NHKニュースその他から麻生や他閣僚の言葉を観る(1)

2009-02-18 10:05:06 | Weblog

 人は言葉によって人間を量る 

 「言葉は人間を映す鏡」と言うが、そうであるなら、言葉によって人間を量ることができるわけである。

 09年2月12日のNHK「ニュース7」――麻生首相が10日夕方の首相官邸ぶら下がり記者会見で前回の総選挙の争点は郵政民営化の是非で、殆どの国民は民営化の内容を知らなかったと発言したことに関係して党内から批判が相次いでいることを引き続いて取り上げている。先ずは自民党菅義偉選対副委員長の新潟市の講演での発言を再度取り上げたもの。

 「総理の発言というのは極めて重いと思っています。国民のみなさんに誤解を与えるように、あるいは党内に於いて、無用な軋轢を生むような発言と言うものは、やはり慎まなければならない。戦うべきは、みなさん、民主党なんですよ。党内で軋轢があっては、これ、戦いになりませんから――」・・・・・・

 言っていることを解くとすると、「総理の発言というのは極めて重い」。ところが「総理の発言」は「国民のみなさんに誤解を与えるように、あるいは党内に於いて、無用な軋轢を生むような発言」となっている。いわば「総理の発言というのは極めて重い」ものであるにも関わらず、「重」くはなっていない、軽い発言となっている。

 そしてその影響が「戦うべきは、みなさん、民主党なんですよ。党内で軋轢があっては、これ、戦いになりませんから――」と、近く予想される総選挙で民主党に有利に働き、自党に不利に働くことを懸念している。選対副委員長という立場上の利害得失勘定からしたら当然の恐れ、あるいは懸念であり、立場に忠実な発言とはなっている。

 だが、首相の言葉の軽重が問題となっているのであり、自らも問題としている。当然、選対副委員長が自民党内の単なる役目の一つに過ぎないことから考えると、その役目に忠実であることを脇に置いて、言葉が示している首相としての適格性の有無及びそのような首相を選択した責任の有無――自身にも関係していることだから――目を向けていいはずだが、選挙への影響を結論に持ってきている。いわば総理の言葉を選挙への影響を心配する文脈のみで扱っている。

 このことはどちらを本質的な問題だと考えているかというと、菅義偉にとっては総理の言葉の軽重が本質的な問題ではなく、選挙を本質的な問題だと把えていることを示している。

 こういった姿勢を国民との関わりから言うと、菅義偉は国民に直接顔を向けているのではなく、自由民主党――いわば内輪にのみ顔を向けていることを示していると言える。国民に顔を向けるのは選挙という利害損得を通してのみとなっているということだが、自民党が参議院ねじれ国会が生じるまでの衆参の議席で有利な状況にあったときは「傲慢」と言われる国会運営を押し通すことができたのも、顔を国民に向けていたのではなく、内輪に向けていたからだろう。そしてそのような状況を国民は許してきた。

 尤も国民の生活を自らの政治の利害とするのではなく、選挙の当落、あるいは政権維持を利害損得の基準とする姿勢は菅義偉だけではなく、与野党国会議員を含めて多くの政治家がそうなっている。

 次に細田幹事長。

 (麻生が4分社化の経営形態の見直しが必要だとの考えを示したことについて)「国会での答弁で、うーん、んー、非常に分かりにくい、いー、内容であった、ことは事実ですね。色んな説明の中でですね、ん、何か誤解を、生じてしまっている、ということですね」――

 麻生ベッタリの細田としたら、菅義偉みたいに「総理の発言というのは極めて重い」などと言って、間接的にそうなってはいないことをあからさまに示唆できないから、他人事ふうな距離を置いた物言いとなったのだろう。

 但し「何か誤解を、生じてしまっている」の「何か」ははっきりしないことを示す「何か(=何となく)」であって、麻生が言っていたことに左程間違いはないにも関わらず、影響の点でそれ程でもない「誤解が生じている」という意味の言い方であろう。

 だから他人事ふうに「ということですね」と言える。

 この他人事ふうは自分たちが選んだ首相であり、その首相を戦う顔とした選挙に負けたなら困るから、自分たち事から離してそっとしておこうという選挙を利害得失の最優先事項とさせた距離感の演出であろう。

 唯一の例外は、我らの麻生太郎のみである。2月16日夜の首相官邸でのぶら下がり記者会見で支持率についての質問を受けて次のように答えている。
 
 --内閣支持率が下げ止まらない。日本テレビの世論調査ではが9.7%と麻生内閣で初めてひとケタ台となった。改めて受け止めを。経済対策だけでは挽回が難しいという声もあるが、どのように挽回(ばんかい)していく考えか

