八丈島は伊豆諸島のひとつ、これらの島々は富士火山帯に属する火山島である。10万年前ごろ、八丈島の三原山(700.9m)が噴火、溶岩が流れ出て島が形成された。そのあと、八丈富士が噴火し、伊豆諸島で最高の高さ、854.3mまでのしあがり、流れ出た溶岩が三原山火山と陸続きになり、ひょうたんのような島が出来上がった。それが八丈島である。富士箱根伊豆国立公園に属する 。二つの山の植生もずいぶんと違っている。八丈植物公園のビジターセンターへいくと、ビデオの上映があり、島形成の沿革が紹介される。
八丈島に統治機関が置かれたのは室町。1338年、足利氏の執事、上杉憲顕が奥山伊賀と菊池治五郎を代官として在島させたのが最初とされている。1440年には神奈川の領主奥山宗林が支配したが、15世紀の末期、三浦、北条氏の勢力が入って以来、三氏の抗争が続き、1515年北条氏が勝利、全島を支配するようになった。この抗争の原因は、八丈島特産の「黄八丈」にあった。1604年からは徳川幕府の支配下におかれ、この265年間におよそ1,900人の流人が流されてきた。明治3年に韮山県、明治4年には足柄県、明治9年には静岡県、そして明治11年に東京府に属して以来東京都。歴史民族資料館にこれらの資料はある。
5月16日(水)
7時22分で出発。電車はすいていた。横浜に着く、京急急行はすぐに快速があり、京浜蒲田で乗り換え、羽田へ。もう座席は決まっているので、荷物チェックのとき、コードをかざせばチェックインできた。八丈島行きのゲートは109番、下に降りてバスで飛行機まで移動。待合室できょろきょろしていると、近くのゲートはローカル飛行場への乗り場のようだ。隣が能登行きだった。PCのアクセススペースがあったが、あいにく今日はPCを持ってこなかった。バスで飛行機まで移動。
10:30分出発。ボーイング737-500.機内は左右に3席ずつ。右2番目が私達の席。前3席が空いていたから、これが妹たちの席だったのだろう。
飛び立ってほどなく、右下に三浦半島が見えた。ガスっているのですっきりではないが、富士山も見える。程なく房総半島が見えてきた。房総半島を横切っていく。
やがて視界に入ってきたのは大島だ。その向こうに、ちょっと遠くて小さいがおなじみの三角お結びの利島が、続いて新島、式根島が見えてきた。ここまでは真鶴からも見える。次が神津島。神津島から、少し離れて、頂上に雲をのせた三宅島、切り立った海岸線の御蔵島。次の八丈島まではちょっと距離がある。この間を、島の人たちから黒瀬川と呼ばれてきた黒潮が流れている。黒潮は時速70kmくらいで流れているのだそうだ。
八丈小島が見えた。と、すぐに八丈島が現れた。八丈富士だ。火口もよく見える。ひょうたんのつなぎ目、なだらかな地点、空港を眼下に見ながら飛行機は海にでた。旋回して高度を下げながら飛行場にはいるのだ。
ホテルのバスが迎えに来ていてくれた。これからどうしよう、ホテルに行っても昼食はないというので、じゃぁ、町営の観光バス(1:00発)の午後のコースに乗ろう。そこで荷物だけホテルに持って行ってもらい、途中、亀屋さんの前で下ろしてもらった。観光バスは予約制なので、ホテルのドライバーがその場で申し込んでくれた。町営観光バスに乗るのは、八丈町がどんなふうに観光に取り組んでいるのか見たかったこともある。
観光バスの午前の部はこの亀屋さんで昼食をとるので、私たちは昼食を食べに、近くのすし屋へ入った。オヤジさんはあんまり愛想がよくない。島人は無愛想なのかなと思った。メニューにある島寿しを頼んだ。島で獲れた魚を握ったにぎりである。「八丈名物の島寿司って醤油につけたのではないの」と聞くと、「あんた達が食べているのが島寿し、醤油に漬けてあるのはしょうゆ漬け、しょうゆ漬けは予約しないとだめ」ということだった。後からきたお客さんは予約してあったらしく、しょうゆ漬け寿しだった。白身の魚を醤油につけ、わさびの代わりに洋芥子を塗ってあるのだそうだ。私達のとった島寿しは、オナガ鯛、トビウオ、イカ、歯鰹、シマアジ、こちらはわさびがぬってある。ネタは新鮮で美味しかったが、シャリは江戸前になれているが私にはいまいちだった。トビウオのつみれの入った清まし汁つき。1人前2100円。
バスの出る亀やさんにもどって、お土産物を眺めていると、バスに乗るお客さんは一割引だからとこの家のお母さんに勧められ、黄八丈の財布を買った。Papasanは小銭入れを。
この家の娘さんはSLマニアだとかで、時間があるとSLに乗りに内地に行くのだと言う。私は鉄道マニアではないが、人の受け売りでポッポにはいささか知識がある。お母さんがお茶を淹れてくれた。話が弾んでしゃべっていると出発の時間になった。島のナンバーを見たら、みんな品川ナンバーだ。あ~、ここは東京都なんだ。
午後の定期観光バスは乗客が6人。神湊港をくるっと通って、神止(かみと)山の下を通って北へ。テープが流れて説明がつく。神止伝説に、こんなのがあるそうだ。シケで、島は霧に閉ざされ、船が湊に着けない。そこで神のいますと言う山に向かって、全員一心に祈った。すると霧が晴れ、山の頂に女神の姿が見えた。その女神様蛾とどまっています山という意味で神止山というのだそうだ。バスは私達が泊るホテルを横に見て、八丈富士外周道路をまわる。
