雑用にかまけてマリウスを読むのを忘れていた。忘れていたというより、読む気にならなかった。こういう本は気持がざわついているときは読む気にならないのだ。
雑用も片付いて、机の上にハズキルーペと一緒に置いてある「マリウス」を開いた。マリウスが多大な影響を受けた友人のフラビアンが死ぬ。そしてマリウスはまた本を読み始めている。ギリシャ哲学だ。難解な哲学で、「自然について」とある。本多さんはヘラクリトスと書いている。ヘラクリトス?ヘラクレイトスではないか。ヘラクレイトスの著書に「自然について」があったろうか?こうなるとまた脱線だ。ヘラクレイトスはよく知っている。面白いようにギリシャ語が浮かんでくる。スペルもちゃんと覚えている。
まず浮かんだのが、γν?θι σεαυτόν (gnothi seauton)、いやこれは違う。これはソクラテスだ。そうだ、ヘラクレイトスは「万物は流転する」Τα Πάντα ?ε? (Ta Panta rhei)だ。若いころ頭に入ったものは、不思議と定着しているものだなぁ。
そういえば、若いころpapasanにつけたあだ名はヘラクレイトスだった。だから母はpapasanのことをずっと「ヘラさん」と呼んでいた。「そういえば、ヘラクレイトスだったね」というと、「そうだったよ、今頃思い出だしたの?」と言われてしまった。「片鱗もないから忘れちゃったよ」と憎まれ口をたたいた。
やはりヘラクリトスはヘラクレイトスだった。「自然について」もあった。ヘラクレイトスの思考の流れを説明している。
ついでだから私もヘラクレイトスの復習をした。横道にそれたついでに、タイトルの享楽主義者という言葉の説明をしておこう。享楽主義、なんて現代で言ったら、放蕩三昧でどうしようもない人を想像するが、享楽主義(エピュキュリアン)の語源となったエピクロスの享楽、快楽は、知の快楽であり、肉体や物質の快楽はもとめていない。むしろ自然と共に生きることを主張している。
おや、今度はマリウスの道ずれは、アリスティッポスだ。こちらは、快楽が善であるのはエピクロスと同じだが、こちらは知的快楽ではなく肉体的快楽、刹那的な快楽だ。うふふ、すこしずつだが、古代ギリシの哲人たちを思い出している。
ペイターも若かりし頃、ギリシャ哲学から思索の道に入ったのだろう。いまのところ、ある意味、ギリシャ哲学の解説書みたいだ。うん、この書はやはり私にとっては青春の書だった。
さて、横道はこのくらいにして、続きを読むとしよう。