「支持率につきましてはこれまでも、ずっと同じ事をお答えしてると思いますんで繰り返すようで恐縮ですけども、支持率については自分の不徳の致すところだと思っていますんで、それに関しましては今後とも経済対策。私、今、世の中ってのは景気、これが国民の最大の私は関心事だと思ってますから、この景気対策、これに全力をあげるそれしかないと思っています。それが支持率回復に結びつくか結びつかないのか、それは私の支持率というのは、どういったもので、どういうもので決まるのか知りませんけれども、少なくとも今、与えられてる仕事というのは景気対策だと、景気回復が私に与えられている一番の仕事だと思ってますから、それに専心していきたいと思っています」(以上「msn産経」

 かくかように選挙を利害得失の最優先事項とはしていない。選挙が戦えるか戦えないかなどといったことは問題にしていない。経済対策・景気対策を唯一最大の利害得失の最優先事項としている。だが、惜しむらくは世論が麻生首相の経済対策は期待しないといった調査結果を出している。これは国民の「誤解」なのだろうか。

 菅義偉も「国民のみなさんに誤解を与える」と言い、細田幹事長の場合も麻生の言葉の影響を「誤解」としているが、「誤解」とすること自体が正しい把え方なのかどうかの自己検証を欠いている。

 そもそも「誤解」という言葉は『大辞林』(三省堂)にも書いてあることだが、事実や言葉などを誤って理解することを言う。その原因が話し手側の説明不足にある場合もあるが、多くは説明の受け手側の理解不足や勝手な解釈によって起こる“過ち”であって、説明不足である場合を除いて、話し手側に非があるわけではない。

 もし説明の話し手側に非があるにも関わらず、それを無視して本来は非のない説明の受け手側に非がある“誤解”だとした場合、責任回避を経た責任転嫁と化す。
 
 いわば自分の非を棚に挙げて、その非を責める周囲の人間の方にこそ非がある「誤解」だとすり替える自身には責任回避となる、他者への責任転嫁である。

 細田幹事長が言っている「誤解」は、「国会での答弁は非常に分かりにくい内容であったことは事実だが、色んな説明の中で何か誤解が生じてしまっている」、それが「何か」=「何となく」なのだから、その「誤解」はたいしたことではないものの、話し手の説明不足よりも、話の受け手側の理解不足、あるいは誤った解釈による「誤解」、話し手側=麻生に非のない前者の「誤解」に重点を置いたものとなっていると言える。

 立場上当然の解釈だとも言えるが、実際は非の所在が逆であるにも関わらず、後者の「誤解」だとしたら、責任回避及び責任転嫁を犯していることになる。

 どちらなのか、さらに細田幹事長の発言を見てみる。

 (郵政民営化の進め方について)「合理化によって、えー、そこの利益が上がっておりますのでね、地方に於いて大問題が発生しているかどうかってことをですね、え、もっと検証して、私としては、微調整、え、ではないかと――」

 アナウンサーの解説では、分社化の形態維持を前提にサービス面の改善を進めていくべきだと言う考えを示したとのことだが、「地方に於いて大問題が発生しているかどうかってことをですね、え、もっと検証して」と「大問題」を前提とした「検証」の必要性を言いながら、「検証」を省いて「私としては、微調整」でいいと矛盾した結論となっている。いわば「検証」の必要性を言いながら、「大問題」は発生していないとしている。

 「問題が発生しているかどうか」ではなく、「大問題が」と「大」をつけてまで検証の必要性を何のために言ったのか意味不明となる。

 麻生腰巾着として麻生の肩を持ちたいが、持った場合の騒ぎの拡大は困る、さりとてまったく肩を持たないわけにはいかないから、「微調整」程度の肩を持つだけで我慢して、騒ぎを収束させ党内の麻生批判を穏便に収めたいという意識が働いた苦し紛れの釈明といったところなのだろう。

 意味不明と言い、苦し紛れの釈明と言い、細田幹事長の言葉から人間を量るとしたら、麻生支持に汲々としている姿しか浮かばない。大人物を擁護するなら、もっと堂々としていられるが、小人物が小人物を擁護する図となってるから、どうしても苦し紛れのケチ臭い弁解となる。

 麻生支持に汲々としている間は話の受け手側に解釈や理解の非がある「誤解」ではなく、話し手の麻生に非のある“誤解”だと客観的に冷静に判断する力は備わることはあるまい。いわばこじつけの麻生正当化の意識が強く働くこととなって、その反動として責任回避及び責任転嫁に属する“誤解”に走りやすい傾向を抱えることになる。