ぐるりと回って反対側にでると八丈小島が目に入る。やがて南原千畳敷。1605年、八丈富士の最後の噴火のとき流れ出た溶岩が形作った景観だ。黒々とした溶岩がいかにも溶岩 が流れて固まったという姿をしている。ここでバスはしばしストップ。海岸に沿って遊歩道を歩く。ガスっているので、八丈小島はボケているが景色はいい。溶岩の間から海岸植物が根を張って花を咲かせている。南原千畳敷には宇喜多秀家と豪 姫の彫像がある。宇喜多秀家はご存知、関が原の戦いの時の西軍の大将である。
豪姫は前田家の娘。実際には関が原の戦い後は生き別れて、秀家と豪姫が八丈島でいっしょに暮らすことはなかった。島人たちのせめてもの思いが二人並んでいる彫像を立てたようだ。
さっそくにPapasanは道向こうのお店で明日葉ソフトと缶入りの明日葉茶を買った。明日葉の味はしないなぁ。
歴史民族資料館に着いた。見学時間は30分。学芸員が30分ではとても話しきれないといいながら、足早に要所要所を説明してくれた。確かに30分では物足りない。もう一度自分で来なければ。八丈島の生い立ち、縄文時代から、先住民が住んでいたらしいという証拠の数々、そして江戸期になって流人の島となった。伝説では鎮西八郎為朝が平安時代にここに流されたことになっているが、歴史では、流人の第一号は宇喜多秀家。
「註:宇喜多秀家 うきたひでいえ 1572~1655
安土桃山時代の武将。宇喜多直家の子。宇喜多氏は備前の戦国大名で、直家は織田信長の部将として中国に侵攻してきた羽柴(豊臣)秀吉にしたがう。秀家は父の死の翌82年(天正10)に家督をつぐと、以後、秀吉の配下として諸戦に参加し、天下統一にしたがった。秀吉の養女で前田利家の娘の豪姫と結婚、豊臣政権では父の遺領もあわせ備前・美作(みまさか)・備中半国・播磨(はりま)3郡の57万余石をあたえられた。
文禄の役では元帥として、また慶長の役では監軍として朝鮮に渡海し(文禄・慶長の役)、のち五大老のひとりになった。城下町岡山の建設、児島湾の干拓、太閤検地の実施など、領国支配の確立につとめた。関ヶ原の戦(1600)に西軍の主力としてたたかい敗退するが、戦後、島津・前田両氏の助命嘆願によって死罪をまぬがれる。1606年(慶長11)八丈島へながされ、在島50年後に同島で没した。」
蛇足だが、関が原の戦いで西軍優位のさなか東軍に寝返って、東軍を勝利に導いた小早川秀秋。その小早川秀秋が宇喜多秀家に代わって岡山城主になった。しかし、城主としての器ではなかったらしい。1602年、継子のないまま病没、小早川家は断絶。
八丈島に流された流人は、政治犯や思想犯が多かった。要するに時の政府に都合の悪い人たちが帰って来ないように、遠い島に流したのである。帰ってほしくない人々、そういう意味では悪いことをした人たちも流されたと言える。「続日本紀」によると、聖武天皇、724年、流人の地が定められ、遠流(おんる)は隠岐、伊豆、安房、常陸、佐渡、土佐の6ケ所、中流(ちゅうる)が信濃、伊予、近流(きんる)が安芸、越前、などとされた。
昨年、隠岐に行ったが、隠岐の島に流された人々は身分や地位の高い人が多く、流人と言えども生活は拘束されることはなかった。だから島には公家文化が残っている。それにひきかえ佐渡はひどかったようだ。佐渡も行ったことがあるが、佐渡へ流された流人は目印に刺青をされ、金山で苦役をさせられた。まさに生き地獄だったのだ。佐渡にも順徳上皇、日蓮上人など、身分の高い人々も流されてはいる。歴史民族資料館には島抜けした流人の絵もあった。また流人になって島に寄与した人々の話もある。
ついで八丈植物公園へ行った。公園の入口の向こうに八丈富士がそびえている。ヤシの並木を進むと、中にビジターセンターがある。ここを見学して、ビデオを見た。アカコッコの絵葉書と、出たばかりの八丈島の植物ガイドを買った。ビジターセンターはたのしいところだが、ビデオが終わると、バスに直行。バスの運転手さんが明日の観光バスの運行を聞いてくれ、運行すると言うので、二人分予約してくれた。
空港でバスをおり、タクシーでホテルへ行った。ホテルは八丈シーパークリゾート。7時に夕食を、8時半にマッサージを頼んで部屋に行った。部屋はオーシャンビューを予約しておいた。海は見えるけど遠望はきかない。明日は雨だと言う予報である。お茶のセットが置いてあったので、湯を沸かし、紅茶を飲んで、買ったばかりの黄八丈の財布に革の財布の中身を移した。しかしカードがカバーのままでは入らなかった。仕方がないので、カバーは全部はずしてしまった。
疲れていたので、昼寝をしたら目を覚ましたのが7時近かった。急いで夕食に出かけた。夕食はアロエの刺身、お造り、前菜にクサヤもあった、魚のしゃぶしゃぶ、中華風スープ、具にシュウマイが中身を替えて3種、てんぷら、焼き魚、車えびのマヨネーズ焼き、等々、とても食べきれない。飲み物はご当地の産物、焼酎「黄八丈」の水割りを私、Papasanは「青ケ島」のオンザロック。黄八丈はさっぱりしていて飲みやすかった。
寝不足もあったので、マッサージをしてもらうと、朝までぐっすり寝てしまった。