(16日、アメリカから帰国して支持者の歓迎を受けるサム・レンシー氏 【8月16日 CAM PhotoAgency】http://camphotoagency.blogspot.jp/2013/08/blog-post_16.html)
【首都や人口の多い州では、野党が与党を上回る】
フン・セン首相の長期政権が続くカンボジアでは、先月28日に総選挙が行われました。
フン・セン首相に対抗して野党の軸となるサム・レンシー氏の帰国と盛り上がる野党陣営、強権支配や不正・腐敗の横行を批判されながらも、クメール・ルージュ支配下の地獄を多くの国民とともに生き抜き、カンボジア内戦後の安定をもたらしたとして根強い支持を集めるフン・セン首相について、選挙前の7月19日ブログ「カンボジア 総選挙を前にリベラル派の亡命政治家帰国 批判もあるフン・セン首相が支持される背景」(http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20130719)で取り上げました。
選挙結果については、フン・セン首相の与党が議席数を大きく減らしたものの、過半数は維持・・・という中央選挙管理委員会による暫定結果が出されていますが、野党側はこれを認めていません。
****与党勝利宣言も難しいかじ取り カンボジア総選挙、都市で野党大躍進****
7月28日に投開票されたカンボジア総選挙(定数123、5年ごとに比例代表制で改選)は、与野党双方が「勝利宣言」をして迷走が続いている。
8月12日までずれ込んだカンボジア中央選挙管理委員会による暫定結果の発表によると、与党・カンボジア人民党が辛勝したが、野党・カンボジア救国党は受け入れていない。
当初懸念された大規模デモや衝突は発生しておらず平穏だが、フン・セン首相の与党は厳しい世論を相手に、難しいかじ取りを迫られている。
◆ほぼ互角の数
カンボジア中央選挙管理委員会によると、得票数は与党・人民党が約324万票、野党・救国党が約295万票。確定得票と獲得議席数は9月上旬にも発表される見込みだ。与党は全国のほとんどの州で野党を上回ったが、首都プノンペン、コンポンチャム州、プレイベン州、カンダール州といった人口の多い州では、野党が与党を上回り、有権者の不満が都市部ほど強いことを示した。
カンボジアの総選挙をめぐっては投開票直後、与党・人民党が「与党68議席、野党55議席」との独自集計結果をもとに勝利宣言した。
改選前の議席は、与党90議席、野党29議席(旧サム・レンシー党と旧人権党の合計)、その他4議席で、与党が大幅に議席数を減らすことは確実だ。
一方の野党は「63議席以上を獲得している」として、与党発表を認めていない。
投開票日の1カ月前から始まった選挙運動は、7月19日に野党のサム・レンシー党首がシハモニ国王の恩赦を受けて事実上の亡命先であるフランスからカンボジアに帰国してから、一気に盛り上がった。
サム・レンシー氏は2009年、現政権のベトナムに対する姿勢を非難し、ベトナムとの国境を定める杭(くい)を抜いたため、器物損壊などの罪に問われた。10年、同氏は国会議員の不逮捕特権を剥奪されたためフランスに渡り、カンボジアではこの件について本人不在のまま懲役刑が言い渡された。
以後、身柄拘束を避けるため、カンボジア国外で政治活動を続けていた同氏だが、国王の恩赦を受けて帰国。党首を迎えようと、空港周辺の道路は支持者で埋め尽くされた。
◆巧みな現首相
野党優勢の情報は投票日当日、即日開票された会場からも流れた。だが、野党は勝利宣言までしたものの、フン・セン首相の硬軟使い分けての巧みな自己演出と、野党党首の渡米で勢いがそがれた。
各地で野党大躍進が伝えられた投開票日の夜から、フン・セン首相は3日間、公の場に姿を見せなかった。国外亡命説も出たほどの沈黙を貫き、ようやく国民の前に姿を見せた7月31日夕方には、野党に対し「与野党協議で解決を」と柔軟姿勢で呼びかけた。
そして強硬だった野党が話し合いに応じる意思を示したとたん、今度は首都郊外に装甲車などを配備し、大規模デモを示唆する野党に対し、力には力でこたえる強硬姿勢を見せた。
与野党の攻防が続く8月上旬、今度は野党のサム・レンシー党首が「家族の結婚式のため」として約1週間渡米。野党支持者の中には「なぜ、この時期に私用で渡米するのか分からない」と力を落とす人もおり、熱が冷めかけたようにも見える。
ただ、与党の独自集計でさえ政権を脅かしかねない得票数が弾き出された「野党の大躍進」は、与党内部に強い衝撃を与えたようだ。
安泰といわれたフン・セン政権の基盤が揺らぎ、与党内部にも「政治改革」の必要性を訴える声が強まる可能性もある。与党の報道官は独自集計を受けて「われわれにとって、目の覚めるような結果だ」と語った。
野党に託すには早い、だが与党とて最良の選択肢ではない、という国民の意思を、百戦錬磨のフン・セン首相がどのように受け止めるのか。カンボジアは政治の季節がまだ続いている。(カンボジア邦字月刊誌「プノン」編集長 木村文)【8月21日 産経】
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【虐殺・戦乱へのトラウマも人民党への恐れも持たない世代】
野党躍進の背景には、フン・セン首相への批判があるのはもちろんですが、あの“地獄”のようなカンボジア内戦を経験していない若者(ポスト内戦世代)の増加があるようにも思えます。