 細田幹事長が公明党の会合で、「この定額給付金、具体的な議論についても大変いいご提案をいただき、皆さん本当に楽しみにしておられるんです。日本中そうなんです」(「FNNニュース」/ 09/01/09 18:53)と述べたということだが、「日本中そうなんです」どころか、70~80%の国民が景気対策として有効ではないと回答している事実を無視できる理解無能力は強く働いているこじつけでしかない麻生正当化の意識に相互対応した客観性の欠如という他ないであろう。

 もう一例挙げるとしたら、麻生太郎と小沢一郎との初の党首討論(09年2月28日)を細田幹事長は評して、「麻生太郎首相に軍配が上がった。圧勝だった」(「FNNニュース」)と記者団に誇らしげに語ったというが、党首討論の直後の29、30の両日に実施した産経新聞FNN(フジニュースネットワーク)の合同世論調査では麻生内閣はさらに支持率を下げ、「首相にふさわしい」も小沢一郎に軍配が上がった(「msn産経」/2008.12.1 12:01)「圧勝」だったのだから、客観的判断能力を欠くことで相互的に成り立たせている麻生正当化のこじつけが如何に強いか分かろうと言うものである。

 当然細田の「誤解」も麻生正当化のこじつけと同じ線上にある同類と看做さなければならない。

 NHKニュースは次に12日夕方に会合を開いた小泉を筆頭とした郵政民営化を進めた主だった者たちの話題に移る。他の新聞・テレビによると、小泉元首相は自身による冒頭の挨拶の5分だかの間だけテレビカメラが入って撮影するのを許し、その前で独演したという。意図的な情報露出と言うわけである。

 小泉「総理の、発言について、怒(おこ)ると言うよりも、笑っちゃうくらい。もう、ただ、ただ、呆れているところなのです。後ろから鉄砲撃つな、という押さえ込みがかかるけどね、最近の状況はね、総理が前からね、これから戦おうという人たちにね、鉄砲撃ってるんじゃないかってね。もう発言を気をつけて欲しい。強く言っておきました。政治にいちばーん、信頼度。特に総理が、総理の発言が信頼がなけりゃあ、もう選挙は戦えないんですよ――」・・・・・

 ここでも麻生発言は選挙へと収束する。「総理の発言が信頼がなけりゃあ、もう選挙は戦えないんですよ」と言っていることが何よりの証明だが、裏返すと、自民党の誰もが「総理の発言」を選挙用と位置づけていることを示している。

 総理・総裁が陣頭指揮に立って総選挙という戦場に向けた戦いを展開している最中にその総理・総裁を後ろから鉄砲を撃つような真似をして足を引っ張ったりしたら、「後ろから鉄砲撃つな、という押さえ込みがかかる」が、そうではなく、いざ鉄砲を担いで総選挙という戦場に向かいつつある自民党各議員を総理・総裁が援護射撃するどころか、逆に前へ進むなとばかりに正面から鉄砲を撃って戦意を殺ぎ、負け戦になりかねない不利な戦いとしている。そういった首相の発言となっていると批判している。

 小泉元首相のこの批判は言葉の内容によって左右される総理の「信頼」こそが選挙を戦う担保となるということの示唆でもあろう。

 このことを逆説するなら、各議員が総理の「言葉」に影響を受ける相対的存在であり、その言葉の前には自身の言葉は無力で、自分の言葉でのみ存在する絶対的存在とはなっていないということになる。

 つまり“自分は自分だ”がなく、金魚のクソのように首相の後に引っ付いて選挙を戦う自律していない存在だということではないのか

 所詮国会議員も如何にも何様ふうに「センセイ」を名乗っていようとも、選挙を利害損得の最優先基準とした生きものでしかないということなのだろう。

 国民は選挙に関わる利害損得を充足させる要素として必要不可欠のときのみ必要とされる。

 ≪NHKニュースその他から麻生や他閣僚の言葉を観る(2)≫に続く


 



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NHKニュースその他から麻生や他閣僚の言葉を観る(2)

2009-02-18 09:45:55 | Weblog

 NHKニュースは次いで小泉元首相の麻生批判を受けた各派閥の会合を伝えた。

 古賀誠選対委員長「緊迫した国会の連続ですから、申すまでもないことでございますが、与党に不協和音が出ると、これが一番困るわけですよ」――

 仲のいい夫婦だって、ときにはケンカをする。まともに政策を争って生じた不協和音ならまだしも、選挙の足が引っ張られることだけを心配した程度の低い不協和音だという認識がないまま、古賀誠は「誠」という名にふさわしい表面的な解釈に終始している。

