阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

目に留まったメディアの記事  9月14日

2021年09月15日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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昨日の昼食はアボカドとエビのパスタ

2021年09月14日 | ある日のランチ

アボカドとパスタはよく合う。

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目に留まったメディアの記事  9月13日

2021年09月14日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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旧中川で久しぶりにシロサギとアオサギを見た。

2021年09月13日 | 身辺あれこれ

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阿智胡地亭便り⓹ イカナゴのくぎ煮  還暦記念中学同期会  高校還暦同期会 床屋のドイさんにサヨナラを・・・     

2021年09月13日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

こんな便りを2002年頃からメールで友人知人に発信した。 ☝昭和30年頃の国鉄芦屋駅とその周辺ーネットから引用。

#21 イカナゴのくぎ煮   2003.3.16

近年、三月の始めから数週間、尼崎から宝塚、西宮、芦屋、神戸、須磨、明石
にかけてイカナゴのくぎ煮をつくる家庭が多くなってきたそうだ。

うちではイカナゴのくぎ煮そのものを知らなかったが、神戸に引越してからご近所の
方に教えてもらって毎年、相方が作っている。シーズンになると神戸新聞の家庭欄にも作
り方が掲載される。投書欄には我が家の作り方は・・のような記事が必ず出る。

瀬戸内海のイカナゴ漁が解禁になると明石など沿岸の漁船が出て、毎日生協やスー
パーでイカナゴの昼網として1キロ単位で売り出される。
この小魚の佃煮は昔は業者製造が殆んどで、各家庭で作りだしたのはそんなに
古い事ではないらしい。佃煮にするのは2cm~3cmくらいの大きさまでで、
イカナゴは日々成長して大きくなるのでイカナゴ漁の期間は2週間か3週間くらいの
ものだ。成魚になるとフルセという名前になる。

その1、広島から、くぎ煮作りに神戸へ。
 
両親が住んでいた時以来、もう30年以上お隣りどうしに住むご一家は、
ご主人が山口県の岩国市、奥さんが由宇町ご出身で奥さんの妹さんが広島に
おられる。今年妹さんがお隣に来られて1日かけて3キロのくぎ煮を作って広島へ
持って帰られたと聞いた。それに驚いていたら一週間もおかないうちに又来られて
再度、3キロのくぎ煮を作って持って帰られたそうだ。
 広島のご近所に配ったら好評でもう一回作りに来られたとのこと。
この期間、関西一円の百貨店やスーパーではくぎ煮商品そのものも、どこの店頭にも
出ているのだが、お隣の奥さんが最初送った自家製のものが気に入って妹さんが
ご自分でも作りに来たと。妹さんの打ち込み方に嬉しさ半分、戸惑い半分で
お話して下さったそうだ。次女の部屋の横がお隣の台所で、この時期は何日間も
一日中ファンから醤油と調味料と魚の交じった調理の匂いが流れてくる。

その2、マリンバ演奏会とくぎ煮の匂い。

先週、相方と娘が神戸のハーバーランドにある松方ホール(川崎造船所ー川崎重工の
初代所長、松方幸次郎を記念して名付けられた)へ行った。
 マリンバの演奏が始まる前に前の席からくぎ煮の匂いがしてきた。
そして何か揉めているので見ると、別々に住む祖母、娘、孫の女三代らしい3人組が
小声でやりとりしている。
 (お母ちゃん、こんなとこへくぎ煮持ってきたら、臭いがして人に迷惑やしアカンやないの。
そんなこと言うたかてアンタらに食べさせてやろうおもて、今日は昼から一生懸命
作って持ってきたんやないの。そら有り難い事やけど、こんなに臭おたらどもならん、
アンタ座席の下にでも入れとき)という会話が聞こえてきたそうだ。

下に入れときと母親から言われた孫娘は食べ物を地べたに置くのは抵抗があるようで
膝の上に置いてもじもじ困っていたと。

 うちの二人はまさか、くぎ煮の匂いに包まれてマリンバの演奏を聞くとは思わな
かったけど、いかにも神戸らしいことだと、二人ながらに思い出し笑いをしながら
話してくれた。

その3、ガスの火力が戻った。

夕食の時、お昼のガスの火力がようやく普通になったと相方が娘に言っている。
それはどういう事と聞くと、殆ど3月始めの3週間の間、午後いっぱいガスの火力が
弱くなる。それは、この地域でくぎ煮を作る家が多くなってガスの消費量が上がっている
のだと思うと。かなり長時間、強火で煮るのだそうだ。もし本当にくぎ煮が原因だとしたら面白い。

今年は豊漁予想が狂って昨年よりキロ単価が上がったらしいのに、自家製のくぎ煮の
人気の勢いは上がる一方らしい。今度のは一番味も艶もいいでしょというので聞くと、やは
り弱い火力ではうまくいかないし、お隣さんから教えてもらって醤油を薄口に変えてみ
たのも良かったとのこと。

 今度のはというので、今年は何回作ったのかと聞いたら、毎週一回1キロづつ都合
三回作ったそうだ。確かにタッパーから出して来るくぎ煮のイカナゴの大きさがだんだん
大きくなってきていた。

基本的には生姜で臭みを取るのだが、年によってハヤリがあり、それに柑橘類の皮を
入れた年、山椒を入れた年があるそうで、今年は鷹の爪を入れたとのこと。
なるほど少しピリっとしていて、今年もしばらくの間ご飯のトッピングや酒のツマミに楽しめる。

食べてます。

#22 還暦記念中学同期会ーその1  2003.3.26

三重県の四日市市にひさしぶりに行ってきました。

四日市市立港中学校卒業45周年・還暦同期会が3月21日に湯ノ山温泉の希望荘で
開かれ、卒業生7組350人のうち120人が地元、関東、関西から参加した。
幹事からの案内の手紙には、何か赤いものを身につける事とあったので、
紅いセーターを着て行ったが、言う事を聞いた素直な人は少数だった。
宿泊者も80人ほどいて、幹事団の計らいで大宴会のあと小部屋に別れて
クラスごとの懇親も出来てよかった。
同期会は6回目だそうだが45年ぶりに始めて参加した人も10人ほどいた。

私の属したG組は、80歳でまだ毎日、高速伊勢道を運転するという担任の
安田先生をはじめ男性6人、女性9人の参可者だった。

クラスに分かれての懇親の時のこと、「知事の北川なんて三重県民にとって何にもいいことをしていない。
結局3期目の選挙に出ないのは、中身がないのにマスコミ向けのパーフォマンスだけ
8年やってきて、ネタ切れで自分が疲れたから辞めただけやに」と80才の先生が言われた。

北川知事は新聞や雑誌などマスコミから「住民の考え方に立って行政を進める、いままで
にないタイプの住民重視の知事」という報道をされつづけてきた人だ。
鳥取県や長野県知事と同じく、いままでにないタイプの知事の、そのリーダー扱いで
日本では初めてのタイプの知事と報道され続けてきた。
 また、今回 立候補辞退の理由をはっきり言わないので、ポスト小泉を狙ってのこととか
かなり大きく特集記事が出たりしている。

大手新聞やテレビで流れる記事や番組は、何でも一応疑ってみるのだがこれだけ長期間、いろんな
メデイヤで持ち上げる報道にさらされると、私は北川さんに対してなんかこれからの日本の
希望の星みたいなイメージを持っていた。

 45年前担当して下さった恩師がズバリ断定されたこの話は衝撃的で、何故今回
辞退するかをついにはっきり説明しない北川知事に、自分でもなんでやと思い始めて
いただけに、直感的にこの話はホンマやと思った。
つい先生に「やっぱりそこの人の話を聞いてみんとわからんもんですね」と言ってしまった。

45年前の学年の先生方の話からはじまり、断片的ながらもご自分が何故教師になったかなど、
太平洋戦争に人生が影響された80才の人の一代記をも初めて伺った。

少し背中は曲がっておられたがよく飲まれ、耳も目も確かで顔色も美しく、目の鋭さや恐さは変わらず
何十年もずっと自分の頭でモノを考えてきた人の凄みを感じながら、参加して良かったと思った。

聞いたとさ   
               

#23 還暦記念中学同期会 その2  2003.3.26

承前
四日市は地縁、血縁は全くない土地だが、技術屋だった父が当地の工場に勤務していた折、会社の社宅で産まれ、自分が就職した会社の独身寮へ
入るまで続いた11軒(回)移動の社宅生活のスタートの地でもある。

