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敗戦記念日

2016-08-15 14:01:59 | 日記
もちろん、何にも言われなくたって黙祷するさ。しかし、スピーカーから、1分間の黙祷を捧げてください、なんて、押しつけがましく言われると、あんたに言われてやるのは嫌だ、あとで一人祈るよ、と怒鳴りたくなる。

71年前の8月15日の玉音放送は、海に遊びに行っていたらしく聞いてはいない。もっとも聞いたところであの放送が2年生の私に理解できただろうとは思われない。親たちの様子で判断しただろうが。

世界中、まだまだ戦争の惨禍で、傷つき、命を落としていく人たちがいる。心傷む。
しかし、戦後の苦労は数多くあったにせよ、ここまで平穏に生きられたのは、戦争がなかったことだ。それは平和憲法のお陰だ。


今日は朝早くから仕込んで、パンを焼いた。
パン屋さんが焼いたパンを食べられるようになったのはいつごろからだったろう。戦後はとにかくどこでも食糧難で、食べるものに苦労していた。配給の粉で鍋焼きを作ってくれたが、もう嫌だとわがままを言ったくらいまずかった。母がどこからかもらってきたイースト菌をパン種にして、電気屋さんが作ってくれた鉄板を貼った箱で、電気パンなるものを作ってくれた。鍋焼きよりは良かったが、すぐ飽きるような代物だった。しかしたべられるだけ幸せだった。毎日イーストを生かしておくために新しく粉を練って混ぜていたが、発酵させすぎて酸っぱくしてしまったり、イースト駄目にしてしまったこともあった。だからイーストが生き物であることはよく知っている。

戦後、だいぶたってだと思うが、熱海の住吉屋が粉を持っていけばパンを焼いてくれる賃もちならぬ賃パンを始めた。朝、粉を持って頼みに行き、夕方代金を払って製品を受け取る仕組みだった。パンはコッペパン。砂糖を持っていけば、当時甘食と言った三角をした甘みのあるパンを焼いてくれた。でも何にもない時代だから、コッペパンでも、本職が作ったパンは美味しかった。
手製のパンの思い出は、玉森シンセンの社長が、奥さんのお手製だというパンを持ってきてくれた。パンというよりはマフィンに近かった覚えがある。それを同じくお土産に頂いた、アメリカ製のコンビーフを乗せて食べた。手作りのパンって、この程度のものなのか、とも思った。とはいえ、オーブンもない時代、作れることが羨ましかった。オーブンそのものは小学校6年のとき、母親の仲間が電気オーブンを持っていてクッキーを焼いてくれたことがあった。美味しくないクッキーだったけど。
コメント
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