明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



ディアギレフは先日書いたような人物であるから、コクトーその他が残したデッサンは臼のようなデカ頭の凸ッパチに描かれていて、かなりの悪意を感じる。嫌な面をもっていたのは想像がつくが、コクトーに私を驚かせてみろと奮起をうながし、ピカソにチャンスを与え(革新的な作品『パラード』として結実する)ヘアートニックの臭いに辟易とさせながらも?一目も二目も置かれていたわけである。レベルが地の底に落ちていたフランスバレエ界に(金でダンサーが買える状態)高レベルを保っていたロシアのバレエを持ち込み、それに当時の前衛的な画家、作曲家を起用しセンセーションを巻き起こした。そのディアギレフが組織したロシアバレエ団が今年100周年である。各国で催事がもようされるようだが、残念ながら日本は素通りである。ついこの間バレエブームだといわれていたのが馬鹿々しいが、日本では所詮『白鳥の湖』止まりなのだそうである。2007年の庭園美術館の『ディアギレフのバレエリュス展』などディアギレフの、と銘打っているのにかかわらず、ディアギレフの肖像写真一つ展示されていない始末で、観た人はディアギレフが何だか判らずじまいだったであろう。 私はニジンスキーを作りたくて2002年にニジンスキーで個展を催したが(オイルプリント中心に立体像は発表せず)展開を考えるとディアギレフを軸にすべきだと思い直している。ディアギレフの生前、悪戯描きのようなデッサンをふくめ、レオン・バクストの油絵など数々残されているが、立体は残されていないようである。そんな人物を作っているときの私の快感は大変なもので、今こんな物を作っているのは地球上で私だけだろう。と考えただけで脳のなかを、いかがわしい快感物質が駆けまわるのである。ソファーに肘をかけ、気だるげな視線の先には脅威の跳躍を生んだ、ニジンスキーの偉大な臀部から太股の筋肉であろう。となると、隣に座らせるのはストラビンスキーが第一候補。なにしろ妙な顔であるから私が作るに値する。レオン・バクストではインパクトがイマイチ。画になるのはコクトーであろうが、さすがのコクトーがディアギレフの隣りで貫禄負けするのを、ディアギレフを知らない人は納得するだろうか。それでは時に金を融通したココシャネル、面白さでピカソはどうか?  物心ついた時からこの調子の私の創作行為は、快感物質の中毒症状だというのは間違いがない。何しろ2002年の個展など、バレエを一度観ただけで翌年開催してしまったのだから、その症状は深刻である。

01/07~06/10の雑記
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