明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



ある人物のオマージュ的なグループ展のお誘いをいただく。おそらくはその人物の人形、また人形を何処かの風景に配して撮影し、というようなイメージをされているのだと思うが、その人物はご存命の方である。肖像権その他で人形を作っても、その後は使いようがないだろう。それに健在なれば、誰かがご本人を撮れば良いことである。私が“捏造”する意味はないように思われる。そう思って、存命中の人物を作ったのを順番に思い出してみると、82ミルト・ジャクソン、88ステイービー・ワンダー、88高橋幸宏、89シュガー・ブルー、90BBキング、11伊集院静、13吉本興行大崎洋社長というところであろう。82年のミルト・ジャクソンは当時は写真に撮って残そう、という発想もなく、健在であれば新宿の某ジャズ喫茶に未だに飾ってあるはずだが、怖くて見に行かれない。こう観ると、ほとんどが依頼されて作ったせいもあるが、私もなかなか芸域が広い。 オマージュ展のお話は、いただいたばかりなのでなんともいえないが、本人は登場しないものの、作中の一場面を作るということになりそうである。路地の間から唐突に機関車を登場させるも良し、寂れた温泉場の裸電球の下に女を配するも良し。

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某出版社にて、編集者と某アーテイストと飲み会。創作者と孤独について話が及ぶ。私は乱歩のいう“群衆の中の孤独”というものを恐れていて、一人夜中に、今こんな事をしているのは地球上で私だけだろう。と思う時、得も言われぬ幸福感に満たされる。人と違う事をしたい、ヘソが曲がっている、とそっくりだが、そういうレベルではない。某アーテイストは、尊敬する恩師に創作者は孤独が不可欠といわれたそうで、本人は外に飲みにいくことすらしない、という。私の場合群衆に限らず、例えば知人の家に遊びに行き、タンスの前に子供の玩具が転がっている、そんな幸福の一場面に、背筋が凍り付く思いがする。かみさんと二人ならともかく、家庭ということを想像すると、私は孤独感に苛まれながら苦しみ続けることは間違いない。編集者は「それはやってみないとわからないでしょ?」などとトロくさいことをいう。クレヨンや鉛筆を持たせておけば何時間でも大人しい、といわれた頃に私はすでに知っていたはずである。 ところが酒が進むにつれ某アーテイスト、実は結婚願望が強いことが露見する「さっきと話が違うじゃねえか?」。そこから学生時代からの数十年間の片思いの女性について、ただ無駄に長く、オチもない話を聞かされることになった。「まずね、その彼女に男がいるかどうか、確かめるのが先でしょ?」私と編集者は同じ事を考えたようである。いたらいたで、今のままでは作戦のたてようがない。「面と向かってなかなか聞けない」。「女はね、聞かれなかったからいわなかった、って何十年経とうが平気な顔していうぜ」。酒は馬鹿々しい話で飲むのが一番である。

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先日撮影した現像、色調整がまだ終わらない。PCのパワー不足である。合間に国産馬を検索してみると、上野動物園に木曽馬とトカラ馬、というのがいた。なかなか良い感じである。そういえば知り合いで数年前から与那国島で与那国馬と暮らしている女性がいる。その随分前から与那国島に住んでいる別の女性からは、馬糞にいけないキノコが生え、学生運動で逃げて来たような連中が山?から帰って来ない、と昔聞いたことがある。 それはともかく。国産馬を探していたのは、いずれ手がけるであろう泉鏡花作『高野聖』に山中に住む妖しい女性の誘惑に負けて化かされ、馬に変えられてしまう男にそなえての事である。サラブレッドではリアルではないし、山中で颯爽とされては男の鈍臭さもでない。 動物を登場させる、というのは楽しいことである。前回はエドガー・アラン・ポーの史上初の推理小説といわれる『モルグ街の殺人』をやろう、と多摩動物園にオランウータンを撮りに行った。今まで映画、イラストなどで観て来た『モルグ街の殺人』が理由は判らないが、本物のオランウータンを使った物を観た事がなかった。しかし思いのほかポーを読んだ人が少ないようで、当然、この名誉の作品も知られていなく、オランウータンが何してるの?ということに。


