明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



今号は、リアルさにこだわってみた作品である。笑いを仕事とする芸人、特に一流に限ってそうなのだが、古今亭志ん生も顔が怖い。その顔でニコリともせず、とぼけたところがたまらないわけだが、しゃべらなければただ怖いので、志ん生を表現するのに頭の大きい、デフォルメしたイラストばかりなのであろう。そこで志ん生の18番にちなみ、老人には無理のある、大きな火焔太鼓を背負ってもらうことで、可笑し味が出ないかと考えてみた。志ん生の長男、金原亭馬生は、調べてみたら、火焔太鼓が風呂敷で背負えるような物ではないと、噺を大八車で運ぶことに変えたが、志ん生は「だからお前は駄目なんだ。大きさなんてどうでもいいんだ」といったそうである。馬生の大ファンで同じく長男の私は、いたく同情したものである。父親というものは、往々にして反面教師となるものであろう。 志ん生は“一々注ぐのは面倒くせェ”とコップ酒専門であった。当然目の前にお銚子とコップを置いたのだが、飲酒をイメージする表現はいけないというお達しで削除。私の作品のせいで飲酒運転が増えてはいけないし、そのせいで惨事が起きたのに、私もついに左甚五郎の域に、などと自惚れてしまってもいけない。湯飲みなら良いというので、あとから合成したのだが、なるほど、これなら酒ではなく、水カステラに見える・・・。
 
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宮沢賢治はできるだけ空に近い所でと考えていたので、『霧雨のニコライ堂の屋根ばかりなつかしきものはまたとあらざり』と歌ったニコライ堂の上に登ってもらった。背景には銀河鉄道。両方とも模型である。現在のニコライ堂は震災後に立て替えられているので、江戸東京博物館の、ジョサイア・コンドル設計の、初代を再現した展示物を使用。銀河鉄道は『月刊とれいん』の平井憲太郎さんにお骨折りいただき、製作者の方にお借りした岩手軽便鉄道である。 宮沢賢治というと真面目なボクサーのように、決して顎を上げないというイメージがあるので、あえて下から煽って撮影した。一度作ると、どこからでも撮れるのが立体の良いところで、下から見るとこんな顔なのかと思いながら撮影した。これが賢治か、というむきもあろうが、下から見た顔など誰も知らないのでいいのである。 前号の手塚治虫と今号と、高所のSF調が続いたので、4月配布の8号は一変して、思いっきり地べたに密着させるつもりである。

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背景は本郷の東大構内にある三四郎池である。もとは心字池といったが、漱石の『三四郎』(1924)にちなんで、そう呼ばれるようになった。この場所で最初に三四郎と美禰子が出会う場面は印象的だが(美禰子は平塚らいてふがモデルといわれる)夏の夕暮れという設定で、美禰子が二人連れだったことを除けば、作中の雰囲気があるていど再現できたのではないだろうか。 漱石のポートレイトといえば千円札になったものと、肘をつき、こめかみに手を当てているカットが圧倒的に知られており、真正面を向いた写真は少ない。若い頃の不鮮明なものと、晩年の老人じみたものくらいしか見つからなかった。ということは、一般の日本国民が普通に暮らしているぶんには、真正面を向いた漱石を目にする機会はないはずである。そこであえて真正面を向かせ、これは私達の良く知っている夏目漱石だ、と思っていただければ、私としては成功ということになるだろう。もっとも、16日の雑記に書いたように、私はいささか漱石の鼻筋に“疑惑”をもっていたので、横を向かせることを躊躇したということもあったのである。 これがうまく行ったとすれば、残る難関は正岡子規と、ラフカディオ・ハーンこと、小泉八雲の真正面顔であろう。

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『中央公論adagio』創刊第2号発行。ページ数も増えたようである。 創刊号の乱歩は、凌雲閣から月や空までCGで作ったが、今回は一切加工なしで、プリントは盟友田村政実氏。天候、撮影場所の都合で、何度か撮り直している。“おはぎのような”愛猫を抱える向田邦子の図。この雑記を読んでいる方は、撮影する私のすぐ左の柵越し4メートルに、小学校の、ジャージ姿の若い女教師。背後5メートルに警備員の、不審気な視線があることを知って見るのも面白いかもしれない。この撮影をきっかけに、向田のTVの仕事しか知らなかった私が、改めて文章に触れることが出来たのは収穫であった。

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