5歳で四日市を出て転々とし、小学校6年生でまた戻り、小学校、高校と違い、この中学校だけは転校無しで卒業したので私にとっては
大事な学校だ。

①四日市までは神戸・六甲道からJRで大阪に出て、環状線の鶴橋で近鉄の特急に乗り換え、2時間50分の行程である。

(*)難波発名古屋行きの近鉄特急は大和高田、榛原、耳成、長谷寺、名張などを通り、昔、仕事でNECの伊賀上野工場へ行くため

何度か乗り換えた伊勢神戸(カンベ)を通過し、津、白子と走り四日市に着く。

(*)乗り変え回数と時間を気にしなければ、神戸からの最小コストは新快速で東海道線の滋賀県草津へ行き、

草津線で関西本線の柘植に出て亀山経由四日市というJR普通電車乗り継ぎルートがある。

一度利用した事があるが、寂びれきった関西本線を走るワンマンデイゼルカーが風情があって良い。
もう一つの新幹線で名古屋回り近鉄利用ルートは、時間は最短だがコストが2倍になる。

この路線に乗るたびに目に入る地名や駅名から摂津、和泉、大和、伊勢の国々という古代から人が住みつづけている土地をいま移動しているんだなあと思う。

②15時半のバス集合時間より早めに着いたので、駅近くの諏訪神社にお参りした。12世紀に信州の諏訪大社から勧請された歴史の割には俗っぽく荘厳さはない。
後ほど氏子と判った同級の女性から聞くと、この神社は繁華街になった元神社領の所有地を沢山の飲食店ビルに貸与してその上がりで食べていけるので、
氏子のための何の努力もしていないとボロクソだった。現在日本各地で都会にある神社が持つ一面なのだろう。

③近鉄四日市駅繁華街の中心店の一つだった岡田屋は取り壊されて広場になっていた。かなり前に郊外にショッピングセンターをオープンしたそうだ。
 昭和30年代はじめまで岡田屋呉服店だった岡田屋は、四日市では江戸時代から続く老舗の呉服や雑貨の小百貨店だった。その岡田屋が昭和30年代の
終わり頃、二木など何社かと合併を繰り返し、「ジャスコ」となり今、ダイエーを越えて「イオングループ」として全国展開してきたのを

(岡田一族の方が大学の先輩に居られることもあり)関心を持って見てきたが、ここまであの岡田屋がメジャーな全国ブランドになるとは思わなかった。
 
  行ったとさ

#24 高校還暦同期会 2003.4.14

4月6日、日曜日に六甲道から8分で着くJRの芦屋駅で降りた。大阪へ行く時、快速から新快速に乗り換えるためホームにはよく降りるのだが、
降りて駅の外に出るのは久しぶりだった。
 駅前の「ホテル竹園」で高校の還暦同期会があるので、7,8年ぶりにホテルの中へ入った。ここも上の階にあったプールが震災で壊れ、確か修復し
営業を再開するのに時間がかかったと思う。高校に通学していた頃は(竹園旅館)といい、「読売巨人軍」の定宿だったが、40数年後の今も、引続き
ジャイアンツが関西に来た時はここに宿泊する場所だ。

(1)昭和36年の3月に卒業してから同期会の開催は、もう10回目だと芦屋市役所勤務の司会役からはじめに説明があった。
10年ほど前に一度出たが、その時の事はあまり印象に残っていない。
中学の同期会と同じく会場には還暦同期会と大きくプレートが上がっており、もらった資料を見ると500人中、108名の参加だった。

この会の創立以来会長をしている同級だった高津君とは、いつの頃からか年賀状をやりとりしており、今年の年賀状に会場で久しぶりに会おうと
書いてあったこともあり、今回の同窓会に出ることにしたのだった。

 クラス別にテーブルが決まっており、その席で会った高津君は顔を合わすなり、「おお来たか、オマエまだ会社行っとんか」と言った。

彼はサンヨー電機を昨年12月に定年退職し、再就職はせず95歳の父親の看護に専念することにしたと言った。

この芦屋高校は一年の2学期からの転校で、しかも当時社宅があった神戸市の住吉から芦屋市への越境入学だったこともあり、

ついになじめないままに卒業してしまった高校だ。

本来の住所の学区のK高校の転入試験も先に受けたのだが理科の転入試験科目が「生物」で、四日市高校の一学期の理科履修が物理だったため

初めて見る文字の「ミトコンドリア」がどうたらというような問題を1問も解けず、白紙で出さざるを得なかった。

 今考えると何が転入試験科目かも調べずによく転入試験を受けたとはと思うが、なんせ親も子も初めての経験で理科の履修科目が 

県によって学校によって違うなどとは思ってもいなかった。(日本中の高校で、一年の一学期の理科科目は化学でも生物でもなく物理だと思っていた自分のおめでたさにも驚くが)

結果は当然不合格で、そのあと今度は生物のにわか勉強をして越境ながら芦屋高校の転入試験に受かり、何とか四日市で一人で高校生の下宿生活をしないで済んだのだった。

30数年後に長女が中学一年で取手市から神戸市に転校し、数年後、K高校の入試に通った時は親の仇をとってくれたと嬉しかった。

転校した学校の連中は自分がそれまで一緒に過ごした人たちとはなんか違っていた。
兵庫県立の高校ながら制服はなく、何を着ても自由で、男子生徒に丸刈りは誰もいないし私服の女生徒はみな華やかに見えた。
 
 クラスの卒業写真でたった一人坊主刈りで写っている自分を見るといつも笑ってしまう。

中学校や一学期だけ通った四日市高校当時の刷り込みで、学生は丸刈りでないといけないと自分にしばりをかけていたのか、

どうせ同化出来ないとそのまま通したのかはもうわからない。

(2)今回3年当時の同じクラスのテーブルの二人と話したが、それぞれ別々にアンタはクラスで一人違っていたと言われた。

当時は仲間外れにするとか、転校生イジメとかはなかったから、意図的に外されたわけではなく、一人浮いていたのだろう。
結局、親しくなって卒業後も日常的に付き合ってきた人は誰もいない。

同じテーブルで話したうちの一人の横田君になじめなかった話をしたら、そらそうやろうとその理由を解説してくれた。

「この高校は兵庫県立とは言ってもアシヤ村立の学校みたいなもんやったんや。市内には小学校2つ、中学校2つ、高校一つしかないんやから

山の手グループと浜手グループとは分かれるけど、みんな小学校からの仲間やねん。今日出てきている連中は殆ど小さい時からの顔見知りばっかりや。」
 私は山手、浜手のグループの違いも知らなかった。
当然芦屋が、船場の大店のお金持ちが大正以前からお屋敷街を作ってきた所とも知らなかった。

 クラスメートにお屋敷のお嬢さんたちが居るのも知らなかった。

そして、ここ芦屋が谷崎潤一郎の「細雪」の四姉妹が育った設定の街とも知らなかった。
敗戦から13年たっていたから、着ているものや家並みが外の土地と際立って違っているとは思わなかったが、

みんなの雰囲気や彼らの喋る阪神間の言葉はなじめなかった。

横田君は小学校の時に越境で芦屋市に転校し、なんとなく違和感をもって高校まで芦屋に通ったと言い、

これまでの私の違和感の正当性を説明してくれたようになって、二人で周囲のみんなとの違いを言い合って笑ってしまった。

そして彼と話をしているうちに、私が前の勤務先で仕事を引き継いだ岡本部長と組んで横田君がソーター(自動仕分機)を売ってくれたことや、

横田君が岡本君の同志社大学工学部の先輩と言うことがわかって、これには二人ともに心底驚いた。月並みながら世間は狭いなあと。
横田君は岡本君が仕事をまっとうにやってくれたと評価し、今回彼が早期退職したことを本当に惜しがってくれた。

自分が一緒に仕事をした人間をこういう風に言ってくれて嬉しかった。

 この横田君との会話と、もう一人、目があったとたんに名前を呼んでくれた水谷さんという女性がいて気になり、どうして覚えてくれていたのか

<なんでだろう>と思い、同じテーブルの人に彼女の名前を聞いてから、席に行って暫く話が出来た事の二つで、

しぶしぶながら出席したけれど参加して良かったと思った。


二人共に5年後の同期会でも必ず会おうと言ってくれた。

帰りは、芦屋川沿いにちょうど満開の沢山の桜を見ながら、阪急芦屋川まで歩いて
今度は阪急に乗って御影まで帰った。いい花見が出来た。

行ったとさ。

#25  床屋のドイさんにサヨナラを・・・ 2003.5.08

4月も終りのある日 昼休みが終って席についたらすぐ、Mさん床屋さんからお電話ですと言われた。
床屋から電話をもらうとは誰からで、何だろうと首をひねりながら受話器を取った。

「ビルの床屋のドイです。えらい急な話やけどワタシ4月一杯でココ止めますねん。
今日来はった樋口さんからMさんの会社の電話番号教えてもらえたんで今電話させて
もろとるんですわ。長い事お世話になったお客さんも仰山いてはるから、黙って
止めるんもなんやし、社長に言うて5月21日まで勤めさせてもらうことにはしたんです。
そやからそれまでに来られるんやったら前日に電話して、時間を言うてください。」
と言って電話は切れた。

