親父が、今朝永眠した。
91年+9ヶ月という長い人生、 後数ヶ月で92歳を迎えることができた訳だが、 こればかりは神様のみ知りうることで、
どうすることもできない物でもある。
最後の表情は本当に穏やかで、幸せな一生であったと思う。
「亡くなる(心臓が止まる)のは時間の問題です」ということで、昨日は家族の皆、親父からすると我が子(自分)と孫、そしてひ孫まで院の方へ来てくれて、
看取りの為に移された、個室にて対面。
昨日の早朝の段階で、いつ呼吸停止してもおかしくなかったことから、面会制限が一切ない部屋に移された訳ですが、 今にも止まりそうだった呼吸は、
皆が来てくれたおかげでなぜか強くなり、そう、皆がいた朝から夕方まで、ずっと安定していて。
本当に親父が居なくなってしまうのだろうか?と思ってしまうほど。
体は動かせないけど、瞳は見えていて、耳も聞こえていて、 なので面会室で家族皆の話とかが聞こえていたのがよく判るのは、
表情がわずかなりとも変化するから。
他にも涙をみせたり、年齢なりの惚けはあれど、認知症ではない親父は、家族皆の会話が楽しかったに違いない。
91=大往生、だから明るくて楽しく親父と最後の時を過ごしてもらいたいと、子供達には予め伝えてあって、そのことも有るだろうけど、
面会室は死ぬこととは全く無関係に思える、明るい声と笑い声に満ちていた。
時間が殆どないのなら、”皆で楽しく時を”、それが親父に対して自分ができた最後の孝行だった。
夕方に子供達皆が帰り、僕と母親だけが実家へ。
今朝の5時15分頃に電話あり。
病院に着いたときには、すでに臨終で、ほんの少しだけ間に合わなかった。
触れた体はまだ十分に暖かく、 医師の検死によって5時45分に死亡という書類となった。
葬儀会社に連絡して、遺体を安置してもらい、 その後にこの後のスケジュールなどを業者さんと打ち合わせ。
予め相談してどういった式にするかを決めてあり、その通りに行い、特段の追加もなく。
ただ、母親の希望にて、 完全なる家族だけの葬儀を執り行うことになっている。
世間体や、見栄とかいった物が此れっぽっちも存在していない僕故に、葬儀は”完全に親父のために家族で行う葬儀”となる。
故に香典もなく、お返しもなく、 意味不明で不要な物は無く、本当に家族だけで故人を偲びながら送りだす、 少しだけ変わった葬儀になるが、それでいいと僕は思っている。
ちなみにだ、歌を歌ったりとか、変な呪いごとをするみたいな、”異常な葬儀”ではなく、ごく普通の葬式であるけど、送り方と気持ちの込め方が少し違うわけだ。
なぜなら、もし自分が命を終える時が来たらば、 家族の皆に、”笑顔であの世に送り出してもらいたい”と思うからで、
その自分の思いを親父に重ねて、故に葬儀はそのスタイルで行くことにしている。