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昔ならありえないことだが、家で酒を飲んで作業もせずに眠くなって寝てしまうことがある。昔は起きてから仕事をして、夕方K本で飲んで、また朝まで仕事、というのがながらく続いたが、近所の人とばかり飲むようになり、何しろ相手は仕事を終え、後は飲んで死ぬだけ、みたいな状態なので。その後も仕事をしたい私としては大変である。中には“注ぎ殺し”などもいるし。ところが最近K本から、前女将派である常連が追い出されてしまい、落ち武者となり、前ほどは顔を合わせなくなった。よって本を読みながら、誰とも話さず一人じっとしている“藤竜也スタイル”にもどりつつある。 酒でも飲まないと、ずっと仕事をやりっぱなしになってしまう。家で飲む事も多くなり、モニターの前で、安酒を山賊のような調子で飲んだりして。この山賊は、色々こぼしてよく1200円のキーボードを買い替えている。ひとしきり飲んだら仕事を続けるのだが、昔と同じ調子でいると、そうもいかなく、眠くなってしまうのである。残り時間が少なくなって来ているのにこれではいけない。『あれも作ろうと思っていたのにー』。と思いながら死んで行く恐ろしさを考えると我にかえるが、突然死でもしないかぎりは結局は『あれも作ろうと思っていたのにー』と思いながら死ぬことにかわりはないのだろう。

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午前中、白石ちえこさんの写真展、『鹿渡り』最終日に間に合う。今回は雑巾がけという技法ではなかったが、独特の抒情性、テイストは相変わらずであった。こういう味は私には、どこを叩いても出てこない。 昨日撮影したデータの色調整に時間がかかる。おもに5、60年代のレンズを使っているので、描写が柔らかいのはいいのだが、色がちょっとヘン。 自分の撮影では、デジカメを使うようになって、本当にシャッターを切らなくなった。“書斎派”?である私は、5、6カット撮っては、椅子の向きを変えてすぐにモニターでチェック。これは『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)以来で、この時は自然光が必要だったので、窓際の光と、隣の部屋からの光をブレンドして河童の撮影など、随分重宝した。 今回の新たな手法は、切り抜きが前提であることと、画面に入る物は一つずつ撮らなければならない。人形と、実物のサイズを合わせるために、今までもそうしてきたが、手法のためにも、そうしなければならない。 高座上の圓朝も、そろそろ作りたいが、つい50以上筆で描いた鬼火を使いたくなってしまうが、高座はあくまで現実的に描こうと、おそらく鬼火は我慢することになるのではないか。両脇に燭台を二本立てるのだが、そうなると蠟燭の灯りは前回のように手描きの炎にすべきか、今度ばかりは実際の炎にするべきか、現世と夜の夢の間で揺れ動く私である。 

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本日は横浜まで、以前から知人の依頼で撮影してきた植物を撮りに行く。今日は圓朝の撮影方法で人形以外の物を撮影してみようと考えていた。懸念していたのは背景から切り抜くこと前提でないと上手くいかないかもしれない、ということであった。私の場合は、そもそもが小さな人形が被写体で、それを人間扱いするので、切り抜いて配置するのが大前提であり、実はそれが肝心要かもしれない。その点も本日確かめたかった。 今まで三脚というものをほとんど使ってこなかったが、この撮影には不可欠である。先方に確認すると、前回、私が置いて行った三脚があるという、いや目の前にあるのだが、と思ったが。先方がそういうので、では別の三脚を持って行ったのだろう。と、しかし、結局先方の勘違いで、圓朝の撮影方法はかなわず。もっとも、今日の撮影にかこつけて、人形以外の被写体で試してみよう、と私が勝手に企んだことで、本日の撮影には支障はない。 それにしても、私の大リーグボール“圓朝の撮影法”は、何か上手いネーミングはないだろうか。私の1号“名月赤城山撮法”は冗談でいっているだけであったが、いつまでも円朝々いっていられない。 以前何度かクイズやアンケートを募集し、ささやかなプリントを差し上げたことがあったが、今度ばかりは先日の青木画廊のグループ展で、“打席”に立ってみた方でないと、ピンとこないだろう。

