#11立飲み串揚げ屋・松葉 ’02/11/04
会社の関西営業部門が、これまでの西宮市から大阪市の中央区本町へ移転することになり
阿智胡地亭もこれにくっついて行き、明日11月5日から大阪の堺筋本町センタービルで勤務
することになりました。今日は引越作業で初めて新オフィスに出勤しました。
5年以上、ラッシュアワーの電車に乗らずに通勤していたいう恵まれた身でしたが、
(広島時代は歩きと路面電車で会社まで20分、西宮は自宅からマイカー通勤で30分)
明日からは30年間ほどやってきた、本来の満員の電車と地下鉄での通勤に戻ります。
引越収納作業が終り、全員で事務所開きをした後、少し寒かったけど、堺筋から御堂筋の本町へ
歩いて、そのまま梅田までずっと歩いてみました。休日ということもあって人通りも少なくゆっくり歩けました。
2回に渉り、通算16年ほど勤務した淀屋橋までの間にある銀行は、全て看板が書き換えられ、
なじみの伝統あるビルが取り壊され、オーナーが替わって新築になったり、スターバックスが
数多く出店していたりこの5年の間でもかなりの変化があるようです。
梅田に着いて、少し喉が渇いたので、昔よく行ったJRのガード下の「松葉」に行ってみました。
東京から帰り新参で2度目の大阪勤務時代、(ソースの2度漬けお断り)の注意書きが、
最初の大阪勤務時代と変わらず貼ってあるのが嬉しく、帰宅の途中よくこの店に寄ったものです。
この店に入ると、当時、転勤ストレス?と、この串揚げに通う回数の相乗効果からか、半年でいっきに4キロほど体重が増えたことや、
子供二人も茨城県北相馬郡藤代町からの転校で、それぞれの小中学での不適応ストレス(関東と関西の言葉の違いや学校文化の違いもあり)や
他にもなんやかんや家の外も中も、色々あった年月を時々思い出します。
店に入っていつものように「湯豆腐」を言うと、中国人の従業員が大きなシンクから一つ取り出し、
手早く皿に載せてタレをかけて出してくれる。この店の定番で本当においしく冬季は半数以上の客が
次々これをオーダーしています。
店員は昭和40年代からのオバチャンも数人いて、彼女たちと同じように歳を取っていく
同年輩の自分が、仲間どうしのような気がする時があります。
ビールを飲みだしたら、何となく今日はいつもと客筋が違うなと感じて、長い「く」の字のカウンターの両側をそれとなく見ると、
若い女性の二人ずれが立ち飲みで片手にビールのジョッキ、片手にひっきりなしに無料のキャベツを取って交互にやっているのあり、
若い男女二人連れが何組もいるし、一番驚いたのは50代後半の夫婦者が別々に3組も仲良く、串揚げで楽しそうにやっているなど
いままでこの店で見かけたことのないお客さんがおりました。
普段はネクタイあり、なし半々の男一人客がほとんどで、せいぜい二人連れまでの会社帰りが
20分ほど飲んで食ってという店なので、別の店かと思うほどでした。
これは今日が休日ということの特性かも知れぬが、関西ウオーカーかなんかでこの店が紹介されて
新しい客筋が来だしたのかもしれない。別途確認のため近々再訪の必要あり、またすぐ行ってみます。
もう一つ驚いたのは、確か前は一本100円のものが少なかったのに、どうも全品10円から20円値段を下げたようで100円の種類が増えていました。
湯豆腐も350円が300円となっており、マクドナルドや吉野屋の値下げの波及かも知れません。 デフレの余録でもあります。
阿智胡地亭は在店21分で瓶ビール一本、湯豆腐、玉葱、レンコンの串揚げ各2本を腹に納め、
1200円を支払い、「まいど」の声に送られて暖簾の外に出ました。
食ったとさ
#12堺筋本町界隈その一 ’02/11/10
1、昼休みに新しい事務所が入居したビルを出てぶらぶら歩くと、インド人に良く出会います。
また、周辺のインド料理屋やカレー屋の密度が大阪の外の地区に比べて濃いように思います。
通りすがりに日本人と歩いているインド人が話している言葉を聞くと日本語でやっていました。
10数年前に週刊誌で「大阪の本町の繊維問屋街にインド商人が多数・・・」という記事を
読んだのを思い出しました。
この地区のマップをインターネットで見るとインド総領事館もすぐ近くにあります。
