人間性、そして徳を我が子に育てるに、一番大切なのは何か?というなら、叱ることです。
*注意、叱るは人間性を育てるに必要な際に行われる親子間の最大コミュニケ-ション、小言とはまったく違うので勘違いなきように。
*ご飯が遅いとか、忘れ物するとか、片付け出来ないとかで親が子供に何がしを言うのは単なる注意の連発=小言。
とはいえ、普段子供と接していて叱る事等、そうは無いはずで、”成長を見届けている時間”の中では1%にも満たない程度の時間すら消費しないものですが、それであるからこそ大切。
念のために小言を一応これに含めてみると10~30%(年令より変化)くらいでしょうか。
褒められているより、小言聞かされている時間の方が多く、多くの人(まともな教育を受けてきた人達)はそうした家庭環境で育ってきているのが普通です。
ちなみに褒めるは10%程度の時間。
あとは単に見届けている時間です。
子供の将来(精神)を破壊する極悪教育たる”ほめて育てる教育”では、この10%が60%から80%へと格段に増えるのですが。
その理由は、子供の人間性を育てる事ではなく、親にとって都合よい人間にする目的をもってなんら労せず(心の葛藤無しに)にリモートコントロール(操作で育てようとすることが本音(メイン)。
故に、干渉する時間が長く、膨大な時間を消費したうえに、親への依存人間に成長する。
まあ、ここまでいかないにしても、結構多くの人が、叱るという貴重な1%の時間すら削ろうと努力しており、その理由を問うなら、心が傷つくだとか、のびのび育たないとか、抑圧された子になるだとか、そして叱る事が親の権力を振りかざすことだからいけないとかなんとか、ここまで言い出すと完全に喜劇。
「その根拠はどこから来るのだ?」とも聞いてみると、これこれの偉い教育学者が言っているとか、教育評論化がどうとか、心理学を学んだからとか、自称教育関係者でその道のプロだからとか
不良、非行、引きこもり、無気力等の大きな問題を抱えた子達と直に接するわけでもなく、何が原因でそうなったのかを肌で知ることもなく、そうした子達を正しい方向へ導くために行われている緊迫した指導現場に身を浸してみることもせず、単なる普通の子達(しかも結果ではなく過程の一時)をみてきた経験と、紙から得られた知識が思考の基準。
そうした者達の共通する煽りかたとしては 叱ることがさも大きな落とし穴であるかような喧伝を繰り返す手法を多用し、同時に理想を振りかざすという、一見口ざわりの良く思えてしまうこうした者達の言葉に、実際、誰もが動揺させられてます。
しかしながら、”叱ること”が、歴史的にみてこの国の子育ての中心となって来た絶対事実というのは、それが健全に機能しているかどうか?プラス方向へ作用しているか?という方向で考えてみるなら、 もちろん答えはYES 叱ることで築かれた人間性はきちんと機能もしているし、健全に作用もしている。
どんな歴史書見ても、遥か昔から現代に至るまで YESという答えしか見つからない。
わけの分らない子育て論等がなかった、いわゆる体罰まで含めた厳しい家庭教育が当然として有った時代が巨大な落とし穴で、それにより心がゆがんでひねくれた人間達で世が満たされた暗黒の時代というのが現実に有ったのなら、
人々は叱ることが癖になって、さらには当然の様に行われる叩く(虐待)と共に人々は育ち、それによる おどろおどろしい精神構造で社会は全て支配され、悲劇と悲しみの中にすべての日本人が埋没して苦しむ世の中が有ったに違いない訳だが、そんな歴史的事実など聞いたこと誰があるでしょうか? あらゆる日本の歴史にそうした事実が有った等とは誰も聞いたことすら無い。
それどころか、今この瞬間の方が、社会が精神を蝕まれた人間に日本が覆われ始めた、初めての歴史として刻まれつつある、という方がよほど正解だ。
*ちなみに源氏物語の中に「最近の若者は言葉が乱れていかん」なんていう記述は残っている(笑)