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先日書いた、私が記憶違いだったらしい国際プロレスを兵役で引退したという外人レスラー、他にも覚えていた方がいて、兵役はフェイクの可能性は残されているものの、記憶に残る引退セレモニーは事実だったかもしれない。私の創作にしては兵役で、など、どうもらしくない、とは思っていた。 本日母を見舞い、ケアマネージャーが驚くから「どちら様ですか?」という冗談は止めろ、といっておいた。斜向いにいる婆さんは、私の小学時代の同級生Eちゃんのお袋さんだ、といっていた。彼は平泳ぎの足のかき方が苦手だった私に親切に教えてくれた。無駄だったけど。 母は大関になった高安の大ファンで、スポーツ新聞の記事を大事そうにしていた。 そういえば、十数年前に亡くなった父は大のプロレスファンで、外人=悪役の時代はとっくに過ぎていてもファンを続けていた。何度か武道館など一緒に行ったが、見渡す限り、こんな年寄りはいなかった。さすがに父はウエーブはやらなかったが。亡くなる前、私との共通な話題がプロレスぐらいしかないから、病院に見舞いにスポーツ新聞を持って行って、ひとしきり話すと話すことがなくなってしまった。私のような人間は我がままな猪木が厭で、地味で保守的な父は、馬場のそういう所を嫌っていた。そうしたものであろう。しかしせめてもの親孝行、父は私が実は馬場派であることは知らずに死んで行った。 父が亡くなる少し前、前述の国際プロレスを私はTVでしか観たことがなかったが、父は私が小学生の頃に、仕事上のお得意さんと観に行ったことがあることをふと洩らした。「えっ?ずるいじゃねえか」。父も私に気を使ってずっと内緒にしていたのであろう。

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円朝が眠る谷中の全生庵は、圓朝が亡くなった8月の円朝忌、円朝祭りに、圓朝が集めた幽霊画の数々を虫干しをかねて1ヶ月公開している。今まで2回見学したが、応挙から晴雨から様々有り、私はどちらかというと血生臭い作品より、白装束でなければ寂し気な美人画、のような作品が好みであった。全生庵を建立したのは江戸城無血開城の立役者、山岡鉄舟である。勝海舟に先んじて、まず西郷隆盛に会見したのは鉄舟であった。身長188センチあったというから181センチの西郷をも上回る。剣の達人でもあったから、かなりの迫力だったろう。 ところで円朝を作りながらブツブツ書いていたが、何を読んでも円朝は心優しい人格者として描かれているが、子供の頃から付き合いのあった鏑木清方が描く圓朝像の目つきを深読みし、円朝のどこかに何かささくれ立った部分がありはしないか、と細かい所も見逃さないよう評伝を読みまくったが、やはり結論は人格者なのであった。清方作の目つきは、捧げ持つ湯飲みの影で、ちらっと覗く芸への執念を表したものであろう。 そうなってくると、円朝が何故それだけの人格をそなえるに至ったか、といえば師と仰ぎ、禅と剣術を習った山岡鉄舟の影響だったのであろう。何しろ子供の頃、各所に奉公に出されて長続きしなかったことと、円朝となり人気絶頂。弟子の肩につかまり、赤い襦袢をチラチラさせ、コホコホと咳なんかをして気障な目立ちたがり、という面はあったが、何を読んでもヘンだったのはそれくらいである。 ところで今月、全生庵の御住職にお会いできることになった。出かける時と、帰った時は私の顔つきが違う、なんてことを期待しているのだが。

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自分の中に浮んだイメージはどこはいってしまうのか、確かに在るのに。それを取り出し、やっぱり在ったな、というのがそもそもの私の制作の動機である、などといっているが、イメージ、記憶は曖昧なもので、じつにいい加減な物である。昔、国際プロレスという団体があった。先行する日本プロレスとは違う独特の趣があったのだが、小学生の頃、日本人側として参戦していた黒人選手がいて、それがベトナム戦争の為に兵役につかなければならない、と引退セレモニーをリング上でやった。と思い込んでいたら、そんな事実はなかったことがフェイスブックで判明しビックリした。その時の神妙な様子などが記憶にあったからだ。夢で見たのか、そのストーリーを小学生の私が作り出した、ということになるのか。いやはや。 私の見る夢は、特徴があるとすれば、キャスト、シチュエーションなど突拍子なくとも、私は私らしいことしかいわないし、行動も同様である。つまり犯罪の犯し方も私らしいし、逃走の仕方もいかにもである。夢というものは、長く感じても存外短い時間だという。だとしたら夢の書き手はたいしたものである。瞬時に、忘れていたような小学生時代の同級生などをキャステイングし、ストーリーを仕立てる。 中学生の時SFマガジンで、人類滅亡を前に一つの脳髄が宇宙空間に放たれ、電気的刺激によって、様々な人生を生きているつもりで宇宙空間に浮び続けている、というような話がとても怖かった。

