1492年と言ったら、なにを思い浮かべるだろうか。先ず、コロンブスが新大陸に到着したことだろうか。新大陸という言い方もヨーロッパからの見方に過ぎない。これがその後の歴史を大きく変えていくことは確かだ。もちろん大航海時代がもたらしたものも含めて。コロンブスのスポンサーのスペインを見てみよう。
1492年、この年の1月6日、スペインのイサベラとフェルナンドの両王がグラナダ・アルハンブラに入城した。レコンキスタの終了である。あれはだれの作だったろうか、「グラナダ??」というのが英語のテキストになっていた。
1469年にカステーリャ王国のイサベルとアラゴン王国のフェルナンドが結婚した。ここにスペイン国家の基盤が築かれたのである。このカトリックの統一国家が目指したものは、レコンキスタ(国土回復運動)であった。イスラムが北アフリカからヨーロッパに勢力を広げたのは711年のことだ。イスラムは11世紀ごろから衰退していく。イベリア半島に残ったイスラムの拠点、グラナダに入ったことは、中世以来の最大の敵、イスラム勢力をヨーロッパから追い払ったことになる。レコンキスタとはキリスト教による他宗教の排除に他ならなかった。スペインはこれを基本骨格にして植民地獲得に乗り出していく。
1492年3月、ユダヤ人追放が行われた。同じ異教徒でもイスラムよりユダヤ人にはより厳しい政策が取られた。グラナダの場合、ムスリムには両国王から信仰の自由とムスリムの慣習を残すことは保証されている。しかし、歴史的にもユダヤ人への反発は根強かったようだ。追放令により、ユダヤ人は洗礼を受けてキリスト教に改宗するか、7月31日までに国外退去することになった。20万近くのユダヤ人たちがイベリア半島を去り、ポルトガル、ギリシャ、トルコ、北アフリカ、イタリア、オランダへ移住した。8月3日に最後の数人のユダヤ人が出発したが、同じその日、コロンブスがパロス港を出港したのだった。
1492年8月「カスティリャ語文法」は出版された。ヨーロッパ語はじめての文法書といわれている。編纂したのはエリオ・アントニオ・デ・ネブリハである。
註:「イサベル1世がアラゴンからフェルナンド5世を夫にむかえてはじめた共同統治時代(1474~1504)、人文学の研究が奨励された。当時のもっとも傑出した学者は、文法学者のアントニオ・デ・ネブリハ(またはレブリハ)で、「カスティリャ語文法」(1492)の著作がある。(エンカルタ百科事典より)」
さて、カスティリャ文法の成立が意味するものは?
これは帝国の言語の誕生ということになる。国家と国民の正しい言語が制定されることによって、国内では同一言語を話し、この言語によって書かれた法や制度を守らせる、よって従順な国民が出来上がる、と言うわけだ。同じく、帝国の言語は国外では先住民たちに「劣った野蛮なたわごと」を捨てさせ、優れた文明の言語を話させ、言語が服従を強いることにつながる。国家言語は海外に進出した者たちによって、新しい土地の領有宣言に使われてた。ここは自分たちが見つけた土地であり、女王陛下の土地である、原住民は等しく女王の僕となり法に従え、さもなければ武力で制圧する、といったようなことを帝国の言語で宣言したのである。聞いている人たちにはまったく理解できなくとも。だから反抗したものには死を与えても当然と言う論理が成り立つ。
飛躍して現代を見ると中南米の諸国は公用語にスペイン語やポルトガル語を使っているところが多い。アフリカには英語やフランス語の国もある。大国に植民地にされた国々である。ということは、植民地主義がいまなお続いていることになる。
1492年10月12日、コロンブスはバハマ諸島のグァナハニ島に到着する。スペインとポルトガルによる植民地争奪戦の始まりである。コロンブス自身は死ぬまで、ここがインドだと信じて疑わなかったそうだが。ヨーロッパから見れば、コロンブスは新大陸を見つけた開拓者だろうが、反対に新大陸側からみれば、コロンブスは侵略者に他ならない。しかもそこから過酷な植民地政策が始まるのだから。