いつもは当日電話で予約して行くのだが、今回は連休前に電話を入れておいた。
堺筋本町から淀屋橋までは、20分ほどで歩くのにちょうどいい距離だ。

ドイさん担当の椅子に座ると「来てもろて有難うございます。電話で言いましたけど、急やけど
やめる事になったんですわ」と言った。「始めあれば終りあり、ですか」と返すと「そうなんですわ」
と言って、こうなった経緯や今後の事を、しかし散髪の手は休めず話し出した。

ドイさんにはもう16年の間、髪を切ってもらっている。何も言わずに椅子に座れば、
後は寝込んでもちゃんとやってくれる。夏季、汗かきの私が入室するとさりげなく
クーラーの温度も操作してくれ、濡れタオルを出してくれる。整髪料は私が家で使っている
のと同じものをキープしてくれている。広島時代も月に一回の大阪での会議の日にやって
もらって結局ほとんど16年間毎月続けてやってもらった事になる。

この理髪店は先代が店の社長の時にこのビルに入り込んで、昭和43年に私が新居浜から
転勤で来た頃は広い面積をとって営業していた。今回ドイさんに聞いたら当時は理髪椅子が
12台あり理容師が15人居たという。それでも一日中フル回転だったそうだ。ドイさんは昭和
44年に入店したとのことで、それから34年ビルの地下の職場で働いた事になりますと言った。

昭和62年に転勤で東京から大阪に戻り、再度、ビルの理髪店に行き出した頃は理容師は
5、6人になっていたが、行き出してすぐドイさんを指名するようになった。理由ははっきりは
覚えてないがこちらの状態を見て、床屋政談をしたり、眠りたい時はずっと眠らせてくれたり
と色々あったが、やはりウデが良かったのだ。口八丁手八丁で客あしらいもうまかったけど。

 本人の自慢は「カットした後の最初の一週間は、職人の誰がやってもおんなじやけど、
それからが違いまんねん。そっからのモチ(持ち)が違うんですわ。ワタシは一人一人の頭の恰好を
見て全部カット変えてますから」という事で、私はそれはその通りだと実感していた。

退職するにいたった大きな理由は「この仕事はやっぱり刃物を使いまっしゃろ、まだまだ自信は
ありまっけど、もしこっちが手えでも滑って怪我でもさしてから止めるのはいややし。」
 という事だったが、それは自分が納得するため自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

ドイさんの話しから推測すると、理髪室はここのところ3人の理容師でやってきたが、ビルの就業
人口の減少から、来店客数が減り続け、いまや理容師は二人で充分という事になり、店の社長から
ドイさんに退職勧奨があったようだった。 ドイさんの話しに、何で私がやめないかんねん
という思いが時々覗いているような気がした。彼は負けん気の強い、ずうっと自分の仕事に誇りを
持っていた男だった。

頭を黒く染めているのは知っていたが、肌の色はピンク色で艶々しており、顔にはしわ一つ無い。
自分よりちょっとくらいは年上かと想像しながら散髪が終って椅子をたつ直前に、
「若こうに見えるドイさん、時においくつになったん?」と聞いたら、67歳ですわとの答えだった。
とてもその年には見えない。頭のサエもなんら変わらず、腕もまだまだやれると思った。
 
後は家ででも床屋やるんと聞くと、ハサミはもう握らないと言った。

昭和44年頃(*)は名前は知らなかったが、なんとなくその頃から彼に見覚えがあり、
昭和62年からは毎月一回はバカ話や床屋政談や居眠りをさせてもらった。また彼は
元の勤務先のOBや知人の動向の情報センターでもあった。  
 にしても長い付き合いになっていたものだ。
 
(*この頃はビルの理髪店の利用は就業時間中は管理職はよいが組合員は使えないという
不文律があった?ような記憶がある。もしかしたら私が所属した部門だけかも知れないが。
そうなるとユーテリテイコストをテナント各社が補助をしているので
街なかの床屋の7割に近い理髪料金を活用出来るのが、自分より給料の高い方々だけとなる。
営業時間も18時までだったから結局組合員は行けないということになる。これは納得出来なかった。
身嗜みを常に整えてお客さんに不愉快な思いをさせてはならないのは、営業の部課長も担当者も
おんなじはず、と自ら勝手な判断をし、それでもさすがに部課長が外出の時を見はからって
この店に散髪に行っていたものだ。)

そんなことでMさん 長いことお世話になりました。


いや、こちらこそお世話になりました。私もちょうどこの6月で会社終りです。

そうでっか、このビルに来たんはお宅が一年違いの先輩で、退くのんは
一緒の年やなんてまあご互いご縁があったちゅうことですわな。

そういうことや。ドイさんほなお元気で。
お元気で。ご縁があったらまたどっかで会えまっしゃろ。

こんな会話を交わしたあと、用意していった気持ちだけの餞別を渡して店の外に出た。   
     

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兵庫のコロナ1年半 有事の医療、仕組み構築を 神戸市立医療センター中央市民病院・木原康樹院長 |自宅療養死も相次ぐ 往診医師「適切な経過観察が重要」「体育館にベッド100台など避難的施設を」

2021年09月13日 | SNS・既存メディアからの引用記事

一部引用・・・ -この1年半で見えてきた課題とは何か。  「医療施設間の連携だ。『最後のとりで』でも、孤立していては戦えない。特に3波、4波において、患者の『出口』開拓が大きな課題になった。人工呼吸器がついた患者の転院は想定外で、どこにも出せない患者を抱え、ぎりぎりの状況だった。また、有事に医療者が臨時の医療施設などに集い、一定期間働く仕組みも検討すべきだ。そこで重篤化した人を中央市民に送ってもらえれば、感染症に対する体制はかなり強化されるのではないか」 画像クリックで全文に飛びます。

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亀戸中央公園の夏の終わり

2021年09月12日 | 東京あちこち

 

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ソバの花 青空に映える 茅野市の八ケ岳山麓       長野日報 

2021年09月12日 | 諏訪便り

2021年9月11日 6時00分 

茅野市の八ケ岳山麓一帯でソバの花が満開を迎えている。玉川、泉野、豊平、湖東、北山など、八ケ岳を臨むソバ畑は市内の広範囲に広がる。

久しぶりに青空が広がった10日には、各地で白い小粒の花がひときわまぶしくきらめいていた。

泉野下槻木の集落北側に広がる田園地帯にあるソバ畑は、水田の数に比べると少ないものの一枚ずつは広大。

トンボが飛び交い、黄金色に色付き始めた田んぼに囲まれた所々に、かれんな白い花のじゅうたんを広げている。

場所はエコーラインを挟んだ西側。普段は訪れる人の少ない静かな高原だが、秋景色を求めてアマチュアカメラマンも訪れている。

◎子供の頃夏休みに訪ねた母の里「玉川」では、桑畑はすぐ近くにもまたそこら中にあったが、当時ソバの栽培は気が付かなかった。伯父の家でもソバを食べた記憶はない。

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阿智胡地亭便り⓸   セリのおひたし その二   日本各地にあったごもっとも 新幹線で移動した白梅  九州若松二島三題     

2021年09月12日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

   こんなエッセイを2002年頃からメールで友人知人に発信しました。

#16 セリのおひたし その二 ’03/02/03

承前、

 その時、女性客が一人で入って来て、先客の横に座り、最初から熱燗を頼んだ。
この人、この店の数少ない女の常連客で、売れない女優なんですよと前からの
知り合いらしく先客が紹介してくれ、彼女もニコッと軽く目礼してきた。こちらは
一見の客なのに、この店の客は人懐っこい。

そのあと、ぼちぼち客が入ってきた。どの客もどの客も、今晩「里」に来ることが
出来て「うれしゅてたまらん」と田辺聖子さんなら表現するだろういい笑顔で入ってくる。

 ジャンパー姿の客が入って来て、おかみの真正面に座ろうとしたが、彼が
座るか座らないうちに、彼女が言った。

ねえ、中島さん亡くなったんだって、いまこのお客さんから聞いたとこなんだけど。

隅の席に座った自分の席から、入ってきたこの角刈りの客の横顔を見たとき、
自分と同年輩か少し上と見た。こちらに向きなおった彼は、精悍な顔の眼の
ひかりが強かった。

 よく海外出張もしていた人ですよね。ここんとこ大田区の工場に勤めていた中島さんだよね。

この店でよく一緒に飲んだ自分が知っている中島と、今亡くなったと聞いた中島が本当に
同一人物か無意識だろうが、確認する言葉が続いた。

 そうですか、いつ頃ですか、おいくつだったんですかねえ。まだ若いやね。
どこの土地の出の人だったんです? いつもここに入ってくるなり、今度こんなとこ行ってきて、
こんな事があったよなんて周囲おかまいなく喋りだしたりしてねえ。
まあ、だけど豪傑のように見えるけど神経のこまやかな人だとあたしは思ってたよ。

