愛媛県新居浜市在住のIさんは、高松出身で、高松市観光大使のポストについており高松のあれこれを伝えています。
今回のシリーズの最終回です。⇒「四国民家博物館、通称【四国村】は屋島山麓にあります。
村の入口。↑ 昔、四国は本州から隔絶した島で山々には神仏や天狗が羽ばたいている神秘の国だった。
約三百年前の四国の先人達はどのような暮らしだったのか、四国全県からその一部を移築した場所です。
家の内部は狭く暗いが頑丈な大黒柱が屋根を支え祖父母から孫まで大家族が寄り添い
「いろり」を囲み一家団欒の暮らしがあった。心はすさみ感謝を忘れ自然の恵みを感じない現代人。
親子断絶など問われる荒廃とした現代人に何を訴えようとしているのか。
祖谷のかずら橋ミニチュア。 徳島祖谷地区は平家の落人村として知られる四国の秘境。
白口かずらを3年に一度編んで直しているがこの一本のみ現存している。
ミニチュアといえどもスキマが30センチもある箇所がありブラブラ揺れてヒヤッとする。
小豆島から移築された歌舞伎舞台。 島の人達のたった一つの楽しみが春秋の祭りの島歌舞伎の舞台。
約150年前の江戸末期のもので役者は地元農民が演じて島中が笑顔で一杯だったようです。
歌舞伎舞台の全景。 実際に歌舞伎の催しをするため観客席を設けてある
旧 山下家住宅。 香川県東さぬきの江戸時代の山村農家。
家の半分は農作業用の土間とられ 「おくどさん」と呼ばれるかまどを炊くと家中が煙に覆われる。
「よまし」と呼ぶ麦ばかりの飯を食べ早朝から働き親子兄弟も同居して床は家族共同であった。
このような環境で夫婦生活もどうやら不自由だったみたいですよ。
母屋の横の手洗いと風呂
旧 河野家住宅。愛媛県南の小田町から移築。 他の家では見られない珍しい形式、手法である。
18世紀前半のもので土間脇に茶の間、その奥に座敷の二間取りで床は全て竹を敷いて
各部屋は「いろり」がある。土間は和紙の原料の楮(こうぞ)を蒸すクドと大きな桶が吊下がっている。
香川県白鳥町から移築。 円形の砂糖〆(しめ)小屋は四国では下とあわせ二棟しか現存しない。
江戸後期、砂糖は讃岐の特産品だった。薩摩の黒砂糖に対して白糖で日本一を誇っていた。
讃岐平野にサトウキビ畑が広がり搾汁の〆小屋が点在していた。
3個の石臼があり牛が1日中腕木を引いて回った。円形なのは牛の回転にあわせ作られた
釜屋と言われ絞られた砂糖の生汁を煮沸しアクを取り純度を上げていく建屋で現存して希少価値がある
高知と愛媛の県境のあちこちにあったお堂(19世紀中頃のもの)
お遍路さんの休憩場でもあり道行く人に湯茶の接待をした場所。土佐脱藩の坂本龍馬もここでひと休みしたかも?
広島県三原市の沖合いの小さな島から移築。 明治27年に初点灯し光源は石油からアセチレンになる。
戦時中は軍事秘密のため地図から島が消されていた時期もあった。
燈台退息所(燈台守の家族の住居)
日本の洋式燈台の初点灯は明治2年、東京湾入口の観音崎であるが瀬戸内海ののどかな島に設計、監督のため英国人が
やって来たので異国人に驚き長老達は裃着用し刀を携えて出迎えたと記されている。
鍋島燈台退息所。香川坂出の沖合に明治5年に建設。本格的な石造りとなっている
楮蒸し小屋。 高知高岡から移築したもので大正末期のもの。 高級和紙の産地で切りそろえた楮とミツマタ
を釜に立て上から桶をかぶせ蒸す。皮をはぎ水にひたした白皮を棒で叩き最後に水に溶かし紙にすくという大変に手間のかかる作業。
旧、下木家住宅。徳島の山村から移築。 約230年前に作られたもので上屋梁、下屋梁に穴をあけ一本の柱を
通す「おとしこみ方式」で組まれたもの。
隠居屋と呼ばれ年配者が上がり降りしやすくなるよう上がり口を思い切り下に下げて工夫している
旧丸亀藩御用蔵で約190年前(【江戸後期】の建築で丸亀藩の米蔵であった。
屋根は切妻造、本瓦葺で当時の規模としては壮大で高いナマコ壁や格子窓は単調な壁面に変化をつけ力強いなかにも
美しい構造と言われた。
神戸【異人館】も四国村入口に移設されている。
このポストは約100年前にロンドン市内にあったもので夏目漱石が留学中このポストに日本宛の投函したと言われている。
投入口が2か所あるのは市内と地方に分けるため。
入口には牧童像とスペイン風の石の椅子がある
【異人館】はカフェとして営業しており四国村の入場券買った時、異人館のどれか一品100円引きの
サービス券をくれます。 四国村入場料は大人1000円でしたが高松の観光大使を拝命している私は750円でした。」
Iさん、四国村があるのはよいよ知らざったわね。つぎ高松に行ったら今回ご紹介のうどん屋さん、栗林公園、四国村は
必ず行てみますけんね。