1487年、ポルトガルのバーソロミュー・ディアスが喜望峰をまわり、1489年ガマがインド航路を開いて莫大な富をポルトガルにもたらした。
1494年にはトルデシーリャス条約で、ローマ法王の許可の下に、スペインとポルトガルのあいだで世界は東西に二分された。この条約によれば、日本はポルトガルの領有になることになっていた。
このときの法王は悪名高きアレッサンドロ6世(1431~1503)、スペイン人。あのチェザーレ・ボルジアの父親だ。
ボルジア家はボルジア家の毒薬として名高い。1492年にこの父親は枢機卿からはローマ法王になった。ついでに付け加えると、マキャベリが「君主論」で理想の君主のモデルとしたのは、このチェザーレ・ボルジアだそうだ。チェザーレ・ボルジアの軍事顧問はレオナルド・ダ・ヴィンチである。ちなみに1492年、メディチ家のロレンツォが亡くなっている。
われわれの知らないところで、会ったこともない法王が何の権限で許可したんだ、許可あるからと
勝手に他国に侵略して植民地化するなんてとんでもないことだ、と植民地にならなかった私たちはほっとし、ふざけるなと怒ることはできる。しかし同じ思いではあったにせよ、征服され、植民地化されてしまった国々も多い。きっと同じ想いだったろう。同じ思いだけではない。略奪、搾取、抑圧、殺戮、強制、服従・・・といった、更に悪いことが進行し、現実に植民地にされてしまったのである。
植民地の成立時期は、宗主国で国民国家が成立し、貨幣制度や度量衡が統一、学校教育、特に国家言語の広めるための教育制度、警察や軍隊といった合法的な暴力による強力な国家機構がつくられた。これがその延長として植民地統治に使われたのである。しかも植民地では、人種主義や国家主義が、植民地の住民に差別意識をふきこんだ。これはスペインだけでなく、植民地支配を行ってきた国々がとった統治方法であった。日本だって例外ではない。植民地の原住民を差別することで、自分たちの優秀性を神話化し、劣った原住民を文明するのが務めであるという考え方。この思想は現代にも残っている。民主主義という名の旗のもとに、独裁国家をなくすとアフガンやイラクを攻撃している英米の態度はまさにこれだ。
つづく
参考:「海運雑学ゼミナールより」
「『トルデシーリャス条約』は地球まっ二つの山分けプラン 」
アフリカ回りのインド航路発見に乗り出し大航海時代の先陣を切ったポルトガルに対し、遅れをとったスペインは、コロンブスに資金援助して、西方航路によるインド到達を目指した。
コロンブスは、大西洋を西進して西インド諸島に達しスペインによる領有を宣言するが、すでにローマ法王からボジャドール岬(北緯26度)以南のアフリカ沿岸部とその接続水域の領有権を認められていたポルトガルはこれに強く抗議する。ポルトガルは「接続水域」の概念を西に限りなく延長して解釈し、西インド諸島もその中に含まれるものと考えたのである。
ポルトガルとスペインの両国はローマ法王に調停を求め、1494年の6月、「トルデシーリャス条約」を結ぶ。その内容は、アフリカ沖のヴェルデ岬諸島から西に370レグア(約2,000km)の地点を通り南北に延長される経線で地球を真二つに分割するというものだった。 この分割線は、西経46度37分の経線とその裏側を通る東経133度23分の経線に当たり、前者より西(もしくは後者より東)で発見される非キリスト教徒の土地がスペインに、前者より東(もしくは後者より西)で発見される非キリスト教徒の土地がポルトガルに与えられた。
現代の常識からすれば、あまりにも手前勝手な条約だったが、新大陸の領有に関しては、この条約は比較的よく守られた。中南米諸国の中でブラジルだけがポルトガル語圏に属するのはこの条約による分割の名残である。
しかしアジアを通過する分割線については、ほとんど有名無実だった。この地域では、その後、イギリスやオランダが自由に交易を行い、17世紀にグロティウスが唱えた「公海自由の原則」の影響もあって、ポルトガルとスペインの二国間条約は無視された。両国がその権利を主張するには、武力による実力行使しか方法がなかったが、当時の両国の力ではそれも不可能だったのである。 」