戦前から、今に引続いてインド商人達が本町に来て、日本の繊維品を買い付け、
印度やアフリカなど全世界へ、華僑にならい印僑ともいわれる彼らのネットワークで
売り捌いてきたらしい・・・です。 ある意味で日本の繊維品の輸出の先兵でもあったらしい。
2、丸紅、伊藤忠、トーメン、江商、江綿、兼松など関西六綿、七綿?と言われた商社も全て最初は
繊維の販売、綿花、羊毛などの原料の輸入で大手商社への成長の基盤を作りました。
殆どの戦前からの関西系商社はこの界隈に商店時代の本店がありました。
今度入居したビルは、元の伊藤忠の本社があった跡地ですし、二つ隣は丸紅の大阪本社ビルです。
グループ会社の一つ、NSの大阪事務所が入居している戦前からの「輸出繊維会館」ビルも歩いて4、5分のところにあります。
3、どこに転勤しても必ずやるように、一ヶ月はまず昼休みに、歩いて15分で行ける範囲を探検して、安くてうまそうな昼飯の店を探そうと思います。
大阪でも広島でも神田でも西宮でもずっとやってきた習慣です。
その後で社の人達に紹介してきました。
手始めに、ビルの裏口を出て3分のところにある一番近い印度料理屋に入ってみました。
浅黒い四十五、六才のインド人のおやじと奥さんらしい日本人女性でやっていました。
ランチタイムのナンとチキンカレーとサラダのセットを食べながら、彼らと雑談しました。
オーダーを受けてから焼いてくれたナンも、スパイシーなカレーも文句のつけようがなくうまかった。
おやじはボンベイ(現ムンバイ)の北のアーメダバード出身で、そこから初めて出た外国が
日本だとのことでかなり日本語を喋りました。
途中で電話が鳴り、奥さんが取って日本語で話して「中国からナントカさんから電話」と言って
だんなに渡しました。だんなは印度語(アーメダバード方言?)で相手と喋っていました。
電話の相手は仲間の人が中国へ商売の調査へ行っているような感じでした。
いろいろ雑談していると、このところ仲間の連中が本国へ帰国したりしてインド人の数が減っている様子、あるいは、彼らがユニクロが生産委託する中国へ、
日本から商売をシフトしているらしいこと、おやじの話のゼニカネの物差しがすべてUS$である事(今アメリカは週15ドルで暮らしている連中が多いらしい、
とか全て円ではなく$で物を言うのがなるほどという感じ)、奥さんが日本の景気のデフレ傾向の先行きを、
すごく心配していること(ダンナが日本から出る心配?)などなどが出ていました。
どうもインドと中国を大のお客さんにしている会社の大阪営業部門が、やはりその国に縁のある場所に来たみたいです。
最後にチャイを飲みながら、この人達は(チャイナマンもコリアンもそうですが)ハナから国や
政府やなんか信用せず、また、会社なんかに所属せず、どこでもいつでも即時に通じる、
しかも最近の安い通信手段で、仲間たちと情報交換しながら、国境なんか関係なく生きて
いっているんやなあと、小泉、竹中を襤褸糞に言いながらも、誰も対案を出せない幸せな
日本国に住む、幸せな住人の一人が思いました。
最近、周辺に競争相手の飲食店が増えて大変ですと奥さんが嘆いていましたが、
暫く昼休みはインドレストランの探検をしてみます。
店が増えるということの裏を返せば、オフィスゾーンとしては人口が増えつつある
売れ筋の地区なのかも知れません。
ボンベイには20数年前仕事で何度も行き、ホテルはオベロイに泊まったと言ったら、
あんな高いホテルによう泊まったなあ、日本人はアホやなあという目で見られてしまいましたが、
うまい店なので合格の一店です。
次のこの店でのオーダーはタンドリチキンだ。
#13神戸新聞文芸欄エッセイ ’03/01/08
*神戸新聞の文芸欄に原稿用紙3枚エッセイ「ごもっとも、ごもっとも」を投稿し
5月に入選、掲載されたので舞い上がって、その後も、2回投稿しましたが、
世の中そう甘くなく佳作にも入りませんでした。
(どうも日々46万部発行の地元紙の雄である神戸新聞でも歴史のある欄らしい)
11月にもう一つのジャンルの400百字10枚エッセイに初めて投稿しました。
日本あちこち記で書いた旅行記をもとにリライトしたものです。
入選にはなりませんでしたが、この1月の選評に「小和田 満 作 ・ 一目2万本と室津千軒」が佳作として出ました。