さらに、叱る事が当たり前であった時代が、ろくでもない人間性にあふれた人々で溢れかえっていたという、叱らなくていい子育て、ほめて育てる信者達の言うとおりだったのなら、この国は類まれなる世界一ゆがんだ国家と国民であったはずだが、西洋人が僅かなりとも日本に訪れ、その記録が紙面としてのこるようになった時代から明治の頃までに残された記録は、一様に日本人の素晴らしさに賛美を送っていた。
これは、もともとあった日本の教育が、本能を大切にした教育に他ならなかったからで、だからこそ、開国後に信じられないくらいの短い時間で世界トップクラスの知能と教養を持ち、同じく世界有数の経済力を持つにまで至った。
なぜ、本能を大切にしてきたのかと言えるのだ? の根拠ですが、実のところ、皆が知らないうちにそうした本能を大切にする事がこの国の子育ての礎として存立してきたことは全くと言って良いほど知られていない。
少し時代は飛ぶのだけれど、仏教がこの国に伝来した理由はなんであるか?を皆さんはご存知であろうか? 500年頃の飛鳥時代に聖徳大使を初めとして当時のトップ達が積極的に取り入れたわけだが、これが日本古来からある神道と対立することなく融和しながらここまできたことに、不思議さを全く感じえないであろうか?
この不思議な両立の理由は至極簡単なもので、仏教の教えそのものが、宗教なのではなくて学であるということ、それは本能と理性の調和にあったからだ。
時の飛鳥時代は、曽我氏などの大きな豪族が力を持ち、繰り返される戦乱とそれにより、すさんだ世になりつつ有った。
なぜそうした世の中になるのかというなら、それは理性に大きな問題があるからで、故に”理性は間違っているので、本能を良く学び、道を開かれよ”という仏教の持つ本来の教え がこの時代にマッチしたからだ。
故に神道と融和しつつ、互いに侵食しあう事もなく現代まで来た。
*参考までに僕は無宗教者ですので、先入観など全くなく仏教にたいする分析を冷静にすることが出来ていると思っています。
この、理性は間違っている というのは、一般的常識からすれば「は~?????」と疑問を抱かれると思うのだが、これは自分の持つ喜怒哀楽は精神状態が冷静であれば正しいはずだ、思う常識?(実は思い込み)からきている。
なぜ間違っているか?ですが、それをこれからお話しますが、退屈かもしれませんが、ぜひ話を聞いていただきたい。
当然ですが、人間の思考は常に本能の上に理性が築かれることで成り立ちます、それはその時代の社会的背景を中心とした教育によって出来るもので、、本能は基本プログラムであり人間の性、故に生まれて死ぬまで普遍で、しかしながら生きていく環境に旨く適合できるように理性が本能にプラスされることでその時代の生活環境にうまく適合するようになっている。
理性はその時代と供に様々な価値観をもって人間の行動を引き起こすわけで、故に本能の使い方を間違った教育、もしくは軽視した教育は理性に必ず間違いを起こさせるわけです。
これに絡んでの事ですが、有名な般若心経の中に出てくる”色”と言う文字があり、それは理性そのものを指し示し、常に間違いを犯す可能性があるのだという意味の空という文字に接続されている。
先も書きましたがが、飛鳥時代は豪族勢力の争いあう荒れた時代であり、聖徳太子は当時の人たちが持っていた理性の間違いに気が付き、その過ちを正す為に、本能との正しい調和を解き明かす学たる仏教を取り入れ。
その力で多くの民を導くことで、その争いの元が自分達のもつ誤った理性そのものあることを悟らせ、同時にそれが本能のどこから発せられているのかと考えさせることで、煩悩すなわち争いの基となる欲を排除することが可能になると考えたわけだ。
本能は正しく、理性は間違いだからもう一度見直すことを薦めることで、荒れた世を間接的に落ち着かせようと試みたのですね。
そして、本能学の一つの形態である仏教は、そのあまりの解りやすさから当時の人々に浸透し、あっというまにひろがっていく事ができたのです。