1492年、この年の1月6日、スペインのイサベラとフェルナンドの両王がグラナダ・アルハンブラに入城した。レコンキスタの終了である。あれはだれの作だったろうか、「グラナダ??」というのが英語のテキストになっていた。
1469年にカステーリャ王国のイサベルとアラゴン王国のフェルナンドが結婚した。ここにスペイン国家の基盤が築かれたのである。このカトリックの統一国家が目指したものは、レコンキスタ(国土回復運動)であった。イスラムが北アフリカからヨーロッパに勢力を広げたのは711年のことだ。イスラムは11世紀ごろから衰退していく。イベリア半島に残ったイスラムの拠点、グラナダに入ったことは、中世以来の最大の敵、イスラム勢力をヨーロッパから追い払ったことになる。レコンキスタとはキリスト教による他宗教の排除に他ならなかった。スペインはこれを基本骨格にして植民地獲得に乗り出していく。
1492年3月、ユダヤ人追放が行われた。同じ異教徒でもイスラムよりユダヤ人にはより厳しい政策が取られた。グラナダの場合、ムスリムには両国王から信仰の自由とムスリムの慣習を残すことは保証されている。しかし、歴史的にもユダヤ人への反発は根強かったようだ。追放令により、ユダヤ人は洗礼を受けてキリスト教に改宗するか、7月31日までに国外退去することになった。20万近くのユダヤ人たちがイベリア半島を去り、ポルトガル、ギリシャ、トルコ、北アフリカ、イタリア、オランダへ移住した。8月3日に最後の数人のユダヤ人が出発したが、同じその日、コロンブスがパロス港を出港したのだった。
1492年8月「カスティリャ語文法」は出版された。ヨーロッパ語はじめての文法書といわれている。編纂したのはエリオ・アントニオ・デ・ネブリハである。
註:「イサベル1世がアラゴンからフェルナンド5世を夫にむかえてはじめた共同統治時代(1474~1504)、人文学の研究が奨励された。当時のもっとも傑出した学者は、文法学者のアントニオ・デ・ネブリハ(またはレブリハ)で、「カスティリャ語文法」(1492)の著作がある。(エンカルタ百科事典より)」
さて、カスティリャ文法の成立が意味するものは?
これは帝国の言語の誕生ということになる。国家と国民の正しい言語が制定されることによって、国内では同一言語を話し、この言語によって書かれた法や制度を守らせる、よって従順な国民が出来上がる、と言うわけだ。同じく、帝国の言語は国外では先住民たちに「劣った野蛮なたわごと」を捨てさせ、優れた文明の言語を話させ、言語が服従を強いることにつながる。国家言語は海外に進出した者たちによって、新しい土地の領有宣言に使われてた。ここは自分たちが見つけた土地であり、女王陛下の土地である、原住民は等しく女王の僕となり法に従え、さもなければ武力で制圧する、といったようなことを帝国の言語で宣言したのである。聞いている人たちにはまったく理解できなくとも。だから反抗したものには死を与えても当然と言う論理が成り立つ。
飛躍して現代を見ると中南米の諸国は公用語にスペイン語やポルトガル語を使っているところが多い。アフリカには英語やフランス語の国もある。大国に植民地にされた国々である。ということは、植民地主義がいまなお続いていることになる。
1492年10月12日、コロンブスはバハマ諸島のグァナハニ島に到着する。スペインとポルトガルによる植民地争奪戦の始まりである。コロンブス自身は死ぬまで、ここがインドだと信じて疑わなかったそうだが。ヨーロッパから見れば、コロンブスは新大陸を見つけた開拓者だろうが、反対に新大陸側からみれば、コロンブスは侵略者に他ならない。しかもそこから過酷な植民地政策が始まるのだから。
1487年、ポルトガルのバーソロミュー・ディアスが喜望峰をまわり、1489年ガマがインド航路を開いて莫大な富をポルトガルにもたらした。
