![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/0c/b4e5cc7cb98245d93ee6ce666c556a7e.jpg)
今年も節分の日に焼いたイワシを食べたあと豆まきをした。家中の窓という窓を順番に開けて、トイレや風呂の窓も忘れずに、
大声で「鬼は外福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言ってまわる。子供の頃、この「ごもっとも、ごもっとも」と言うのが何とも気恥ずかしかった。
親の勤務地に付いてまわって転校した九州若松でも、尼崎の塚口でも、三重県の四日市でもクラスの誰に聞いても、家ではそんなこと言わないという。
酒の入った父親が「鬼は外、福は内」と大声で叫ぶと、それに続けて家族が「ごもっとも、ごもっとも」と大声で囃やさないといけないのだが、
友達や近所の人に聞こえないように、つい小さな声で「ごもっとも、ごもっとも」と言ってしまう。そんな時、父は後ろを振り向いて
「声が小さい、鬼が家に入ってきたらどうする」と怒るので、もうやけくそで兄弟揃って父の後について「ごもっとも、ごもっとも」と大声を張り上げたものだ。
そして今、自分が家族を持って、同じ事をしている。千葉県南柏や茨城県藤代町に住んでいた時も、そしてもう十数年住む神戸でも、
恥ずかしがり嫌がる娘達を幼稚園の頃から、叱咤激励、時には脅して「ごもっとも~」をやってきた。
もし「ごもっとも」を言わなかったらうちの家は、この一年大変なことになると言って。
そのお陰か、我が家では節分の日の定番としてしっかり定着し、私が3年強広島で単身赴任して不在の日にも、節分には二十歳過ぎの娘達が
「ごもっとも」をやってくれていたそうだ。(ほんまかいなと多少は思うけど)
今年の豆まきは、家族の中でも「ごもっとも」発声に一番抵抗してきたヨメさんと二人でしたが、驚いたことには二人では張り合いがないから、
今年はやめとこかと言う私に「今まで続けてきたのに何いうてるの」と率先して彼女が大声を張り上げた。
震災の年だけはそれどころではなかったけれど、考えたら結婚して二十八年、我が家では出張や単身赴任で抜けた私の回数より彼女の「ごもっとも」
発声回数が多いんやと思い当たった。今年はいつもよりキレイにハモッて「鬼は外、福は内、ごもっとも、ごもっとも」と言えたような気がする。
亡父にも故郷の従兄弟たちにも聞いたことはないが、おそらく父が生まれ育った信州の諏訪湖畔、小和田地区では江戸時代以前の昔から、
こういう風に言っていたのではないかと思う。
先祖は日根野氏が諏訪の高嶋城を築城する時に、立ち退きを命じられ、近くに集団移転させられた連中のうちの一族だと言っていたから、
もともと古くから住みついていた住民だと思う。
今年も遠い諏訪のあの地区で「ごもっとも、ごもっとも」が飛び交ったか、あるいは本家のイギリスではとっくに廃れた習慣がアメリカで
残っているのと同じように、諏訪ではもう廃れたかも知れないが、今年も神戸市の一軒の家から、老年に差しかかってはいるが声は若い
「ごもっとも、ごもっとも」の斉唱が、神戸の夜空に吸い込まれていきました。
☆このエッセイは2002年2月の神戸新聞文芸欄「エッセイ・ノンフィクション部門」に、小和田 満 の筆名で投稿し幸い入選、同年5月27日の同紙上に掲載されたものです。
◎文献にはこんな記載があります。
1。「諏訪の年中行事」 全161頁 昭和24年2月20日発行
著者 諏訪教育会 発行所 蓼科書房
正月行事 の63頁 2月節分の項目
(豆撒き)
○「豆撒き」は「鬼打ち豆」ともいって、炒り上げた豆を必ず一升ますに入れて、熱い