ひょっとして定年で会社を退いて、たしか家は市川かあっちの方よね?こっちへ来る事が
なくなったのかな~なんてお噂してたんですよ、とおかみが彼の言葉に続いた。

 中島の家に貰われた犬の兄弟犬が彼の家にも貰われていて、その犬はもう死んだらしかった。

こちらも、中島とは同期入社だったこと、彼の新婚家庭に寮の仲間で押しかけて、皆腰を据えて
しまい、すぐ飲んでしまうので新婦の奥さんがアパートの前の酒屋からビール瓶を数本ずつ、
何度にもわけて、皆にわからないように割烹着の下に隠して買って来た事、同じくらいしか給料を
貰ってなかったはずだから、その月の家計は大変だっただろうなとそのことが今も忘れられないこと。

お互い出張の時は若い時から大阪や東京で良く飲んだ事、千葉の家にも何回か泊めてもらったこと、
自分が神田勤務をしていた厄年の頃、会社に出ることが出来ない日々が長く続いた時、
当時東予に居た彼の家に電話して、東京の心療内科の医者を紹介してもらったこと。

お互い自分の知っている中島の話をしあって、お互いにうなずきながら飲んだ。

 こないだのあれはうまかったね、次はいつ入る・・。
かならず今度は、お出でよねというような話が客とおかみの間に流れていく。

この店では始めてのネクタイ姿の人が入って来て隣に座り、~ちゃん、明日はこないだ
言ったように休みが取れて、松本へ行って来るよとおかみに言ってるので、
信州の方ですかと声をかけると、いや、自分は東京の人間だけど、学校が向こうでね。
明日が去年死んだ友人の祥月命日なんで、仲間が集まって奥さんと子供と仏壇の前で
一緒に飲むんですよ。   おいくつだったんですか?56歳でした。

そのうち、先程長く話した人が軽く会釈して、今日は供養になりましたと言って帰っていった。

この店はねえ、うまいもんが食べたくなると時々小岩から来るんですよと
明日無事有休が取れて友人の法要にいけるのでホッとしたのだろう、
隣の席に座ったサラリーマン風の彼が、こちらに向けて話をつづけた。

追加で頼んだイカの一夜干しもいい柔らかさで、あぶり加減もよく、うまみが一味違った。
おおぶりのコップの焼酎のお湯割を飲み終る頃、もう店もいっぱいになってきた。代金を聞いて
千円札3枚を出し100円玉一個のお釣りをもらい、中島が長年つきあっていたこの店のお仲間の
皆さんに心中さよならを告げ、おかみにごちそうさんと言って店を出た。

 ちょっと歩き、もう一度振り返ると前の店の入口にはあった「赤旗」の常設掲示板が
今度の店にはなかった。そういえば店の中にもそれらしい掲示は何もなかった。

時が移り、客も変わりおかみも変わったのか、それとも現実的になったサヨクの今のありよう
なのか、それはわからないが、中島はそれとは無関係にあの空間で店の常連に好かれ、
飲み仲間を作って長らく楽しんでいたのは間違い無いと思った。

長年気になっていた遅配物をようやく届けた郵便配達人のようにほっとしたが、
本当は、任務をおえても配達人はお届け先では飲んではいけなかったのかも知れない。
それとも、もしかしたら届けてはいけない郵便物だったかも知れない。

だが、彼が20数年間、気のおけない人達と過ごした会社を離れた異空間に、もう一度だけ
身を置かしてもらった。つい数日前、人間は死んだらどこへいく、知っている人たちの胸の中に
飛び込んで行くという文章を何かで読んだばかりだった。

あの中島がここにもまだ居るなあと店で感じ続け、二度とは入らないだろうあの店が、
あのおかみと常連客の皆さんと一緒に出来るだけ長く続いて欲しいと思いながら、
もう後ろは見ないでホテルに向かった。

#17 日本各地にあったごもっとも ’03/02/09

今年も節分の日は、例年のように「鬼は外、福は内、ごもっともごもっとも」と声を上げながら
家中の窓を一つずつ開けて豆を撒きました。
 
 節分の直前にふと思い立って、ヤフーで「ごもっともごもっとも、節分」を入力してサーチしてみました。
驚いた事には沢山の「ごもっとも」に触れたサイトが検索先に出てきました。

京都の吉田神社の氏子地区、宮城県、埼玉県秩父の三峰神社の行事(Tさんに教えて頂いた)
長野県の鬼無里などなどです。興味のある方は添付ファイルにその一部をコピーしましたのでご覧ください。

それらによると、どうもこの習慣は、元々は中国から入った貴族階級の行事が、日本古来の晦日
(節を分ける日)の五穀豊穣の祈りなどと結びついて京の都から各地に広がり、一般民衆の年中
行事の一つとして長く伝えられてきたもののようです。

諏訪湖の御神渡の記録を天和3年(1683)以降、続けている八剣神社を氏神さんとする
小和田地区に住んできたご先祖さんたちが何百年も続けてきたこの節分の行事を、もう父親の代にそこを離れて
しまったけれど、ルーツを忘れないためにも、うちの子供達も是非続けて欲しいと思って
います。

1)福豆頂き福引も 1年の厄払い開運願う節分  読売新聞サイトから


鬼の面をつけたスタッフから福引を引いて「節分」を楽しむ参加者
 一年の厄を払い、開運を願う節分。参加者は吉田神社(左京区)の福豆を一袋ずつ頂き、福引を引いた。

賞品は、タンスに入れると「きれいになって衣装が増える」とされる須賀神社(同区)の懸想文や、吉田神社の鬼面など。

 小島さん方は節分の日、出入り口で豆まきをしてから自分の年齢の数だけ豆を食べて、さらに同じ数の豆とさい銭を和紙にくるみ、
同神社などに納める。当主が豆まきする間、別の家族が後ろについて「ごもっとも、ごもっとも」と言いながらうちわで
あおぐ風習もあるとか。

2)http://allabout.co.jp/travel/travelshinshu/closeup/CU20020101B/index_00f.htm

立春の前の日を節分と云います。古くは、季節の変わり目、立春・立夏・立秋・立冬の前に行事が行われていたようですが、
立春の前だけ残ったのは、冬から春への変わり目が、大事な折り目だからでは無いでしょうか、

節分には、豆をまいて鬼を払う行事が行われます。神社やお寺では、有名人を招いたりして華やかに行われますが、
民間でも根強く残っています。「福は内・鬼は外」と三回ずつ唱えながら豆をまき、その後からすりこぎを持って
「ごもっとも・ごもっとも」と云って歩いた習慣が、つい最近まで残っていましたが


3) http://hb6.seikyou.ne.jp/home/mari-neko/2001.2.htm

節分・・・各地いろいろの風習があると思います。豆まきの掛け声にしても、「鬼は外福はうち」と、いうのは、一般的ですよね。
「鬼は内、福も内」と、言う掛け声も聞くといいます。宮城の一部の地域では、「鬼は外福は内」といいながら豆をまく人の後ろから、
「ごもっとも、ごもっとも」と、いいながら、うちわで扇ぎながら歩くところがあります。うちわで、鬼を、追い払うのでしょう。
まだまだ寒い(今日は、吹雪だっ!!)とはいえ、もうすぐ春がやってくる・・・そんな季節の分岐点です

4)http://www.city.chichibu.saitama.jp/saiji2.htm

豆まきの行事そのものは里の節分祭と同じだが、年男が三方にのせた福枡の豆を
「福は内、鬼は外」と唱えると、
後に控えた所役が大声で「ごもっともさま」と唱和しながら、大きな棒を突き出す。

この棒は、長さ3尺位の野球のバットのようなもので先に〆縄を巻き、
根元にミカン2個を麻縄でくくりつけた男根を象徴化したものである。

突き出すときに「ごもっともさま」と唱えることから、
このような呼び名がついたとおもわれる(午前11時・正午・午後2時・午後4時)。

5)http://www.vill.kinasa.nagano.jp/nenchu/

節分
 2月3日は節分、4日は立春で、暦の上では春がきたことになりますが、鬼無里はまだ深い雪の中です。冬ごもりしながら、
農家は麻糸作りに精を出す時期でもありました。
【年取り】節目の日であるが、仕事は休まず、早めに切り上げました。お神酒、頭つきの魚と白いご飯神棚(恵比寿棚)に供えます。
家内安全と健康を祈願しました。豆まきの前に夕飯を食べ年取りをします。
【豆まき】大豆をホウロクで炒って、豆まきをします。年男、若い男または家の主が、
一升マスに入れて家の中の各部屋を「鬼は外、福は内」と大きな声で繰り返しながら、まいて歩きます。
その後ろを、男の子などがスリコギを肩に担いでついて歩き、「ごもっとも、ごもっとも」と唱和することもあった。
この豆を自分の年の数だけ食べると災難を逃れるといって皆で食べます。

