明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



エドガー・ポーは繊細すぎる神経の持ち主で、アルコールだけでなく、アヘン中毒でもあったようである。多くの作品で、徐々に狂気が深まっていく主人公がリアルに描かれている。 今から二百年前のアメリカというと、専業の作家というのはいなかったつまり原稿料が安い。ポーは存命中すでに海外にまで知られていたにもかかわらず食べていけない。なのにプライドが高く、せっかく得た編集の職も長続きしない。あげくに食事にも事欠く始末である。なぜわかるかというと、金の無心の手紙など、たとえば最終的に仲違いする養父への手紙など、感心するくらい残されているからである。当時、手紙は捨てずにとっておくものだったのだろうか。 常に生活が苦しい。この追い詰められ感は、まるで刃のついた振り子がじわじわと降りてくるような苦しみではないか。そして危機一髪で主人公は救われる。これは友人からのドルが届いた感じではなかったか。そんな気がしないでもない。  『黒猫』。殺した妻を壁に塗りこめ、これで大丈夫。警官に調べられてもバレない。なのに諦めて帰ろうとする警官をわざわざ呼び止め余計なことをいい、その壁の部分をステッキで叩き、理由はともかく犯した罪が露見する。本人は何故そんなことをするのか自分でも判らない。病弱な妻を家に残し、せっかく得た安定した編集者の職を辞するとき、ポーはあの作中の人物のような心持ではなかったか。そして自己嫌悪で飲まずにはいられない。 私は高校生の夏休み。1センチほどの鉄棒を4、5本づつ切断するアルバイトをした。炎天下である。それがある時から、そこに指を入れてみたい誘惑に駆られ、止める頃には、毎日がその誘惑との戦いであった。人間にはそんなところがあるのではないか?たとえば数十センチのパットを残し優勝をかけたゴルフの試合。固唾を飲んで見守るギャラリー。ここでフルスゥイングしてすべてを台無しにしてしまう誘惑と戦っている選手などいないものだろうか。いないだろうが、いたとしても私は驚かない。

世田谷文学館展示中

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