何故、日本人が神道以外の一神教のクリスマスなどを平気で受け入れるのか不思議です。
ところが、それをねずさんが解りやすく教えてくれています。何と、日本人は一神教の人達とは目標が違うのだそうです。
日本人はもっと上を目指しているのでその為には何でも取り込むことが出来るのだそうです。
これは納得しますね。
何時ものように全文をリンク元で読んで下さい。
ねずさんの学ぼう日本より 2022/06/02
韓信(かんし ん)の股くぐり
・・・略
日本では、実はキリスト教は、おおいに普及しています。
たとえば、クリスマスのお祝いや、プレゼント、あるいは「きよしこの夜」を歌ったりすることは、日本人なら、誰でも行いま す。
だいぶ以前ですが、知り合いのお寺のご住職が、ずいぶんと若い美人さんと結婚しました。
お寺の住職ですから、当然結婚式も仏式で行うのだろうと思っていたら、びっくり。
結婚式場に設置されている教会で、神父さんを呼び、新郎は白のタキシード、新婦も白のウエディングドレスでの結婚式でした (笑)
要するに日本人は、キリスト教を拒否しているどころか、おおいにキリスト教を社会に取り入れているわけで、決して拒否してい るわけではないということができます。
このことは、仏教においても同じで、仏教では死んだら極楽に逝くと説きますが、神道では死者の魂は神となってイエ・ムラ・ク ニの守り神となるとされます。
両者の考え方はまったく異なるのですが、なぜか日本では神仏習合で、神様と仏様は普通に共存しています。
もっと言うなら、現代日本では、神仏習合どころか神仏基(基は基督教(きりすときょう)のこと)習合なのであって、そのこと に疑問を持つ日本人はほとんどいません。
なぜこのようなことが可能になるのかというと、日本古来の神道が、「道」であって、「教え」ではないことによります。
受験に例えるなら、大学合格までの「道」があります。
その道を歩むにあたり、受験生は、良い教師に付いたり、よい教材を教わったりして、より確実な合格を目指して努力するわけで す。
神道(かんながらの道)もこれと同じで、縄文以来、我々は神様になるために生まれてきたのだから、そのために必要な良い教え であれば、仏教であれ道教であれ、ヒンズー教であれ、キリスト教であれ儒教や易経であれ、良いと思われる「教え」は、なんで も採り入れる。
つまり、日本人の目的意識は、よりよく生きることにあるのです。
教えそのものは目的ではありません。
そこに日本的思考、日本的価値観の特徴があります。
こうした文化的土壌の背景にあるのが日本神話です。
日本書紀によれば、イザナギとイザナミがこの世界を作ったのは、「豈国(あにくに)」つまり、「よろこびあふれる楽しい国」 を作ろうとしたのだと書かれています。
よろこびあふれる楽しいクニ、よろこびあふれる楽しい社会、よろこびあふれる楽しい人生を実現するために、良いと思う教えな ら、なんでも採り入れる。
目的がそこにあるのですから、キリスト教を学んでいる人であっても、「踏み絵」を踏まなければころすぞと言われれれば、何の 迷いも躊躇もなく、これを踏む。
それが日本人のしたたかさであり、日本人の強さの根源です。
まして、股くぐりくらい、なんでもない。
日本男児にとって、「恥は一時、志は一生」です。
志は一生は、何度読んでも心が痛みます。何といっても目指すべき志を持たずに人生の大半を過ごしてきたのですから。
ねずさん達にネットで合わなかったらそのままあの世に行っていたことは間違いないでしょう。なんとも危なかった。