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敗戦記念日

2005-08-15 21:47:09 | 日記・エッセイ・コラム
60回目の敗戦記念日。ここまで曲がりなりにも平和であったことを感謝しよう。この戦争のために犠牲になった、日本のみならずアジアの人々、そして世界の人びとの鎮魂も祈ろう。
どんな戦争にも言い分はある。いまここで、きちんと歴史的清算をして、新しいアジアの共同体制をつくりあげていきたいものだ。政治を預かる人たちにそういう認識がないことはまことに残念だし、これからの日本の行く末も案じられる。

報道によれば、小泉首相がアジア諸侯に深く反省しているという表明をするそうだが、一方では国会議員たちがそろって靖国神社参拝に行き、アジアの人々の神経を逆なでしている。戦没者を悼むことは残された国民としては当然なことなのだ。しかし、靖国神社は単なる戦没者を悼む神社ではない。こういうけじめをきちんとつければ、だれかれも参拝に行けるのではないか。そういうことをしてほしいだけである。
イスラエルとパレスチナですら、しかもタカ派のシャロンがガザからの撤退に踏み切ろうとしている。経済的に発展したのだから、こころも大きくなって、アジアのまとめやくになってもらいたいものだ。まさに日本の政治は三流、特に外交は下手だねぇ。

1945年、昭和20年8月15日、多くの人はその日は照り付けるような熱い夏の日だったと回想しているが、私には8月15日の記憶はない。この日は、私が小学校2年、正確には国民学校2年生の夏休みのことである。同じ年で、1学年上の夫は家族と玉音放送を聴いたというが、私はそんなことがあったのすら知らない。夏のいつもの日と同じように海に遊びに行っていたものと思う。夏は晴れても降っても、姉妹揃って、海で泳いで、遊んでいた。その毎日の一日だったのだろう。ただ覚えているのは、夜になって、いつも電灯のかさにかけていた黒い布を母が「今日からこんなものかけなくてもいいんだよ」と言ってはずしたのを覚えている。その電気の光が部屋中にいきわたって、いつもよりず~っと明るなった。たぶん、それが8月15日だったのだろう。

昭和20年7月22日、敗戦の1月前のことである。いつものように伊豆山の海で遊んでいた。警戒警報も鳴らなかった。そこへどこからともなくやってきた2機の飛行機が低空飛行し、いきなり私たちに機銃掃射を浴びせたのである。あわてて逃げて、姉妹もろともマンホールに落ち込んで、助かった。しかし、掃射された銃弾が岩に当たってキーンと鋭い音を上げ、海面に打ち込まれた弾が、水煙を上げてプシュプシュと水を切ったのを今でもしっかりと覚えている。

先日姉妹で会ったとき、これが会話にのぼり「怖かったね」と思い出したのだった。「実は、あの飛行機がね・・・」そう、あの2機の飛行機がとんだ禍を残して行ったのである。

この飛行機が、私たちを撃ったあと、熱海の沖合いにある初島沖で漁をしていた漁船を執拗に攻撃し、漁民の多くが犠牲になった。死んだのは22人だったと思う。海面は血の海になったと生き残った人が証言している。この事件の全貌が私にわかるのは、何十年も経ってからだった。この船を真鶴から目撃して、被害後、えい航してきた石船の人(知人)が語ってくれたところによると、銃撃された人たちは無残で、脳が飛び出した姿もあったという。その人は、今思えばえい航なんてせずに自分の船に犠牲者を乗せてきたら、もう少し助けられたかもしれないと後悔していた。この船が港に入ったとき、友達たちと夫は見に行っている。甲板が血だらけだったのを覚えているそうだ。それぞれが別々に体験したことなので、なかなかむすびつかなかったのだが、実は7月22日の一連の出来事だったのだ。


コメント
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