6)http://www.geocities.co.jp/HeartLand/3137/sakana2.html

中国から伝来の話があります。

撒いたとさ  

#18 再び山菜の季節  ’03/02/16

昨日の夕飯に天婦羅の準備をしているなと思っていたら、最初に「タラの芽とふきのとう」が
揚がってきた。あれっ、そうかもう山菜のシーズンかと思って聞いたら、コープコーベの毎週の
配達品リストのシーズン商品の中に、今回初めて「山菜セット」があったので頼んでみたという。

もう一回来週分のリストにも出ていたので頼んであるというので嬉しくなった。
次に「こごみ」が揚がってきて、別に買ったという「山ウド」「新ゴボウ」が続いた。

自分が好きな「タラの芽」はこれもスーパーで別に買い増ししたからたっぷりあるよと
言われてますます嬉しくなった。

ここのところ、全国あちこちで山菜が栽培されるようになってから、昔の山から取られたものほど、
匂いはきつくないが、高価でなくなったので生協やスーパーで普通に手に入るようになった。

ついこの間まで、飲み屋で「山菜の天ぷら」を頼む時は覚悟してオーダーした記憶がある。

別の材料の時の天婦羅と違ってコロモが薄いような気がしたので聞くと、匂いや味をそのまま
出すためにメリケン粉と片栗粉を半々にしてお酒だけ使い、卵は使わないという。
 お酒のせいで水分が飛ぶからパリッと揚がっているでしょと自慢顔をされてしまった。

うまければこっちは文句はない。茨城県の藤代町にいたとき家族で7年間、
蕗の薹を毎年取りに行った話を、去年と同じようにしながら随分沢山食べてしまった。

最後は微塵切りにした蕗の薹を入れて焼いた「焼き味噌」をごはんの上にのせて、
香りを楽しみながら腹を仕上げました。

去年も全く同じ時期に同じものを食べていました。
そして内容もほぼ同じになってしまいました。

#19 九州若松二島 三題    ’03/2/26

昭和23年の秋頃から27年3月まで、今の北九州市若松区二島というところにいた。
1、二島の駅で汽車に乗ると二駅ほどで終点の若松に着く。汽車が駅に近づくにつれ、いつも気が重くなっていくのだった。

月に一度か2度母が若松の町に習字を習いに行くのに、字の下手な自分も一緒に習いに連れていかれていた。

気が重くなるのはそのことではなかった。
行くたびに毎回、若松駅の改札口の内側にきれいな着物姿のおばさんが立っていて、到着した汽車から降りてくる人に向かって

「ノブちゃん、ノブちゃん、帰ってきたか」と高い声で叫ぶのだった。
きれいに見えた着物も近づくと薄汚れていて髪の毛も殆ど梳かした様子がなかった。その人の手前でつい足が遅くなった僕に「早くおいで」と母から声が飛び、

慌ててその人の横を通り抜ける。その人を見るのがつらいのだった。
その人の子供がこの駅から出征して、まだ帰ってこないという事だった。戦争が終って5年経っていた。子供の遊び仲間が帰還してしばらくしてから、

こうして毎日始発から終列車まで駅にいるという。
そして、列車が到着するたびに大声で子供の名前を呼んでいるという。
その人は子供心にも端正な顔立ちの美しい人だった。駅を出てもしばらく子供を呼ぶ声が聞こえていた。気がふれてもう何年もこうしているが、

駅の方も改札口の中へ入れてあげているのは、空襲で焼けたけれど元は大店の奥さんだったからだと母が後で聞いてきた。


2、若松の商店街の真ん中を白い蒸気を吐きながら黒い機関車が静かに走る。 機関車の前に人間が乗って前を注視して、

大きな白い旗をゆっくり振って移動していく。機関車の後ろには石炭を満載した貨車が長くつながっている。

買物客は慣れたもので誰も気にする人はいない。お店の人も普通にお客とやっている。
こんなに身近に柵も無く、動いている機関車を見る事が出来る小学生の私。小走りに白い旗と一緒に走りたいが、

母の買物が済むともう帰る時間だった。
出来るだけ長く買物に時間がかかりますようにと念じながら息を詰めていつも見ていた。


若松港の石炭積出の場所まで商店街の中を貨物線のレールが走っていたのだろう。行きたくない若松も、

あの機関車に会えるかも知れないと思ってついていったものだ。

3、朝5時頃、家の外でゴウゴウと大きな地鳴りがしていると思っていたら、戦車たい、戦車たいという人の声がした。

大人の声もして県道の方へ走っていく沢山の下駄の音がやかましくなった。
あわてて半ずぼんを穿いてランニングのままで家を飛び出した。そして人が走っていく方向へ自分も一緒に走った。

朝もやの中に大きな大きな迷彩色に塗られた戦車が何輌も何輌も県道を一列になって、ゆっくり走っているのが見えてきた。

先頭も見えず最後尾も見えず帯のように見えた。
 「少年」や「少年倶楽部」の挿し絵でしか見たことがない戦車の、しかも米軍戦車の実物が数えきれない台数がゆっくり移動していたのだった。

もう道の両側は大人も子供も男も女も人で一杯だった。
赤ら顔の恐ろしげな米兵たちが重装備で戦車の上に乗っていた。眠そうな顔をしてぼんやりあちこち見廻していた。
その日、学校はこれを見ることが出来た町地区から通う人間は英雄だった。
それから10年くらいして兵庫県の芦屋にある高校に通っている時、アメリカ映画で「アシヤからの飛行」という映画の広告を新聞で見た。

芦屋に飛行場なんかないのになんやこれはと思ってその広告を読んだら福岡県の芦屋に朝鮮戦争当時、軍需物資の補給航空基地があって、

そこを舞台にした米兵と日本娘の悲恋物語と書いてあった。 そうか、あの戦車群はアメリカから輸送艦で海上輸送され、

若松港で陸揚げされて芦屋空港まで移動中だったんだと突然頭の中で一つにつながった。
当時、毎晩毎晩家の上を朝鮮(韓国)に向かってごうごうと大型輸送機が飛ばない日はなかった。

この芦屋空港や板付空港から飛んでいたのだ。
町は占領軍の基地とは離れていたので、日常的には米兵を見かけることはなく大人と違って朝鮮戦争は子供にとって身近ではなかった。

それでもジープで移動する連中が子供に面白半分に投げるチューインガムやチョコレートは皆のあこがれの品物だった。

 残念ながら口に入った記憶はない。



#20 新幹線で移動した白梅 ’03/03/02

早朝、外に出ると雨の中を梅の花のいい香りがただよってきました。
庭の隅をみると、梅ノ木が白い花を沢山つけているのが見えました。
匂いにつられて木の側まで行ってみると幹が結構太くなっているのに驚きました。

この梅は長女の通った小学校が卒業記念に卒業生全員に送った梅ノ木が大きくなったものです。
彼女が卒業した茨城県北相馬郡藤代町立六郷小学校は六つの郷(村落)から生徒が
通学している小学校で、うちの子は田んぼの中に新しく造成された八百戸ほどの戸建てで出来ている新興住宅地から通いました。
どの家にも庭がある農家中心の地域に茨城都民(新住民の99%の戸主は都内に通勤していた)が混入したことになります。
利根川の支流である小貝川の流域に広がる豊かな農村地区で、JR取手駅からバスで15分から20分くらいのところにありました。

ところが、この記念の梅ノ木は、彼女が中学へ行き出してすぐに私が大阪へ転勤になったため、
ボーナスのたびに少しづつ買い増した植栽類と共に残さざるを得なくなりました。

雑草だけしかなかった空地も七年住んで、なんとか庭らしくなってきたところで、家を売る事に
なったので家族全員なんとなく寂しい思いになり、梅ノ木だけは引越先の神戸の家に植え替え
しようという事になりました。先行して赴任することになった私が植木屋さんの助言で植え替えは
梅雨どきがいいと聞き、6月のある日曜日庭から掘り出し、根の養生をして手で下げ、常磐線と
新幹線で神戸に移動しました。

この移植した梅が無事活着し、80cmほどの大きさながら翌年から花をつけるようになり、それから
16年たった今は2m近くに成長し、震災も凌いで毎年花と香りで楽しませてくれます。


わずかに取れる梅の実は梅ジュースになります。

この梅の花が咲くと藤代町で過ごした7年間の生活を相方や子供たちは毎年懐かしく振返るようです。

咲いたとさ

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錦糸町にある台湾料理の「劉の店」の“焼きビーフン”は相変わらず本場の味を出していた。

