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映像:菅江真澄が見聞したであろう外ヶ浜浅虫温泉の現代の様子(鳥瞰図風に撮影)
紀行家:菅江真澄は青森県・秋田県の各地を巡行して詳細に日記に書き残している。
その中には温泉地に関するものも数多く、江戸時代の温泉地の様子を調べる重要な
手がかりとなり、温泉史を紐解く資料でもある。青森県の代表的な浅虫温泉も記述。
記述:菅江真澄遊覧記二 ー 外ヶ浜づたひ{天明八年(1788)7月6日}ー
『かくて浅虫の浦につくと煤川の岸に・・・少し高い岩のたっているのを肌赤島
・・・鳥の形をしたのを鷗島・・・鳥居の見えるのが湯の島・・・出湯の村に宿をと
った。・・・滝の湯、目の湯(椿館)、柳の湯、おお湯、はだか湯などが、た
いそうきよらかに湧き、また軒を連ねた家々のうしろにも湯があってよい』
『・・・「とりわけこの津軽というところは温泉の数がたいそう多い」と答えた。
どこと何処にと尋ねると、「ご存知のとおり、関の湯の沢、碇ヶ関の湯、大
鰐、蔵館、嶽、湯谷(湯段)、切明、酸か湯、下湯、温湯、板留、要目、沖
浦、二升内、大川原、田代、根子、猿、笹内、・・・・そしてこの浅虫です」』
解説:菅江真澄は奥の細道を源義経北帰行の伝説を辿るかのように歩き、此の後、
安潟、油川、三厩から船で蝦夷地(松前藩)に渡って見聞をしたのである。
入国・出国の厳しい江戸時代、資金力・手形などを考えれば、スパイと間
違われても致仕方ないだろう。三河の出身で膨大な日記等は後に津軽藩に
疑われ多くを没収され、半ば追放の様な形で秋田藩に移住する。津軽藩は
徳川家康の宿敵石田三成の子孫を匿っていたので幕府の諜報活動、津軽藩
防御など時代の政争があった事は否めない。紀行家の他に何か任務を感ず。
参照#菅江真澄(紀行家・歌人)探訪紀行