1494年にはトルデシーリャス条約で、ローマ法王の許可の下に、スペインとポルトガルのあいだで世界は東西に二分された。この条約によれば、日本はポルトガルの領有になることになっていた。
このときの法王は悪名高きアレッサンドロ6世(1431~1503)、スペイン人。あのチェザーレ・ボルジアの父親だ。
ボルジア家はボルジア家の毒薬として名高い。1492年にこの父親は枢機卿からはローマ法王になった。ついでに付け加えると、マキャベリが「君主論」で理想の君主のモデルとしたのは、このチェザーレ・ボルジアだそうだ。チェザーレ・ボルジアの軍事顧問はレオナルド・ダ・ヴィンチである。ちなみに1492年、メディチ家のロレンツォが亡くなっている。
われわれの知らないところで、会ったこともない法王が何の権限で許可したんだ、許可あるからと
勝手に他国に侵略して植民地化するなんてとんでもないことだ、と植民地にならなかった私たちはほっとし、ふざけるなと怒ることはできる。しかし同じ思いではあったにせよ、征服され、植民地化されてしまった国々も多い。きっと同じ想いだったろう。同じ思いだけではない。略奪、搾取、抑圧、殺戮、強制、服従・・・といった、更に悪いことが進行し、現実に植民地にされてしまったのである。
植民地の成立時期は、宗主国で国民国家が成立し、貨幣制度や度量衡が統一、学校教育、特に国家言語の広めるための教育制度、警察や軍隊といった合法的な暴力による強力な国家機構がつくられた。これがその延長として植民地統治に使われたのである。しかも植民地では、人種主義や国家主義が、植民地の住民に差別意識をふきこんだ。これはスペインだけでなく、植民地支配を行ってきた国々がとった統治方法であった。日本だって例外ではない。植民地の原住民を差別することで、自分たちの優秀性を神話化し、劣った原住民を文明するのが務めであるという考え方。この思想は現代にも残っている。民主主義という名の旗のもとに、独裁国家をなくすとアフガンやイラクを攻撃している英米の態度はまさにこれだ。
つづく
参考:「海運雑学ゼミナールより」
「『トルデシーリャス条約』は地球まっ二つの山分けプラン 」
アフリカ回りのインド航路発見に乗り出し大航海時代の先陣を切ったポルトガルに対し、遅れをとったスペインは、コロンブスに資金援助して、西方航路によるインド到達を目指した。
コロンブスは、大西洋を西進して西インド諸島に達しスペインによる領有を宣言するが、すでにローマ法王からボジャドール岬(北緯26度)以南のアフリカ沿岸部とその接続水域の領有権を認められていたポルトガルはこれに強く抗議する。ポルトガルは「接続水域」の概念を西に限りなく延長して解釈し、西インド諸島もその中に含まれるものと考えたのである。
ポルトガルとスペインの両国はローマ法王に調停を求め、1494年の6月、「トルデシーリャス条約」を結ぶ。その内容は、アフリカ沖のヴェルデ岬諸島から西に370レグア(約2,000km)の地点を通り南北に延長される経線で地球を真二つに分割するというものだった。 この分割線は、西経46度37分の経線とその裏側を通る東経133度23分の経線に当たり、前者より西(もしくは後者より東)で発見される非キリスト教徒の土地がスペインに、前者より東(もしくは後者より西)で発見される非キリスト教徒の土地がポルトガルに与えられた。
現代の常識からすれば、あまりにも手前勝手な条約だったが、新大陸の領有に関しては、この条約は比較的よく守られた。中南米諸国の中でブラジルだけがポルトガル語圏に属するのはこの条約による分割の名残である。
しかしアジアを通過する分割線については、ほとんど有名無実だった。この地域では、その後、イギリスやオランダが自由に交易を行い、17世紀にグロティウスが唱えた「公海自由の原則」の影響もあって、ポルトガルとスペインの二国間条約は無視された。両国がその権利を主張するには、武力による実力行使しか方法がなかったが、当時の両国の力ではそれも不可能だったのである。 」