今回は題名と作者名だけの掲載でしたが、年内にもう一度本文が掲載されるよう投稿を続けます。
一目2万本と室津千軒 ’02/3 (小和田 満 のペンネームで投稿したエッセイ)
このところ、綾部山(兵庫県揖保郡御津町)の梅林のことを神戸新聞が盛んに紹介するので、
かなり前に行った事がある同じ御津町の室津やその先の赤穂御崎にももう一回行くことにして
梅を見に出かけました。
43号線のセルフのスタンドで給油をした後、阪神高速でなくそのまま国道2号線を走りました。
須磨を過ぎると、山と海の間の狭いゾーンにJR山陽本線、私鉄の山陽電車、国道2号線の3本だけが隣り合って走っている個所があります。
外には何も通る余地はなく狭いエリアにこれしかありません。戦時、交戦相手国がここに爆弾を落とせば、
一発で日本の東西の物流の大動脈をぶちきる効率のいい場所だとここを走るたびに思います。
暫く走ると明石ですが、明石ではいつもなら「魚ん棚(ウオンタナ)」に行き、昼網のトレトレの魚か鯨専門店で鯨肉を買って帰るのだが今回は寄り道なので断念し、
これも外したことはない駅前から浜側へおりた「きむらや」の<玉子焼>をテイクアウトで買い、車の中で食しました。
やはりウマイ。カカーナビも私も大満足で折りの中身を変わりばんこに食べました。
この他所でいう「タコ焼き」を漬け汁にひたして食べる<明石の玉子焼>は「明石浦の地タコの生きのよさ、つけ汁の珍味、
卵白と黄身のミックスには元祖としてきむらやの貫禄十分で名物としての舌覚味あり。」と包み紙に地元紙の昭和初期の記事が
印刷されている惹句どうりで、これまで一回も裏切られたことがない。
この店の大ダコの足のおでんも軟らかさと味の良さで外では食べられないが、今回は遅い朝飯で家を出てきたため、無念ながらパスした。
明石からは県道718号とそれに続くR250を行きました。
沿線にはダイセル、日本触媒、多木肥料、アースなどの工場があり、仕事で昔行ったことがある
会社も出てきました。この沿線は百年ほど前までは白砂青松の海岸だったのでしょうが、
今は工場と住宅、マンションと畑、たんぼが無秩序に連なり川端康成の「美しい日本である私」は
どこやねんという感じです。
友人のNomoto夫妻の在所の高砂/曽根を通る時にメーターを見たら丁度家から60kmで、新日鉄
広畑の正門前が80kmでした。
結婚式でよく謡われる謡曲の「高砂や、尾上の松の・・・」は高砂あたりが舞台で、高砂市を通過する時に大きく
「ブライダル都市高砂」と看板が出ていたので、市も頑張ってるやんと思いましたが、今日びどれだけの人がわかるんやろうとも・・・。
昔の街道跡の道を、山陽電車のレールと平行して走ったり、古い商店街を注意して走ったりして
国道250号を姫路、網干をすぎ新舞子の綾部山の梅林に着きました。
一目2万本という宣伝文句をあまり信じてなかったのですが、行ってみて一山全て梅林というスケールの
大きさとむせ返る梅の芳香に驚きました。ここまで凄い梅林は始めてでした。
1)梅林は 幹の太い沢山の古木が良く手入れされていて、てっきり江戸時代からの
梅林かと思ったら昭和43年に農林省の何かの補助金をうまく利用して、土地の人た
ちが、梅の実を採集する組合をつくり梅の植林からスタートしたとのことでした。
ゴルフ場で使われているカートのレールが斜面に張り巡らされ、手入れの道具、肥料などの運
搬に使われ、良く見ると給水パイプも全山に敷かれていました。
「桜切るバカ、梅切らぬバカ」といわれるとおり、よく手入れがされていて枝がバランスよく裁断され、
また高さも低くトリミングされていて斜面に立つと丁度目の高さに、白や紅やピンクが織り込まれた絨毯が見渡す限りひろがっていました。
知らなかったが、相方によると実がなるのは白い梅とのことで、なるほど 8:2くらいの割合で白梅が多かった。
山の下から上まで梅の芳香に包まれて上っていくと、黒崎の市街地や塩田あと、そして新舞子海岸のある瀬戸内海が
視野に入ってきて春霞の中に雄大な眺めが広がりました。
充分堪能して、 ここで取れた梅で作られたウメ缶ジュースをサービスでもらい、おいしく飲み干し、室津に向かいました。