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中空に浮ぶ牡丹灯籠にはお露とお米の霊がまとわりついているべきであろう。うっかりしていた。 ジャズはかつて常に前を向いていた。しかし、これ以上私は付いて行けない、前のスタイルの方が良かったのに、と思った。もっともレコードではそうだが、ライブでは昔のスタイルで演奏することもあるものかもしれない。 私に大リーグボール1号があるとしたら、片手に人形を国定忠次の刀のように捧げ持ち、片手にカメラで街を行った『名月赤城山撮法』だろう。ところが隔月で4年続いた都営地下鉄のフリーペーパー。創刊一号の乱歩は有り物を使ったが、2号の向田邦子である。現在の都営地下鉄沿線の風景に物故者を配する、というコンセプトであった。私の“赤城山撮法”で、あえて向田の生前なかった六本木ヒルズを遠景に撮影した。ところが3号の特集を聞いて仰天。『チャップリンと日本橋を歩く』である。しかも日本橋とチャップリンの縁といえば、日本橋の天麩羅屋でエビ天を何十本も食べた。それだけである。さらにその天麩羅屋がまだあるならまだしも、財産トラブルがあったとかですでになくなっていた。これはとても無理。事前に作った人形を持って現場でただ撮ったところで面白くもおかしくもない。1号は創刊早々打ち砕かれ、以後1度も投げていない。そこで背景を最初に撮っておいて、それにあわせて人物を造形するようになった。おかげでトンチ力は鍛えられ、多少のお題には動じなくなったが、『坂本龍馬と大手町を歩く』などにも冷や汗をかいた。苦肉の投法であったが、私の中であえていうならこれが2号だったろう。3号はというと、投げ出し始めるともう1号も2号も投げる気が起きないでいる。



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そろそろ作りたい人物がいなくなってきたことは既に書いていたが、今回の圓朝で試した手法は、こういっては調子に乗り過ぎだが、私としては大リーグボール3号を投げた気分でいる。もっとも、たった3球目にして、苦手な条件があることが露呈した。背景に様々な光が存在するのに、主役である人物だけ陰影がない、では無理がある。落とし所で冷や汗をかいた。しかし、フェイスブック上ではすべて上手くいった『鏑木清方作三遊亭円朝図へのオマージュ』よりいいね、をはるかに多くいただいたのは意外であった。 昔、どんな奏法だったか、新たなギター奏法を始めたミュージシャンがいて、音楽通を気取る友人が、あの奏法は技術上、弾けない、あるいは苦手な曲がある、なんていっていたのを思い出した。大リーグボールでも強風に弱いとか色々あった。 作りたい人物がいなくなってきたこの時期に、というのが偶然だったのかどうか、18歳以来の母との同居のストレスからの逃避で制作への集中力が高まってしまった、など色々あろう。それはともかく。この手法はたまたま圓朝というモチーフと、発想のきっかけが浮世絵や日本画だったことにより、立体を日本画調にする手法だと思われがちだが、身も蓋もなく写ってしまう写真の不自由さを取り除こうとしたもので、それまで写真では無理、と断念していたモチーフにも取り組めるかもしれない。となると、今後、今まで作って来た人物に別なアプローチで再チャレンジ、というのはどうか。 いつか可能な方法があるなら手がけてみたい、と思っていた『寒山拾得図』であるが、可能性が出て来た気もするが、まだ投げたばかりで荷が重い。そもそも私の最晩年に、そんな制作が実現したら、と思っていたテーマである。 私の3号は、“左腕の肘と手首の間の屈筋と伸筋肉が切れ”る心配はない。せいぜい気負わずにやっていくことにする。

