(1977年10月入国)
オーストリアのリンツに本社がある鉄鋼&エンジニアリング会社のフェストに設計責任者の伴さんと二人で出張しました。
韓国の製鉄会社のある設備案件に応札した結果、最終選考(ショートリスト)の数社に残ったので技術応札仕様書の説明を求められたのです。
技術条件に関する交渉のとっかかりなので、本件のパートナーの商社の同行はなくメーカーの我々だけの出張でした。
リンツの空港で伴さんのトランクがその日のうちに受取れず、調査を頼んで結局、翌日の便で途中経由したロンドンのヒースロー空港から到着しました。
遅れて着いたトランクはバールでこじ開けられ、中を荒らされ鍵も壊されていました。
当時、日本からの手荷物がヒースローでの積み替え時に、軒並みこじ開けられ中の現金が抜かれていた頃でした。
日本のツアーの人たちがまだトランクの表に大きくローマ字で名前を書いたり、荷物の中に現金を入れていると思われていた昭和52、3年頃の話です。
トランクの中身は技術資料だけで金目のものはなく、実害はなかったけど不愉快なことでした。
伴さんのトランクは買い替えたばかりの新品で、私のはもう何年も使い古し、宿泊したインドやインドネシアのホテルのベルボーイが
宣伝の為に勝手に貼るホテルラベルがべたべた貼られた年代物だったのが、日本人の物とおもわれず、彼らの目をつける対象外になったのかもしれません。
打合わせが終って、リンツのホテルの近くの食堂で、夕食にウインナーシュニツエルを食べてうまかった話はだいぶ前に書いたことがありますが、
この本場の子牛のカツレツはパリっと仕上がっていて本当にうまかったです。
その後、日本のレストランでメニューにウインナーシュニツエルがあれば必ずオーダーしますが、同じ味に巡り合ったことがありません。
向こうでは普通の(おばんざい)でしょうから、何と言う事はない「土地の料理」がうまさにつながっているのかも知れません。
仕事が終ってウイーンに出ました。路面電車の走る薄暮の町を歩き、ここで中華メシでなくともと思ったが、
英語が通じるかどうかわからん肩の凝るレストランを避けて、ヨーロッパのどこの国にもある支那飯屋に入りました。
店の女の子は東洋人のバイトの子で、聞くと声楽の勉強で当地に留学している日本人でした。
定番の焼き飯とヤキソバをオーダーし、結構本場の味付けのうまいものでした。
ヨーロッパでも、どこも支那飯屋のコックは中国人のオヤジだからまず間違いはありません。
余談ながら、このあいだ日経の夕刊の「旅は未知連れ」というコラムにウイーンの「スシ」店のことが出ていました。
90年代に日本人の経営ではない「スシ」店が現れ、数年にして20を越す店がひしめくようになったとある。
20数年前には、ウイーンの町には日本飯屋はあったかもしれないが、寿司屋はなかった。
ヘルシーがキーワードとは言えここまで世界を席巻するとは驚くが、これも寿司ロボット、回転すしベルトのハイテク装備の開発、輸出がバックにあってこそらしい。
北陸地方のみにいくつかあるこれらのメーカーは商売運営のソフト込みで世界に回転寿司ビジネスをいまだに売り込み中らしい。
ロンドン、パリ、モスコーなどの寿司レストランの経営者は中国人か韓国人が殆どのようですが。
ウイーンには当時の私の勤務先からJETROに出向していた竹ノ内さんが駐在されていました。
日本から連絡しお願いしていたこともあり、翌日の日曜日に車で市内を案内して頂いた。
印象に残っているのは;
「ウイーンの森」の大木がどこまでも連なるその下の地面に雑草が全くといっていいほどないこと。ずうっと土が見えている。
緯度が高いので太陽光のエネルギーが日本なんかと比較にならないほど弱くて、夏でも雑草が生えないのではないかとの説明だった。一口に森といっても、全然違った。
オモテは音楽の都ではあるが、実際は東西の情報戦の最前線であると聞いた事。ベルリンの壁が崩される日が来るなどと誰も想像だにしていなかった頃で、
ここに住む西側、東側の各国の人間は表面の職業はいろいろだが、殆どCIAなど全世界の国のインテリジェンス関連の人間だと聞いた。
お上りさんとしては当然、映画「第三の男」で(オーソン・ウェルズ扮する)ハリーの愛人の女性がチターの演奏をバックにコツコツと歩み去った
枯れ葉の積もった並木道にも連れて行ってもらったはずだが、こちらはあまり覚えていない。
後はまあ、オーストリア帝国時代の宮殿や大聖堂などヨーロッパの一つの貴族文明の拠点を示す凄い建築物と庭園があったと思いますが、
8年間の貿易部所属時の海外出張で撮った写真類は、この20数年間段ボール箱に全て放り来んだままで整理してないので、全てはおぼろげな記憶であります。
2002年頃 記。
画像は全てネットから借用。出張時に撮影したものではありません。
リンツ Wikipediaから部分引用
ドナウ川沿いに位置する商工業都市。近隣の都市としては、約70キロ北西にドイツのパッサウ、150キロ東にウィーンが位置している。
歴史
古代ローマ帝国によって設けられた砦がリンツの起源である。8世紀末にLinzeという名称が史料に現れる。13世紀に都市特権を得た。15世紀には神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世の居城がおかれた。18世紀後半に司教座がおかれ、学問・芸術の中心地として発展していった。1882年にドイツ系民族主義運動の綱領が発表され、1926年にオーストリア社会民主党党大会が開催された地として知られている(リンツ綱領 (1926年) 参照)。第二次世界大戦中のナチス統治時代には、ヒトラーの故郷に近かったことから、巨大な美術館を建設する計画などがあったとされる。また、ヒトラーは大戦勝利後にリンツの街を都市改造し、「ヒトラポリス」に改名する計画を建てており、巨大なリンツの模型を作らせて総統地下壕でも飽かずに見ていたという。第二次世界大戦後はウィーンとドイツのミュンヘンをつなぐ結節点として、工業が飛躍的に発展を遂げる。