には聞いていたが、京都の狭い街中を舟が移動していくのは不思議なみものだった。トップの画像。
◎帰りは名神が混んでいるかもわからないので171号線(西国街道)に乗った。
そのお陰で、山崎付近を走行中に「大山崎山荘美術館」がこのあたりにあるはずと思い出した。
アサヒビールが「荒廃していた元加賀家の洋館」を買い取って復元したこの美術館は、戦前の関西のブルジョア資産家の一典型の御屋敷かと思う。
天王山の南麓にありテラスから木津、宇治、桂の三川が合流して淀川になるのが見えて驚いた。
まあ、本当に戦前の金持ち、資産家というのはヨーロッパの貴族階級とまではいかないにしても凄いもんやと実感する。
芦屋の六麓荘の広大な御屋敷街も田園調布の比ではないらしいが、ここも戦後の相続税制のため、大正時代当初の所有者の係累はもはや誰も住んでいないと聞いた。
◎171号線に戻って道路情報を携帯で聞くと、名神の下りは渋滞はないのがわかったので茨木インターで名神に乗り、阪神高速の魚崎ICで下りて家に帰った。
トリップメーターは382キロになっていた。 2002年8月記。
画像は全てネットから蒐集。