うちに年男か男の子供が大声に「鬼は外、福はうち」と唱えながら、上座敷から
順次家中を撒きあるく。
○撒く時の様子は家によって多少の違いがある。「鬼は外」は外に向かって大声に、
「福は内」は内に向かって小声にいう家、「鬼は外、福は内、鬼の目へビチャリン
(ブッツブセ)(パチリン)」と唱えて家の内外へ撒いてから少しずつ天井に投げつける家、
仮想行列をして下男迄がつきあるいて賑やかにやる家、又、一人が豆撒きをする後へ、
一人が擂粉木を持ってつき歩き、てくんてくんと上下に動かしながら「ごもっともごもっとも」と受答えて
騒ぐ家などがある。
*母の里は諏訪市の隣の現在の茅野市玉川の中でも八ヶ岳のなだらかな麓のかなり上の
方の地区ですが、相方によると母が南柏や藤代の家に節分の頃に来たときは、
一緒に豆撒きをして、「鬼は外、福は内、鬼の目を ブッツブセ」と言って豆を撒い
て、嫁と孫を喜ばしてくれたと今回思い出して教えてくれた。
「家によって多少の違いがある」という通りですね。 残念ながら、辛好は出張で不在か
東京にいてもその時間には麻雀か酒で家には帰らなかったのでそのことを知らなかった。
2。旭ガラス月刊PR誌「GLASS & ARCHITECTURE」の記事
「連載 ■コミュニテイセンターとその周辺(13)<小和田>」
昭和46年8月5日発行 著者 本多昭一 発行 旭ガラス(株)
16頁~26頁
この小和田地区で400年以上住民に維持されてきた共同浴場(自泉噴の温泉を利
用)をコミュニテイセンターとして捉え、レポートしたこの記事は、お上と関係なく
住民が地域を自治的に運営した多くの庶民の歴史の一つとして面白い。22頁の記載
「新信濃風土記」という本によれば、天正19年(1591年)に、豊臣秀吉の家
臣、日根野織部正高吉が、(諏訪)湖中の高島の漁村50戸を小和田に移して、
高島城を築いたということですが、この「移した」というのが重大事件だったろうという
ことは容易に想像できます。
・・・中略・・・・高島村の人たちは、湖の中の島(現在の高島城のあたり、現在は
陸続きですが、昔は湖が大きかった)に住んで、湖で漁をしたり、田んぼ(現在の小和田田んぼあたり)
で稲作をしていたわけですが、日根野氏が「城をつくりたいので立ち退いてくれ」というので、
話し合いで、住居地として現在の小和田の土地をもらうとともに、特権として諏訪湖全体の漁業権
を得たということです。・・・後略・・
◎一昨年NHKで京都の俵屋旅館の特集番組がありました。友人のTさんが「ごもっともごもっとも」を
俵屋でやっていたのでとその番組を録画したDVDを頂きました。
なるほどこの風習は京の都から信州諏訪へ伝わった習慣のようです。Tさんありがとうございました。
⇒実際に俵屋で節分を体験した方のサイトから。
「鬼はそと♪ 福はうち♪」「ごもっとも♪ ごもっとも♪」宮司さまとお泊りしている方々とスタッフのみなさんと
心をひとつにして邪気を追いやりましたヽ(^。^)ノ
お参りをさせていただいたので 今年も元気にスタートです(^-^)
(2018年2月3日のエントリーを再掲載)
姉の旦那は医者の不養生で早くに亡くなりましたが豪快な酒飲みで手当てには定評のある内科医で私も良く触診して貰いました。
家の伝統は大切ですね。何十年も昔、天台宗のお寺から、大きな枡に豆といろいろなお菓子を頂いた事があります。豆は外に、お菓子は家に投げて楽しんだ事を思い出します。思い出は大切な財産ですね。
が家の物語・ストーリー」を書き残すようにしていま
す。大きくなって読むか読まないかは彼ら次第(笑)。
自分は身近に親戚が誰もいない流れ者の人生でしたが
ルーツが信州諏訪と知ってからはそれが一つの支えに
なりました。