2021年09月11日 | 食べる飲む

去年の2月以来の「劉の店」だった。台湾人がオーナーシエフで料理は完全に台湾の本場の味を維持している店だ。

台湾人のオーナーシエフに台湾人のホール係

ホール係同士では台湾語で喋っているが電話がかかると瞬時に丁寧語の完璧な日本語に切り替わる。

コロナ禍の席捲の中でも店内の空気は前と同じ日常がつながっていて 何となくほっとした。前回の訪問。click

自分の中では45年ほど前に台北や高雄の屋台で食べた焼きビーフンの大衆価格値段のイメージが残っているので

970円の支払いは心理的に多少抵抗があるが、料理のボリュームはゆうに二皿分確かにあるのでゆっくり腹に入れて

満足して今回も店を出た(笑)。

 

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 阿智胡地亭便り③  立飲み串揚げ屋・松葉  堺筋本町界隈その一 セリのおひたし その一   こんなエッセイを2002年頃からメールで友人知人に発信した。

2021年09月11日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

#11立飲み串揚げ屋・松葉 ’02/11/04

会社の関西営業部門が、これまでの西宮市から大阪市の中央区本町へ移転することになり
阿智胡地亭もこれにくっついて行き、明日11月5日から大阪の堺筋本町センタービルで勤務
することになりました。今日は引越作業で初めて新オフィスに出勤しました。

5年以上、ラッシュアワーの電車に乗らずに通勤していたいう恵まれた身でしたが、
(広島時代は歩きと路面電車で会社まで20分、西宮は自宅からマイカー通勤で30分)
明日からは30年間ほどやってきた、本来の満員の電車と地下鉄での通勤に戻ります。

引越収納作業が終り、全員で事務所開きをした後、少し寒かったけど、堺筋から御堂筋の本町へ
歩いて、そのまま梅田までずっと歩いてみました。休日ということもあって人通りも少なくゆっくり歩けました。
2回に渉り、通算16年ほど勤務した淀屋橋までの間にある銀行は、全て看板が書き換えられ、
なじみの伝統あるビルが取り壊され、オーナーが替わって新築になったり、スターバックスが
数多く出店していたりこの5年の間でもかなりの変化があるようです。

梅田に着いて、少し喉が渇いたので、昔よく行ったJRのガード下の「松葉」に行ってみました。
東京から帰り新参で2度目の大阪勤務時代、(ソースの2度漬けお断り)の注意書きが、
最初の大阪勤務時代と変わらず貼ってあるのが嬉しく、帰宅の途中よくこの店に寄ったものです。

この店に入ると、当時、転勤ストレス?と、この串揚げに通う回数の相乗効果からか、半年でいっきに4キロほど体重が増えたことや、

子供二人も茨城県北相馬郡藤代町からの転校で、それぞれの小中学での不適応ストレス(関東と関西の言葉の違いや学校文化の違いもあり)

他にもなんやかんや家の外も中も、色々あった年月を時々思い出します。

店に入っていつものように「湯豆腐」を言うと、中国人の従業員が大きなシンクから一つ取り出し、
手早く皿に載せてタレをかけて出してくれる。この店の定番で本当においしく冬季は半数以上の客が
次々これをオーダーしています。

店員は昭和40年代からのオバチャンも数人いて、彼女たちと同じように歳を取っていく
同年輩の自分が、仲間どうしのような気がする時があります。



ビールを飲みだしたら、何となく今日はいつもと客筋が違うなと感じて、長い「く」の字のカウンターの両側をそれとなく見ると、
若い女性の二人ずれが立ち飲みで片手にビールのジョッキ、片手にひっきりなしに無料のキャベツを取って交互にやっているのあり、
若い男女二人連れが何組もいるし、一番驚いたのは50代後半の夫婦者が別々に3組も仲良く、串揚げで楽しそうにやっているなど
いままでこの店で見かけたことのないお客さんがおりました。

普段はネクタイあり、なし半々の男一人客がほとんどで、せいぜい二人連れまでの会社帰りが
20分ほど飲んで食ってという店なので、別の店かと思うほどでした。

これは今日が休日ということの特性かも知れぬが、関西ウオーカーかなんかでこの店が紹介されて
新しい客筋が来だしたのかもしれない。別途確認のため近々再訪の必要あり、またすぐ行ってみます。

もう一つ驚いたのは、確か前は一本100円のものが少なかったのに、どうも全品10円から20円値段を下げたようで100円の種類が増えていました。
湯豆腐も350円が300円となっており、マクドナルドや吉野屋の値下げの波及かも知れません。 デフレの余録でもあります。



阿智胡地亭は在店21分で瓶ビール一本、湯豆腐、玉葱、レンコンの串揚げ各2本を腹に納め、
1200円を支払い、「まいど」の声に送られて暖簾の外に出ました。

食ったとさ

#12堺筋本町界隈その一 ’02/11/10

1、昼休みに新しい事務所が入居したビルを出てぶらぶら歩くと、インド人に良く出会います。
また、周辺のインド料理屋やカレー屋の密度が大阪の外の地区に比べて濃いように思います。

通りすがりに日本人と歩いているインド人が話している言葉を聞くと日本語でやっていました。

10数年前に週刊誌で「大阪の本町の繊維問屋街にインド商人が多数・・・」という記事を
読んだのを思い出しました。

この地区のマップをインターネットで見るとインド総領事館もすぐ近くにあります。

戦前から、今に引続いてインド商人達が本町に来て、日本の繊維品を買い付け、
印度やアフリカなど全世界へ、華僑にならい印僑ともいわれる彼らのネットワークで
売り捌いてきたらしい・・・です。 ある意味で日本の繊維品の輸出の先兵でもあったらしい。

2、丸紅、伊藤忠、トーメン、江商、江綿、兼松など関西六綿、七綿?と言われた商社も全て最初は
繊維の販売、綿花、羊毛などの原料の輸入で大手商社への成長の基盤を作りました。
殆どの戦前からの関西系商社はこの界隈に商店時代の本店がありました。
今度入居したビルは、元の伊藤忠の本社があった跡地ですし、二つ隣は丸紅の大阪本社ビルです。

グループ会社の一つ、NSの大阪事務所が入居している戦前からの「輸出繊維会館」ビルも歩いて4、5分のところにあります。

3、どこに転勤しても必ずやるように、一ヶ月はまず昼休みに、歩いて15分で行ける範囲を探検して、安くてうまそうな昼飯の店を探そうと思います。
大阪でも広島でも神田でも西宮でもずっとやってきた習慣です。
その後で社の人達に紹介してきました。

手始めに、ビルの裏口を出て3分のところにある一番近い印度料理屋に入ってみました。
浅黒い四十五、六才のインド人のおやじと奥さんらしい日本人女性でやっていました。
ランチタイムのナンとチキンカレーとサラダのセットを食べながら、彼らと雑談しました。
オーダーを受けてから焼いてくれたナンも、スパイシーなカレーも文句のつけようがなくうまかった。

おやじはボンベイ(現ムンバイ)の北のアーメダバード出身で、そこから初めて出た外国が
日本だとのことでかなり日本語を喋りました。

途中で電話が鳴り、奥さんが取って日本語で話して「中国からナントカさんから電話」と言って
だんなに渡しました。だんなは印度語(アーメダバード方言?)で相手と喋っていました。
電話の相手は仲間の人が中国へ商売の調査へ行っているような感じでした。

いろいろ雑談していると、このところ仲間の連中が本国へ帰国したりしてインド人の数が減っている様子、あるいは、彼らがユニクロが生産委託する中国へ、
日本から商売をシフトしているらしいこと、おやじの話のゼニカネの物差しがすべてUS$である事(今アメリカは週15ドルで暮らしている連中が多いらしい、
とか全て円ではなく$で物を言うのがなるほどという感じ)、奥さんが日本の景気のデフレ傾向の先行きを、
すごく心配していること(ダンナが日本から出る心配?)などなどが出ていました。

どうもインドと中国を大のお客さんにしている会社の大阪営業部門が、やはりその国に縁のある場所に来たみたいです。

最後にチャイを飲みながら、この人達は(チャイナマンもコリアンもそうですが)ハナから国や
政府やなんか信用せず、また、会社なんかに所属せず、どこでもいつでも即時に通じる、
しかも最近の安い通信手段で、仲間たちと情報交換しながら、国境なんか関係なく生きて
いっているんやなあと、小泉、竹中を襤褸糞に言いながらも、誰も対案を出せない幸せな
日本国に住む、幸せな住人の一人が思いました。

最近、周辺に競争相手の飲食店が増えて大変ですと奥さんが嘆いていましたが、
暫く昼休みはインドレストランの探検をしてみます。
店が増えるということの裏を返せば、オフィスゾーンとしては人口が増えつつある
売れ筋の地区なのかも知れません。

ボンベイには20数年前仕事で何度も行き、ホテルはオベロイに泊まったと言ったら、
あんな高いホテルによう泊まったなあ、日本人はアホやなあという目で見られてしまいましたが、
うまい店なので合格の一店です。

