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三岸節子展のパンフ
平塚美術館の三岸節子展へ行ってきた。初日に行ったのだが駐車場がどこも空いていなくて引き上げた。今日はいつもよりは人出はあるがまぁ空いている。特別展なのに料金は600円と入りやすい値段。
入るとすぐに、19歳で春陽会に入選した自画像がある。可愛い顔だが、目はしっかりと何かを見据えている。初期のマティスを思わせるような作品より、次に来るヨーロッパを旅して以後の作品の方が強い印象を受けた。ダビンチもミケランジェロもルオーも自分と闘っている。その成果が彼らの作品だ。三岸さんの自分との闘い、自分の本質をにらみ、抉り出し、更に追求を惜しまない、その真剣な姿勢。すばらしい生き方だ。描くことは生きることだ。
色彩感覚は生まれついてのものだが、三岸さんのはそれがいい。
傍らについているコメントも今回はじっくり読んだ。
「エネルギッシュだとはだれもが言うけれど、熟した枝とはだれも書いてない。40代や50代では描けない絵なのに。口幅ったいようだが」というくだりにはおもわずクスリ。
なぜ絵を描くか、と自分に問いかけ、生業のためなら物を売ってもいいではないか、それなのに絵を描く。それは完成したときのしびれるような幸福感を味わいたいからだ、と。
68歳の日記に、朝食に何を食べた・・としるし、「よく食べ、よく眠り、絵を描く。それでよし。と結んでいる。
広野に根を張って立つ巨木のように、何百年も生きるような絵を描きたい、と。彼女の絵は巨木のように何百年もいき続けると私は信じる。展覧会を見ての印象は「すごい」の一語に尽きる。
三岸節子 略歴
1905(明治38) 1.03 吉田永三郎、菊の四女として愛知県中島郡起町字中島(現在の尾西市)に生まれる。(本名・節)。先天性股関節脱臼で6歳のとき手術をする。生家は富裕な地主であった。
1920(大正9) この年 不景気により父の織物工場が破産。
1921(大正10) 名古屋の淑徳高等女学校を卒業。
上京して遠縁の紹介で洋画家岡田三郎助のアトリエに通い、指導を受ける。
1922(大正11) 女子美術学校(現在の女子美術大学)2学年に編入学。
1924(大正13) 女子美術学校を首席で卒業。9月、三岸好太郎と結婚。
1925(大正14) 3月長女陽子を出産する。
春陽会第3回展に《自画像》など4点を初出品、初入選。のち第9回展まで毎回入選を重ねる。
甲斐仁代、深沢紅子ら女子美術学校の出身者とともに婦人洋画協会を結成する。
1928(昭和3) 3月次女杏子を出産する。
1930(昭和5) 9月長男黄太(現:黄太郎)を出産する。
1932(昭和7) 春陽会を離れ独立美術協会第2回展(東京府美術館)に入選。(以後第9回展まで出品)
1934(昭和9) 29歳。7.1 夫好太郎が名古屋で急死。享年31歳。
1935(昭和10) 最初の個展、三岸節子個展を大阪・美術新論社画廊で開催。
1936(昭和11) 長谷川春子、藤川栄子ら女性画家6名とともに七彩会を結成。独立美術協会会友となる。
1939(昭和14) 独立美術協会を離脱、佐藤敬のすすめで新制作派協会に会員として迎えられる。
1940(昭和15) 朝鮮・中国東北部を旅行。三岸節子個展をソウル・丁子屋で開催。
1945(昭和20) 三岸節子個展を銀座・日動画廊で開催(東京で開催された戦後初の個展)
1947(昭和22) 女流画家協会の創立に発起人として参加、女流画家協会展に第4回展まで出品。
1948(昭和23) 菅野圭介と別居結婚という形で再婚(1953年に解消)。
1951(昭和26) 《金魚》が昭和25年度文部省買上げ美術作品に決定。