2) 室津へは10数年ほど前、神戸に戻って暫くして日帰りで行ったことがありますが、今回はガイドブックで見つけた「きむら」という旅館に
一泊の予約をしました。この旅館は竹久夢二や谷崎潤一郎が滞在し創作や執筆をしたと紹介されていましたが、いまは町中から出て高台へ移転しています。
宿の一角に夢二の絵が沢山掛けられていました。
竹久夢二はここからそう遠くない岡山県の邑久郡の出身です。
(このことは大阪時代、仕事で邑久のヤンマー造船所へ行った時に知りました)
室津は江戸時代、参勤交代の西国大名が参勤交代のため瀬戸内海を船で移動するときの船本陣があった自然の良港です。
宿に車をおいて、部屋で一休みしました。 部屋からは、港と小さな湾を囲んだ平地にぎっしり立ち並んだ家々と漁船の群れが真下に見えました。
その後、宿のある高台から港までおりて町に入りました。町には昔の本陣と脇本陣
だった建物が二つだけ保存され、博物館になっておりよく維持されていました。
江戸時代、北海道、秋田、酒田などと交易をした北回船の胴元達もこの地にいたり、本陣もいくつもあったりで、
室津は近隣では飛びぬけて富裕な土地柄だったため、姫路藩が飛び地として所有、支配していました。姫路の殿様や上級武士は
ここの金持ち連中から毎年盆正月に借金しては踏み倒し、その代償として苗字帯刀、駕籠使用の許可などで、
商人のご機嫌を取っていたような説明があり、笑いました。ロシア宮廷も清朝も江戸幕藩体制も末期になると人間のやることは皆同じで、
経済が商業資本に実質的に、押さえられています。脇本陣の家は革細工の煙草入れの製造元でもあり、当時から大阪船場に販売の店を持っていたそうです。
今に続く姫路の革産業は歴史があるんやなあと思ったことと、この豊野家の「豊」という字は姫路藩の筆頭家老
である「豊田」氏から使用を許され、名乗ったという説明で、そう言えば、知っているあの豊田さんも姫路西高の出身だったなあとフト頭に浮かびました。
①江戸時代、参勤交代の西国大名の往来で栄えた頃、「室津千軒」と言われたという町中を歩くと
今は全くの漁師町ですが、立派なお寺やソテツの群生がある岬の丘に結構大きな「賀茂神社」が
あり、長年旦那衆がいたところだと実感します。
余談ながら加茂、鴨、賀茂と漢字は色々ですが、古代、海洋民族の「KAMO族」が南洋から日本に、
次々と数多く漂着し各地の海辺に定住したり、魚を追い、川を溯って山国へ移動して住みついたりしたため
「賀茂川」や「賀茂」という地名は全国各地に数知れません。
また賀茂神社は京都の下賀茂、上賀茂神社のように日本の神社の中でも相当古い神社のようです。
京都の下賀茂神社にお参りした時、その建築物が、高床式で柱と屋根だけのマレーシア、
サラワクやフィリピンの家と殆ど同じ形式なのに驚きました。とても寒い京都の気候から生まれた
構造物ではありません。また祭られている神様は当然「水」の神様です。
②魚中心の夕食を旅館なので部屋に運んで来てくれ、ゆっくりおいしく食べました。
食事の後、ロビーの夢二のコレクションを見て早めに休みました。
何となく外が騒がしいので目が覚め、時計を見ると明け方の5時半でした。窓を開けると
ドッドドッドとエンジンを轟かせ漁船が次々と港を出て行くところでした。
真っ暗闇の中をマストに赤と緑のランプをつけ、前だけを照らして同じ間隔を取って出港していきます。
小さな漁船が100艘ほども一列縦隊で出て行くのを始めて見ました。
思わず最後の一艘が出て行くまで見てしまいました。
朝食の時にいいものを見たと宿の女性に言ったところ、彼女には毎朝の出来事らしく、なんで
そんなものが珍しいのかという顔をされてしまいました。
③港で干物を買って、赤穂御崎を目指しました。カーブの多い海岸線に沿って走っていくと、
建造中の大きな自動車専用船が何ばいか見えてきました。いつか相生市に入っていました。
船が建造されていたのはIHIの相生造船所でした。本館と思える建物やドックを過ぎると、
中国から江戸時代?に移入された「ペーロン船」の競争会場が現れ、赤と金を多用した中国風の
記念館があって、テレビでしか見たことがない場所に突然紛れ込みました。車で移動すると
時々こういう思いがけない楽しみがあります。