次のこの店でのオーダーはタンドリチキンだ。

#13神戸新聞文芸欄エッセイ ’03/01/08

*神戸新聞の文芸欄に原稿用紙3枚エッセイ「ごもっとも、ごもっとも」を投稿し
5月に入選、掲載されたので舞い上がって、その後も、2回投稿しましたが、
世の中そう甘くなく佳作にも入りませんでした。
(どうも日々46万部発行の地元紙の雄である神戸新聞でも歴史のある欄らしい)

11月にもう一つのジャンルの400百字10枚エッセイに初めて投稿しました。

日本あちこち記で書いた旅行記をもとにリライトしたものです。
入選にはなりませんでしたが、この1月の選評に「小和田 満 作 ・ 一目2万本と室津千軒」が佳作として出ました。

今回は題名と作者名だけの掲載でしたが、年内にもう一度本文が掲載されるよう投稿を続けます。

     一目2万本と室津千軒 ’02/3 (小和田 満 のペンネームで投稿したエッセイ)

このところ、綾部山(兵庫県揖保郡御津町)の梅林のことを神戸新聞が盛んに紹介するので、
かなり前に行った事がある同じ御津町の室津やその先の赤穂御崎にももう一回行くことにして
梅を見に出かけました。
 
43号線のセルフのスタンドで給油をした後、阪神高速でなくそのまま国道2号線を走りました。
須磨を過ぎると、山と海の間の狭いゾーンにJR山陽本線、私鉄の山陽電車、国道2号線の3本だけが隣り合って走っている個所があります。

外には何も通る余地はなく狭いエリアにこれしかありません。戦時、交戦相手国がここに爆弾を落とせば、

一発で日本の東西の物流の大動脈をぶちきる効率のいい場所だとここを走るたびに思います。
 
暫く走ると明石ですが、明石ではいつもなら「魚ん棚(ウオンタナ)」に行き、昼網のトレトレの魚か鯨専門店で鯨肉を買って帰るのだが今回は寄り道なので断念し、

これも外したことはない駅前から浜側へおりた「きむらや」の<玉子焼>をテイクアウトで買い、車の中で食しました。
やはりウマイ。カカーナビも私も大満足で折りの中身を変わりばんこに食べました。
この他所でいう「タコ焼き」を漬け汁にひたして食べる<明石の玉子焼>は「明石浦の地タコの生きのよさ、つけ汁の珍味、

卵白と黄身のミックスには元祖としてきむらやの貫禄十分で名物としての舌覚味あり。」と包み紙に地元紙の昭和初期の記事が

印刷されている惹句どうりで、これまで一回も裏切られたことがない。
 この店の大ダコの足のおでんも軟らかさと味の良さで外では食べられないが、今回は遅い朝飯で家を出てきたため、無念ながらパスした。
 
明石からは県道718号とそれに続くR250を行きました。
沿線にはダイセル、日本触媒、多木肥料、アースなどの工場があり、仕事で昔行ったことがある
会社も出てきました。この沿線は百年ほど前までは白砂青松の海岸だったのでしょうが、
今は工場と住宅、マンションと畑、たんぼが無秩序に連なり川端康成の「美しい日本である私」は
どこやねんという感じです。
 友人のNomoto夫妻の在所の高砂/曽根を通る時にメーターを見たら丁度家から60kmで、新日鉄
広畑の正門前が80kmでした。
 結婚式でよく謡われる謡曲の「高砂や、尾上の松の・・・」は高砂あたりが舞台で、高砂市を通過する時に大きく

「ブライダル都市高砂」と看板が出ていたので、市も頑張ってるやんと思いましたが、今日びどれだけの人がわかるんやろうとも・・・。
 
昔の街道跡の道を、山陽電車のレールと平行して走ったり、古い商店街を注意して走ったりして
国道250号を姫路、網干をすぎ新舞子の綾部山の梅林に着きました。
 
一目2万本という宣伝文句をあまり信じてなかったのですが、行ってみて一山全て梅林というスケールの
大きさとむせ返る梅の芳香に驚きました。ここまで凄い梅林は始めてでした。

1)梅林は 幹の太い沢山の古木が良く手入れされていて、てっきり江戸時代からの
梅林かと思ったら昭和43年に農林省の何かの補助金をうまく利用して、土地の人た
ちが、梅の実を採集する組合をつくり梅の植林からスタートしたとのことでした。

ルフ場で使われているカートのレールが斜面に張り巡らされ、手入れの道具、肥料などの運
搬に使われ、良く見ると給水パイプも全山に敷かれていました。

 「桜切るバカ、梅切らぬバカ」といわれるとおり、よく手入れがされていて枝がバランスよく裁断され、

また高さも低くトリミングされていて斜面に立つと丁度目の高さに、白や紅やピンクが織り込まれた絨毯が見渡す限りひろがっていました。

 知らなかったが、相方によると実がなるのは白い梅とのことで、なるほど 8:2くらいの割合で白梅が多かった。

山の下から上まで梅の芳香に包まれて上っていくと、黒崎の市街地や塩田あと、そして新舞子海岸のある瀬戸内海が

視野に入ってきて春霞の中に雄大な眺めが広がりました。

充分堪能して、 ここで取れた梅で作られたウメ缶ジュースをサービスでもらい、おいしく飲み干し、室津に向かいました。

 2) 室津へは10数年ほど前、神戸に戻って暫くして日帰りで行ったことがありますが、今回はガイドブックで見つけた「きむら」という旅館に

一泊の予約をしました。この旅館は竹久夢二や谷崎潤一郎が滞在し創作や執筆をしたと紹介されていましたが、いまは町中から出て高台へ移転しています

宿の一角に夢二の絵が沢山掛けられていました。
 竹久夢二はここからそう遠くない岡山県の邑久郡の出身です。
 (このことは大阪時代、仕事で邑久のヤンマー造船所へ行った時に知りました)

 室津は江戸時代、参勤交代の西国大名が参勤交代のため瀬戸内海を船で移動するときの船本陣があった自然の良港です。

宿に車をおいて、部屋で一休みしました。 部屋からは、港と小さな湾を囲んだ平地にぎっしり立ち並んだ家々と漁船の群れが真下に見えました。

その後、宿のある高台から港までおりて町に入りました。町には昔の本陣と脇本陣
だった建物が二つだけ保存され、博物館になっておりよく維持されていました。

 江戸時代、北海道、秋田、酒田などと交易をした北回船の胴元達もこの地にいたり、本陣もいくつもあったりで、

室津は近隣では飛びぬけて富裕な土地柄だったため、姫路藩が飛び地として所有、支配していました。姫路の殿様や上級武士は

ここの金持ち連中から毎年盆正月に借金しては踏み倒し、その代償として苗字帯刀、駕籠使用の許可などで、

商人のご機嫌を取っていたような説明があり、笑いました。ロシア宮廷も清朝も江戸幕藩体制も末期になると人間のやることは皆同じで、

経済が商業資本に実質的に、押さえられています。脇本陣の家は革細工の煙草入れの製造元でもあり、当時から大阪船場に販売の店を持っていたそうです。

今に続く姫路の革産業は歴史があるんやなあと思ったことと、この豊野家の「豊」という字は姫路藩の筆頭家老
である「豊田」氏から使用を許され、名乗ったという説明で、そう言えば、知っているあの豊田さんも姫路西高の出身だったなあとフト頭に浮かびました。

①江戸時代、参勤交代の西国大名の往来で栄えた頃、「室津千軒」と言われたという町中を歩くと
今は全くの漁師町ですが、立派なお寺やソテツの群生がある岬の丘に結構大きな「賀茂神社」が
あり、長年旦那衆がいたところだと実感します。
 
  余談ながら加茂、鴨、賀茂と漢字は色々ですが、古代、海洋民族の「KAMO族」が南洋から日本に、

次々と数多く漂着し各地の海辺に定住したり、魚を追い、川を溯って山国へ移動して住みついたりしたため

「賀茂川」や「賀茂」という地名は全国各地に数知れません。
また賀茂神社は京都の下賀茂、上賀茂神社のように日本の神社の中でも相当古い神社のようです。

京都の下賀茂神社にお参りした時、その建築物が、高床式で柱と屋根だけのマレーシア、
サラワクやフィリピンの家と殆ど同じ形式なのに驚きました。とても寒い京都の気候から生まれた
構造物ではありません。また祭られている神様は当然「水」の神様です。
 
②魚中心の夕食を旅館なので部屋に運んで来てくれ、ゆっくりおいしく食べました。
食事の後、ロビーの夢二のコレクションを見て早めに休みました。
 何となく外が騒がしいので目が覚め、時計を見ると明け方の5時半でした。窓を開けると
ドッドドッドとエンジンを轟かせ漁船が次々と港を出て行くところでした。
真っ暗闇の中をマストに赤と緑のランプをつけ、前だけを照らして同じ間隔を取って出港していきます。