****カンボジア総選挙 ポスト内戦世代が動かす民意 大野良祐****
その町には、あっけなく着いた。カンボジア北部、アンコール遺跡群で知られる古都シエムレアプから北へ車で2時間。アンロンベンは、ポル・ポト派が最後まで抵抗し、そして消滅した地だ。総選挙があった7月28日に訪ねた。
かつて、簡単には近づけない密林だった。1998年、政府軍が最終攻勢をかけるなか、ポル・ポトがここで死んだ。制圧後、現地が報道陣に公開され、私も取材に行った。道はなく、軍の旧ソ連製ヘリに乗った。同派の最後のトップだったタ・モク参謀総長の家は、トイレが洋式だった。そのことへの違和感が、記憶に残っている。
それから15年、ここはタイ国境の町として開かれた。商店が立ち並び、カジノができ、ポル・ポトの火葬場所やタ・モク邸は観光スポットになった。キリングフィールドから安定、経済成長へ。アンロンベンには、この国の支配者フン・セン首相がもたらした変化が凝縮されていた。
98年は、国連カンボジア暫定行政機構(UNTAC)下の総選挙(93年)に続く、新生カンボジア2回目の総選挙の年だった。当時取材した有権者たちは、例外なくポト派時代と内戦を通じて凄惨(せいさん)な体験をしていた。「安定」が何にもまさる価値だった。
その手法の是非は別として、フン・セン体制のもとで政治は安定し、04~07年には10%を超える経済成長を実現した。この前後、2回の総選挙は人民党の圧勝だった。
そして今回、5回目の総選挙が実施された。「安定」と「成長」で国民の不満を抑え込む「フン・セン・モデル」は、いましばらく有効だろう、と誰もが思っていた。
だが、結果は違った。下院123議席のうち、人民党は68で、野党・救国党は55。野党が大躍進を果たした。
投票数日前、通訳・ガイド業を営むセイハーさん(34)は「私の世代でも、野党支持を口に出すのは怖かった。今の若者は違います。こちらに来ればわかります」と興奮ぎみのメールをくれた。
プノンペンに着くと、若者たちが野党の旗を振りながらバイクで街を走り、その数が日に日に増えていった。交流サイト上には「(金を払って人を集めている)人民党集会で2万リエル(約500円)もらってきた。この金でガソリンを買って、救国党のために走るぞ」。そんな書き込みが飛び交った。
カンボジアは若い国だ。ポト派支配期に200万人近くが犠牲になり、当時の子ども世代の30~35歳人口が極端に少ない。逆に、和平後数年間に生まれた15~20歳が団塊の世代だ。選挙権は18歳から。今回初めてポスト内戦世代が1票を手にし、その数は有権者の3割近くに達していた。
首相の座に28年。フン・セン氏がカンボジアを知り尽くしているのは間違いない。だが、5年に1度示される民意は、虐殺・戦乱へのトラウマも人民党への恐れも持たない世代の入場で、不連続の変貌(へんぼう)を遂げていた。外交官として60年代から同国を見つめてきた元駐カンボジア大使の篠原勝弘さんは「UNTAC選挙のときのような熱気を、久しぶりに感じた」と話す。
人民党は、長い支配のもとに巣くった腐敗や不公正を正し、救国党は、対決一色ではない建設的な野党という政治文化を育め――これが有権者の負託であろう。見事な民意が示されたと私は思う。【8月19日 朝日】
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ただ、前回ブログでも紹介した「フンセンは自分たちと一緒に、厳しいポルポト時代を生き抜いてきた。サムレンシーはその時、フランスでエアコンのきいた部屋にいた。ベトナムの力を借りたかもしれないが、実際にポルポト政権を倒したのは人民党だ」という国民の声には(ポルポトを倒したのがベトナムか人民党かという判断は別にして)重いものもあります。
【ひとつの時代が終わろうとしている】
サム・レンシー党首のフランスとカンボジアを行き来する人生については前回ブログで取り上げましたが、今回、選挙後の重大な時期の渡米ということで、「またか・・・」という感もありましたが、16日には帰国したようです。
****救国党サム・レンシー党首が滞在先のアメリカから帰国****
カンボジア最大野党救国党のサム・レンシー党首が滞在先のアメリカから今日午前カンボジアに帰国しました。この帰国に伴い、空港そしてロシア通りの沿道には多くの支援者が集まり同党首を出迎えました。
同党首はアメリカ滞在中、娘の結婚式に出席したほか国連やアメリカ政府関係者と話し合いの場を設け意見交換を行ったと見られており今後予定されている、与党人民党や選挙管理委員会との会合にどのような姿勢で臨むのか注目されています。【8月16日 CAM PhotoAgency】
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“野党に託すには早い、だが与党とて最良の選択肢ではない、という国民の意思を、百戦錬磨のフン・セン首相がどのように受け止めるのか”・・・・長く政権を維持した権力者が晩年に自己改革して新たな政治を行ったという事例はあまり耳にしません。
おそらく、フン・セン首相も“目の覚めるような結果”に正面から向き合うことは難しいのではないでしょうか。
どちらが勝利したかは定かではありませんが、野党側にも政権を圧倒する力がなかったのも事実でしょう。
ただ、今の流れでいけば、フン・セン首相の神通力もこれが最後ではないでしょうか。
“カンボジア内戦の戦後”というひとつの時代が終わろうとしているのでしょう。
野党側・サム・レンシー氏には、大規模デモや街頭での衝突という混乱、あるいはアメリカなどの支援をうけての活動ではなく、次期を念頭に置いて、議会を通じた地道な改革を目指してもらいたいものです。