赤穂御崎でゆっくり海を眺めたあと、山陽自動車道の赤穂ICで高速に乗り、帰りは2時間ほどで
家に帰り着きました。走行距離計は242kmでした。
行ったとさ
#15 セリのおひたし その一 03/01/26
東京に出張すると泊まるのはつい神田になる。
会社員になって連続して勤務した土地は神田美土代町の13年間が一番長い。
ホテルはインターネットの「旅の窓口」で予約するのだが、勤務先の本社がある芝公園や
浜松町の近辺よりまず神田のホテルを探してしまう。
神田ステーションホテルに泊まると、だいぶ前から近くに気になる看板の店があった。
ホテルを出たすぐ右のガード下に「里」という看板が上がっている。
もうかなり前になるが、神田駅東口すぐ近くに「里」という4、5人も入れば
一杯になるカウンターだけの小さい飲み屋があって、おかみが一人でやっていた。
大阪から出張して同期入社の中島と二人で飲む時、時々彼に連れられて一緒に行った。
一人でやっている彼女はおかみさんというには痛々しい感じだが、
それでも、ものに動じない明るい人だった。客は誰もが彼女のことを~ちゃんと
名前を呼んでママともおかみとも言ってなかった。当時の彼女はそういう年回り
でもあった。
あるとき中島と店の前を通りかかったら、その店の電気が消えていて、聞いたら、
近くに店が移ったと言う。その晩は彼がそこへ行こうとも言わなかったので
自分としては「里」は、結局どこに移転したのかもわからずそのまま縁が切れた。
そしてそのあとは、神田駅に向かって店の前を通るたびに、ここで中島と時々
飲んだなあと思い出す場所でしかなかった。
半年ほど前に一度、看板が出ている店の前に行ってみたことがあるが、
暖簾もなく障子がピシっと入り口を塞いでいて中の様子は一切何も見えず、
一見さんお断りのような、なじみ客相手の店のような感じがして、そのまま
入らずじまいだった。
先週久しぶりにこのホテルに泊まった時、また看板の「里」の字が目にとまり、
ロゴもやはり見覚えのあるロゴだったので、思い切って店に入ってみた。
いらっしゃいとこちらを見て言った人は少し歳をとったように見える彼女だった。
先客は一人で、なじみらしかった。二人で笑顔で話をしていた。
店は前の二倍かそれよりちょっと広く、洗い場を囲んだコの字型のカウンター席が
12、3席でそれでも一人でやっているのは変わりなかった。ビールを頼んで2、3杯
飲んでから、ここへ移ってどれくらい経つのかと聞いたら5年だと言う。
前の店にいらしてくださっていたんですかと聞くので、中島君に連れられて時々
行ったことがあると答えると、すぐに、中島さん、ここんとこ暫く顔を出してくれないので
皆でどうされたのかなあって言ってるんですよと言った。
じゃあご存知ないんだ、一年ちょっと前に亡くなってしまいましたと答えると、
彼女の笑顔がとまってしばらく黙った。
病気ですか、そうですか、早かったのね。ちっとも知らなかった。
良く来てもらったんですよ。
そして少し唐突に、中島さんにはうちの犬も貰ってもらったんですよ。
もし元気ならあの犬13才になるわと言った。
でもここんとこ、お酒の飲み方が凄くてね。そんな一遍にぐいーって飲み方しないほうが
いいよってよく言ったんだけど。
亡くなった前年の秋口から年が明けた2月頃まで、大田区の新しい勤務先の工場に時々
連絡して品川あたりで中島と何回か二人で飲んだのだけど、なんか怖いようなピッチで
飲んだのを思い出した。
店は始めて32年だが、前の場所で最初4、5年手伝っているのを入れると、35、6年店を
やっていること、中島は間があいても20年以上は通ってくれたこと、大田区の工場の帰りに
もよく寄ってくれたことなど話してくれた。
小さな黒板にその日出来る品が10品ほど書いてあり、その中に「セリのおひたし」が
あったのでお銚子とそれを頼んだ。暫くして大きな器に入って出てきたセリはちょうど
いい茹で加減で量が思いのほか多く、きれいな青い色の残るセリのほのかな香りと熱燗の日本酒がよくあった。
話を聞いていた先客が、~ちゃん今日はいい日だね、ずっと気にしてたことがわかってと
言うと彼女は微笑みながら、でもちょっと強い口調で、私にはちっともいい日じゃないよ、
悲しい日だよと返した。
(続く)