以上の話は、私が独自の教育研究(本能論に基づく分野)を行うに際し、師と仰いでいる方が教えたくれたもので、師は、仏教の発祥地に残る仏教原文(殆ど言語として失われている言葉で書かれた経典)をパーリー語等、4つの辞書によって現代語へ翻訳し、それによって本来の意味を知ることができたと語っています。
残念ながら、現在の仏教はその本来の目的を完全に失っただけではなく、意図的に難解化され、何代にも続く時の権力者の都合よい解釈を大量に付け加えられた事で、まったく違った教えになってしまっています。
ちなみに仏教で悟りを得るとは、自分の持つ理性(その時代の人間がもつ常識)をすて、本能を素直に認めて物事を考えることが出来ることを意味しますが、悟りを得るとは本来そうした誰にでもできることで、訳のわからない修行をしたものだけに認められるものではない。
ごく庶民的なもの(学)ということです。
まあそんな話は別として、そろそろ話を戻しますが、
本来有った、本能を正しく捕らえる教育を失ったこの国が現在抱えている社会問題、すなわち叱られずにほめて育てられた子達の姿はとんでもなくひん曲がった理性そのものというわけです。
一例を挙げれば、働きもせずに生活保護をもらい、幼女の裸体みて夜昼逆転生活というのも、彼らがもっている(正しいと考えている)理性のもたらす結論なのですから
さて、叱ることでよく問題になるのは、叱ることが癖になるという言い草ですが、本当に癖になるのか? という事について、答えははっきりNOと僕は言い切ります。
もし叱ることが誰でも癖になるものなら、あえて癖になるという言い方をする必要は全く無いわけで、何故ならそれが普通の人間の、当たり前の行動なのであれば、それは癖ではなくて常識になってしまうわけです。
故に、癖になるという言い方自体がそもそもおかしいわけで、そこに論理的破綻がある。
はて?、それではあえて癖になるという言い方をするのは、なぜか?
それは単にその対象たる相手が他とは少し異なるからで、いうなればそこに癖になるという言葉を使える対象物たる事実や相手がいなければ成り立たないわけです。
それ以外は問題なく叱ることが出来ているわけで、しかしながら普通の子育てが出来る人間ではなく、普通が出来ない者を対象にして叱らない教育だ叱らなくていい子育てだと、それがあたかも世の中の全ての親たちがそうなのだという自分勝手な決め付けで考えて煽動するから、無関係な者たちまでもが巻き込まれて全体がおかしくなる。
子供を叱る行為は、本来全ての生き物に備わる本能であり、それは又その生き物が高度化するほど”叱る”は顕著な行動となって現れます。
いうなれば、生物は高度化するほど叱る行動が多くなり、それが自然や外的から身を守り、子孫繁栄のために備わる当然の行為で、これはまた本能であるが故に、けして心の成長と切り離すことはできないということです。
人で考えるなら、人類として生物界に存在を置くようになった数百万年昔から現代にまで受け継がれているもので、本能が正しかったからこそ、生き延びて繁栄できたわけで、本能が間違っていたら、とっくに絶滅している。
本能は、いわゆる基本プログラムにあたるもので、叱るはその一部であり、しかしながらその叱る行為そのものは時代を生き抜くために常に変化しながら必要に応じて実行されるのが正常であり、それを拒否することそのものが誤りだということです。
この本能行動は、大脳基底部にある脳幹がその発信源ですが、脳幹そのものは怒りの感情を掌っています。
いうなれば本能=怒りが人間のもつ感情の基礎であり、その上に哀楽が成り立ち、最後に喜の感情があって、脳幹(基礎)を中心として大脳新皮質でコントロールされている
まとめると、叱る=自然界を生き抜いてきた基本プログラム(OS)=大脳の一番底の生命維持活動のよりどころである脳幹=怒りの感情の源=本能の一番重要な部分。
となるわけです。
叱るは癖になるのではなく、癖になってしまう人間は、その人間に備わった理性に問題がある為に癖になわけです。
ちなみに、叱ると怒るはその根本が同じところから発せられており、これも、至極単純かつ簡単な人間の心理構造の基本なのです。
その2(来週)へ続く