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夜中にぶら下げた牡丹灯籠に扇風機で風を当てながら撮影。最初に浮んだのはここにお露とお米が歩く後ろ姿であったが、後ろ姿では持っている牡丹灯籠は隠れて見えない。結局、頭の中のイメージなどはニュアンスとしてはある、という程度の物である。小学生の時、あるマンガのキャラクターを描こうとしたら描けない。頭の中には在るのだが。しかし、よーく考えてみたら、描けるほどには頭の中のイメージは鮮明でないことに気が付いた。あの時の驚きは未だに覚えているが、イメージの中に陰影がないことに、ついこの間気付いてビックリするくらいだから、まだまだ何がどうだか判りはせず、とにかく作って可視化しないことには安心できない。 お露、お米を別にすれば、後は高座の圓朝も必作ってみたい。両脇に燭台を立て、横には火鉢に鉄瓶まで置いたらしい。当時の絵にはみなそう描かれている。当時の寄席内部、高座がいかに暗かったか、というと、誰だか忘れたが、ある名人は、クライマックスになると、蠟燭の芯を切って、明るくするという演出をしたそうである。洋蠟燭と違って和蠟燭は、たまに芯を切る必要がある。芯を切ったからといって、たいして光量アップになったとは思えない。つまりその程度で効果があったくらい暗かった、ということであろう。

『◯◯寄席の前の三遊亭円朝(仮)』 

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円朝3作目は、自分の頭の中のイメージに陰影がないので、陰影のある夜景との折り合いが難しかったが土俵際でなんとか。作品に陰影があるかどうかで、乱歩のいう現世か夜の夢、どちらの現実を描いているか、そんな単純な話ではないだろうがが、つい意識して絵画作品など見てしまうようになった。 後は背景の中空に漂わす牡丹灯籠を配せば完成となるが、先日一度撮影した灯籠がどうも思ったように行かず、朝までに再撮して明日にでも完成となるだろう。牡丹灯籠の制作、背景の明治の寄席の制作など、一カットのために相変わらず時間がかかった。しかし、明治の寄席の前に圓朝を立たせるなど、こんなことをやっているのは地球上で私だけだろう、と思う時、得も言われぬ幸福感に満たされるのである。考えてみればささやかな幸福だが、幼い頃からこの時に湧き出る快感物質に取り憑かれてしまっているので、いかんともしがたい。 幼い子が寝てもクレヨンを手放さなかったり、クチをあんぐり開けてボンヤリと西の空でも眺めていたら直ちにアンモニアでも嗅がせ、ビンタの一つも食らわせるべきであろう。母も私の目を覚まさせるために小学校の担任のアドバイスで妙な施設に連れていったり、あらゆる手段を講じたが無駄に終わった。病院で寝ている母の顔など見ると多少思う所はあるが、何しろ生まれつきのものなので、私には一切責任はないのである。

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一日  


知り合いからグループ展見てきました。どうやって描いたんですか?とメール。「写真だよ!」。 寄席風景は手前に圓朝、後ろにお露とお米の後ろ姿。もしくは中空に浮ぶ牡丹灯籠、どちらか決めかねていたが、灯籠は牡丹といっても足下を照らす物であろう。ということは目前に捧げ持つのであるから、後ろ姿では隠れてしまう。今頃気が付いた。 春画では、見せたい所を見せたいあまりに、乳房とお尻が妙な状態で描かれていたりする。生身の人間であればねじ切れてしまいそうな体位である。さすが昔の日本人。 平面的な背景に立体を参加させることはできた。陰影のない平面は、この画面は現世(うつしよ)ではないということであるから、筆で描いたヒトダマや蠟燭の火も入ってくれる。火が大丈夫なら水も大丈夫ということになるだろう。さらにやれることが広がるだろう。昔ヌードを撮影していた時、それが江戸川乱歩の『盲獣』用だから、というわけではないが、多分、乳房と尻のいいところを写したいと集中していたのであろう。それこそねじ切らないと無理なポーズを要求していた。無茶をいってる自分に呆れた。現世という所は不自由であることを忘れてはいけない。 入院中の母を見舞ったら昼間から寝ている。前回見舞ったとき、看護士が昼夜逆転防止だろう、婆さんを起していた。そこで「昼間から寝てんじゃないよ」。母を起すと真面目な顔して「どちら様ですか?」シャレにならないからそういう冗談は止めろ!

鏑木清方作三遊亭円朝図へのオマージュ」出品中 明日最終日。
「一角獣の変身-青木画廊クロニクル 1961~2016」刊行記念展Ⅰ
2017.06/02(金)
平日11:00~19:00 
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