今回のシリーズの最終回です。⇒「四国民家博物館、通称【四国村】は屋島山麓にあります。
村の入口。↑ 昔、四国は本州から隔絶した島で山々には神仏や天狗が羽ばたいている神秘の国だった。
約三百年前の四国の先人達はどのような暮らしだったのか、四国全県からその一部を移築した場所です。
家の内部は狭く暗いが頑丈な大黒柱が屋根を支え祖父母から孫まで大家族が寄り添い
「いろり」を囲み一家団欒の暮らしがあった。心はすさみ感謝を忘れ自然の恵みを感じない現代人。
親子断絶など問われる荒廃とした現代人に何を訴えようとしているのか。
祖谷のかずら橋ミニチュア。 徳島祖谷地区は平家の落人村として知られる四国の秘境。
白口かずらを3年に一度編んで直しているがこの一本のみ現存している。
ミニチュアといえどもスキマが30センチもある箇所がありブラブラ揺れてヒヤッとする。
小豆島から移築された歌舞伎舞台。 島の人達のたった一つの楽しみが春秋の祭りの島歌舞伎の舞台。
約150年前の江戸末期のもので役者は地元農民が演じて島中が笑顔で一杯だったようです。
歌舞伎舞台の全景。 実際に歌舞伎の催しをするため観客席を設けてある
旧 山下家住宅。 香川県東さぬきの江戸時代の山村農家。
家の半分は農作業用の土間とられ 「おくどさん」と呼ばれるかまどを炊くと家中が煙に覆われる。
「よまし」と呼ぶ麦ばかりの飯を食べ早朝から働き親子兄弟も同居して床は家族共同であった。
このような環境で夫婦生活もどうやら不自由だったみたいですよ。
母屋の横の手洗いと風呂
旧 河野家住宅。愛媛県南の小田町から移築。 他の家では見られない珍しい形式、手法である。
18世紀前半のもので土間脇に茶の間、その奥に座敷の二間取りで床は全て竹を敷いて
各部屋は「いろり」がある。土間は和紙の原料の楮(こうぞ)を蒸すクドと大きな桶が吊下がっている。
香川県白鳥町から移築。 円形の砂糖〆(しめ)小屋は四国では下とあわせ二棟しか現存しない。
江戸後期、砂糖は讃岐の特産品だった。薩摩の黒砂糖に対して白糖で日本一を誇っていた。
讃岐平野にサトウキビ畑が広がり搾汁の〆小屋が点在していた。
3個の石臼があり牛が1日中腕木を引いて回った。円形なのは牛の回転にあわせ作られた
釜屋と言われ絞られた砂糖の生汁を煮沸しアクを取り純度を上げていく建屋で現存して希少価値がある
高知と愛媛の県境のあちこちにあったお堂(19世紀中頃のもの)
お遍路さんの休憩場でもあり道行く人に湯茶の接待をした場所。土佐脱藩の坂本龍馬もここでひと休みしたかも?
広島県三原市の沖合いの小さな島から移築。 明治27年に初点灯し光源は石油からアセチレンになる。
戦時中は軍事秘密のため地図から島が消されていた時期もあった。
燈台退息所(燈台守の家族の住居)
日本の洋式燈台の初点灯は明治2年、東京湾入口の観音崎であるが瀬戸内海ののどかな島に設計、監督のため英国人が
やって来たので異国人に驚き長老達は裃着用し刀を携えて出迎えたと記されている。
鍋島燈台退息所。香川坂出の沖合に明治5年に建設。本格的な石造りとなっている
楮蒸し小屋。 高知高岡から移築したもので大正末期のもの。 高級和紙の産地で切りそろえた楮とミツマタ
を釜に立て上から桶をかぶせ蒸す。皮をはぎ水にひたした白皮を棒で叩き最後に水に溶かし紙にすくという大変に手間のかかる作業。
旧、下木家住宅。徳島の山村から移築。 約230年前に作られたもので上屋梁、下屋梁に穴をあけ一本の柱を
通す「おとしこみ方式」で組まれたもの。
隠居屋と呼ばれ年配者が上がり降りしやすくなるよう上がり口を思い切り下に下げて工夫している
旧丸亀藩御用蔵で約190年前(【江戸後期】の建築で丸亀藩の米蔵であった。
屋根は切妻造、本瓦葺で当時の規模としては壮大で高いナマコ壁や格子窓は単調な壁面に変化をつけ力強いなかにも
美しい構造と言われた。
神戸【異人館】も四国村入口に移設されている。
このポストは約100年前にロンドン市内にあったもので夏目漱石が留学中このポストに日本宛の投函したと言われている。
投入口が2か所あるのは市内と地方に分けるため。
入口には牧童像とスペイン風の石の椅子がある
【異人館】はカフェとして営業しており四国村の入場券買った時、異人館のどれか一品100円引きの
サービス券をくれます。 四国村入場料は大人1000円でしたが高松の観光大使を拝命している私は750円でした。」
Iさん、四国村があるのはよいよ知らざったわね。つぎ高松に行ったら今回ご紹介のうどん屋さん、栗林公園、四国村は
必ず行てみますけんね。
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