《静物(梔子)》で昭和25年度芸能選奨文部大臣賞を受賞。
1954(昭和29) 3月、初めて渡仏する。長男黄太郎の住むパリに滞在。
秋、スペインを旅行。10月、南仏カーニュに滞在。
三岸節子滞仏作品展を銀座・兜屋画廊で開催。
1955(昭和30) 5月、イタリアを旅行ののち、帰国。三岸節子滞仏作品展を銀座・兜屋画廊で開催。
1964(昭和39) 神奈川県大磯町の山荘に転居。
1967(昭和42) 好太郎の遺作220点を北海道に寄贈。
1968(昭和43) 12月、長男黄太郎一家とともに渡仏、南仏カーニュに定住。
南仏の風景を題材に風景画を制作。
1969(昭和44) 女流美術家による総合展「潮」の結成に参加。(第15回展まで出品を重ねる)
以後「潮」展を中心に滞欧作品を発表。
1974(昭和49) 「三岸節子展〈花とヴェネチア〉」がパリ・ギャルリーためながで開催される。
この展覧会の成功により、さらにフランスに留まることを決意。
ブルゴーニュ地方の小村ヴェロンに農家を購入し、移住。
4月、個展のため一時帰国(翌年5月渡仏)。
「三岸節子展〈花とヴェネチア〉」が日本橋・三越本店で開催された。
1976(昭和51) 3月、病気のため一時帰国、大磯で静養(8月渡仏)。
1977(昭和52) 名古屋・ヒマラヤ美術館が開館、三岸節子作品室を設置。
1978(昭和53) 燦々会第9回展に出品。
1980(昭和55) 「三岸節子展〈花と大地〉」がパリ・ギャルリーためながで開催される。
三岸節子展〈画業55年の歩み〉が日本橋・三越などで開催され、100点余りの作品が出品される。一時帰国。
三岸節子新作展〈花とブルゴーニュ〉」が名古屋松坂屋で開催され、新作を出品。
第4回長谷川仁賞を《トネールの白い川》で受賞する。
1981(昭和56) 「三岸節子滞欧作品展」が大阪・梅田画廊で開催され、新作を含む36点を出品。
1982(昭和57) 春、過労のため倒れる。秋、フランスから帰国。
「三岸節子〈花〉展」が銀座・日動画廊で開催される。
1983(昭和58) 第15回潮展に3点出品(最終展)。
7月、腸の手術のため東京・順天堂病院に入院。退院後、大磯で静養。
1985(昭和60) 回顧展「三岸節子展」が神奈川県立近代美術館などで開催される。
1986(昭和61) 秋の叙勲で勲三等宝冠章を受賞。
1987(昭和62) スペインのアンダルシア地方に滞在、スペイン連作の制作を開始。
1988(昭和63) 尾西市名誉市民となる。
「三岸節子展」がパリ・ギャルリーためながで開催される。
1989(昭和64・平成元年) 「三岸節子展」が日本橋・三越本店などで開催され、近作・新作73点を発表。
フランスから帰国、大磯のアトリエで制作活動に取り組む。
1990(平成2) (60年余の画業と女性画壇の向上に努めた功績により)1989年度朝日賞を受賞。
1991(平成3) 「三岸節子展〈画業65年〉」がアメリカ・ワシントン女性芸術美術館で開催された後、日本各地を巡回。
1992(平成4) 「三岸好太郎と三岸節子展」が北海道立三岸好太郎美術館、新宿・三越美術館などで開催される。
1994(平成6) 女性洋画家として初めて文化功労者となる。
「尾西市制40周年記念三岸節子展」が尾西市歴史民俗資料館で開催される。
1996(平成8) 画業70年を記念する「三岸節子展」が渋谷・東急百貨店などで開催される。
1997(平成9) 「三岸節子素描展〈旅へのいざない〉」が日本橋高島屋などで開催される。
1998(平成10) 大規模な回顧展、「三岸節子展」がパリの三越エトワールで開催される。(日本にも巡回)。
11月、尾西市三岸節子記念美術館が開館。
1999(平成11) 4.18 急性循環不全のため、大磯の病院で死去。94歳。