小さな漁船が100艘ほども一列縦隊で出て行くのを始めて見ました。
思わず最後の一艘が出て行くまで見てしまいました。
 朝食の時にいいものを見たと宿の女性に言ったところ、彼女には毎朝の出来事らしく、なんで
そんなものが珍しいのかという顔をされてしまいました。
 
③港で干物を買って、赤穂御崎を目指しました。カーブの多い海岸線に沿って走っていくと、
建造中の大きな自動車専用船が何ばいか見えてきました。いつか相生市に入っていました。
船が建造されていたのはIHIの相生造船所でした。本館と思える建物やドックを過ぎると、
中国から江戸時代?に移入された「ペーロン船」の競争会場が現れ、赤と金を多用した中国風の
記念館があって、テレビでしか見たことがない場所に突然紛れ込みました。車で移動すると
時々こういう思いがけない楽しみがあります。
 
赤穂御崎でゆっくり海を眺めたあと、山陽自動車道の赤穂ICで高速に乗り、帰りは2時間ほどで
家に帰り着きました。走行距離計は242kmでした。
 
行ったとさ


#15 セリのおひたし その一  03/01/26

東京に出張すると泊まるのはつい神田になる。
会社員になって連続して勤務した土地は神田美土代町の13年間が一番長い。

ホテルはインターネットの「旅の窓口」で予約するのだが、勤務先の本社がある芝公園や
浜松町の近辺よりまず神田のホテルを探してしまう。

 神田ステーションホテルに泊まると、だいぶ前から近くに気になる看板の店があった。
ホテルを出たすぐ右のガード下に「里」という看板が上がっている。

もうかなり前になるが、神田駅東口すぐ近くに「里」という4、5人も入れば
一杯になるカウンターだけの小さい飲み屋があって、おかみが一人でやっていた。
大阪から出張して同期入社の中島と二人で飲む時、時々彼に連れられて一緒に行った。
一人でやっている彼女はおかみさんというには痛々しい感じだが、
それでも、ものに動じない明るい人だった。客は誰もが彼女のことを~ちゃんと
名前を呼んでママともおかみとも言ってなかった。当時の彼女はそういう年回り
でもあった。

あるとき中島と店の前を通りかかったら、その店の電気が消えていて、聞いたら、
近くに店が移ったと言う。その晩は彼がそこへ行こうとも言わなかったので
自分としては「里」は、結局どこに移転したのかもわからずそのまま縁が切れた。
そしてそのあとは、神田駅に向かって店の前を通るたびに、ここで中島と時々
飲んだなあと思い出す場所でしかなかった。



  半年ほど前に一度、看板が出ている店の前に行ってみたことがあるが、
暖簾もなく障子がピシっと入り口を塞いでいて中の様子は一切何も見えず、
一見さんお断りのような、なじみ客相手の店のような感じがして、そのまま
入らずじまいだった。

先週久しぶりにこのホテルに泊まった時、また看板の「里」の字が目にとまり、
ロゴもやはり見覚えのあるロゴだったので、思い切って店に入ってみた。

いらっしゃいとこちらを見て言った人は少し歳をとったように見える彼女だった。
先客は一人で、なじみらしかった。二人で笑顔で話をしていた。
 店は前の二倍かそれよりちょっと広く、洗い場を囲んだコの字型のカウンター席が
12、3席でそれでも一人でやっているのは変わりなかった。ビールを頼んで2、3杯
飲んでから、ここへ移ってどれくらい経つのかと聞いたら5年だと言う。

前の店にいらしてくださっていたんですかと聞くので、中島君に連れられて時々
行ったことがあると答えると、すぐに、中島さん、ここんとこ暫く顔を出してくれないので
皆でどうされたのかなあって言ってるんですよと言った。
じゃあご存知ないんだ、一年ちょっと前に亡くなってしまいましたと答えると、
彼女の笑顔がとまってしばらく黙った。

病気ですか、そうですか、早かったのね。ちっとも知らなかった。
良く来てもらったんですよ。
 そして少し唐突に、中島さんにはうちの犬も貰ってもらったんですよ。
もし元気ならあの犬13才になるわと言った。

でもここんとこ、お酒の飲み方が凄くてね。そんな一遍にぐいーって飲み方しないほうが
いいよってよく言ったんだけど。

亡くなった前年の秋口から年が明けた2月頃まで、大田区の新しい勤務先の工場に時々
連絡して品川あたりで中島と何回か二人で飲んだのだけど、なんか怖いようなピッチで
飲んだのを思い出した。

 店は始めて32年だが、前の場所で最初4、5年手伝っているのを入れると、35、6年店を
やっていること、中島は間があいても20年以上は通ってくれたこと、大田区の工場の帰りに
もよく寄ってくれたことなど話してくれた。

 小さな黒板にその日出来る品が10品ほど書いてあり、その中に「セリのおひたし」が
あったのでお銚子とそれを頼んだ。暫くして大きな器に入って出てきたセリはちょうど
いい茹で加減で量が思いのほか多く、きれいな青い色の残るセリのほのかな香りと熱燗の日本酒がよくあった。

 話を聞いていた先客が、~ちゃん今日はいい日だね、ずっと気にしてたことがわかってと
言うと彼女は微笑みながら、でもちょっと強い口調で、私にはちっともいい日じゃないよ、
悲しい日だよと返した。

(続く)

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「起訴取り消し」機械メーカー社長ら 国などに5億円超賠償提訴 - 弁護士落合洋司(東京弁護士会)の日々是好日

2021年09月11日 | SNS・既存メディアからの引用記事

一部引用・・・

ただ、この事件における公訴取消という極めて異例の展開、それまでに長期間が経過していることや、報道されているような問題点を見ると、起訴時の証拠評価が相当に杜撰ではないかと強く疑われますし、特に、法的評価を検察官が誤っていた可能性が高いように感じられます。

警察は、起訴してほしいがために、検察への説明において、消極方向の証拠を隠したり、詐欺的な手法をとりがちなものですが、検察は、それに惑わされず、真相に目を向け消極証拠にも謙虚に目を向け耳を傾けて、問題ある事件は警察に引きずられずに不起訴にする、そういう場面でも重要な職責を負っていると自覚すべきでしょう。画像クリックで全文に飛びます。

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久しぶりに荒川の河川敷を歩いた後図書館に行った。

2021年09月10日 | 身辺あれこれ

予約本が届いたとのメールが相方分2冊、自分用2冊来ていたので 合計4冊を持って帰った。

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「命を守る」ことを最優先にした政治を〜「命がけ」になってきている支援の現場

2021年09月10日 | SNS・既存メディアからの引用記事

一部引用・・・

私も属する「新型コロナ災害緊急アクション」には、連日「アパートを追い出された」「所持金が尽きて何日も食べていない」などのSOSメールが来ているが、そんな中、コロナ陽性が疑われる人からのSOSも届くようになったのだ。

カプセルホテルやネットカフェに泊まっているものの、熱があり、味覚がないという状態だ。その上、住まいもなく所持金もない。

SOSを受けた場合、都内であれば支援者が駆けつけ、その日の緊急宿泊費や緊急生活費を渡して後日、生活保護申請に同行するなどの流れになる。が、コロナ陽性が疑われる場合は駆けつけることはできない。

一方、他の相談現場にも、発熱した状態の人が相談に訪れているという。まさに支援の現場は「命がけ」になってきたわけだが、これらのことを通して痛感したのは、住まいも保険証も所持金もない人の陽性が疑われた場合、彼ら彼女らがすみやかに検査を受けてホテルに隔離され、食事やお金の心配をせず療養する仕組みは何ひとつないということだ。

コロナ禍が始まって一年半。この間、「路上やネットカフェにいる人が感染した場合」なんて、いくらだって想定できたし、その準備は当然、なされるべきだった。というか、なされていると思っていた。しかし、国は本気で本当に、何も準備していないようなのだ。

支援者らは熱が出て苦しそうにしている人を路上に戻すわけにはいかない。よってなんとか部屋を確保したりと奮闘しているようだが、それだって限界がある。発熱している人が数人であればまだ対応できるが、これが数十人になった途端にアウトだ。だからこそ国や東京都はここに力を入れてほしいと切に思う。だって、これを放置していたら、路上やネットカフェでどんどんクラスターが発生するのは目に見えているではないか。

一年半が経つのに、いまだワクチン接種は進まず、陽性が疑われてもスムーズに検査を受けることもままならず、救急要請しても東京都では6割が病院に搬送されず、自宅に放置されたまま亡くなる人が後を絶たないなど、すべてが機能不全を起こしているコロナ対策。その上、「公助」も民間任せ。なぜ、ボランティアの支援団体が命がけで陽性が疑われる人の対応をしなければならないのか。   画像クリックで全文に飛びます。

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夕日と雲とスカイツリー

2021年09月09日 | 身辺あれこれ

撮影は点灯前の時間帯でした。

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