 古手の議員でありながら、表面的な解釈を事とする。以前の言葉と併せ考えると、世渡り上手で古手、派閥のボスにのし上がった政治家像を言葉から量ることができる。

 山崎拓「来るべき、あの、決戦を控えている、うー、うー、うー、我々の、うー、うー、身をも十分、お考えいただいて、雄弁は、あー、銀ではございますが、銀に過ぎませんで、沈黙は金と言うこともありますから――」

 山崎拓にこそ必要な「沈黙は金」のようにも見える発言となっている。「我々の身」よりも「国民の身」を考えるべきだが、「我々の身」のみの利害損得としている。首相は政策遂行責任者として、説明責任、情報公開責任を負うがゆえに(勿論結果責任も)、国民に対して雄弁でなければならない。と言ってもただ喋ればいいというわけではなく、明確に理解できる簡潔な言葉が求められるが、そのような立場にある首相に対して「沈黙は金」と口を閉ざすことを強いて、ただ選挙に勝ちたいばっかりに説明責任と情報公開責任から勝手に解き放とうとしている。

 体重は重そうだが、言葉は重くも何ともない人間を観ることができるではないか。
 
 伊吹文明「玄人にはまったく、あの、ぶれていない、発言として、理解ができますが、やはり、一般の方々にはね、あれだけの説明を、やはり、加えても、総理のことが分かっている人でないと、なかなか理解ができないんですよ――」

 国民に対して常に説明をする責任を負う立場にあるのだから、「一般の方々に」理解できる言葉を持っていることが不可欠の資質となるはずだが、そのことに反する「総理のことが分かっている人でないと、なかなか理解ができない」という言語能力(=説明能力・情報能力)とは何を意味するのだろうか。

 答は唯一つ、己の党内立身出世のために自身の主義主張よりも妥協を優先させてきたから、いざ自身の主義主張を前面に出すと、説明あるいは情報に破綻が生じることとなった醜態に過ぎない。

 麻生太郎に限ったことではないが、政治家の主義主張は国民全般の利害損得に合わせるべきものだが(特定の一部ではない)、多くの政治家が実質的には党内という狭い世界で党内力学の利害損得で成り立たせた利害損得が基準の主義主張となっているから、国民と顔を向き合わせたときの主義主張にしても自身や党の利害損得を基準とし、それを巧妙に隠したものとなる。

 伊吹の発言に戻るが、言っていることが全体的な政治光景としても事実その通りだとしたなら、麻生政治は「一般の方々」を排除した玄人限定の内々の政治ということになる。

 「大和民族がずっと日本の国を統治してきたのは歴史的に間違いのない事実。極めて同質的な国」だと頭から信じ込んでいる日本民族優越意識に染まった伊吹だから、優越日本民族の中でも「玄人」なる一段上の優越者限定の政治にしたいのだろうが、憲法は第14条で「すべての国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」(「法の下の平等」)を謳い、一定の年齢を満たすこと以外の制限を受けない普通選挙が認められている民主国家である。

 そのことへの客観的な視点を欠いた「玄人」云々であり、「一般の方々には理解できない」といった解釈なのだろう。

 国民に背を向けて帝国ホテルといった高級ホテルのレストランで高級な料理に舌鼓し、バーに移って、高級ブランデーで喉を潤すことを習慣としている高級志向人間の麻生なのだから、一般国民のごく普通の感覚に馴染みがないのも無理はない、伊吹の言う“玄人政治”ということかもしれない。

 だが、伊吹の客観的視点の欠如は東京大学に次ぐ(?)京都大学という最高学府で学んだ知性に逆説する位置関係を持つことになるが、どう説明したなら、その逆説を説くことができるのだろうか。学歴自体を権威主義で把えていて、権威主義のみを学んだとしたなら、自身の学歴に権威主義的な優越性を置いていることだろうから、「一般の方々には理解できない」「玄人」政治といった特権性を持たせた権威主義的な考え方が成り立つのかもしれない。

 NHKニュースはこれでもかと自民党若手の声を伝える。

 山本一太「説明すれば説明するほど、ぶれてしまうと、いう、ちょっと悪循環に陥っているので、あんまり余分なことをおっしゃる必要はないと思うんですね――」

 一国の総理大臣が自分よりも年下の一議員に「あんまり余分なことをおっしゃる必要はないと思うんですね」と発言を注意される。どこの国の政治世界にもあることなのだろうか。

 このことは総理大臣として一個の存在足り得ていないということを示していないだろうか。自律した存在となり得ていないから、周囲からの干渉を受ける。

 一個の存在足り得ていない、あるいは自律した存在となり得ていないという状況とは主体性の発揮が困難な状況を言い、当然のこととしてリーダーシップの欠如を響き合わせることとなる。リーダーシップがなければ、呼応して求心力を失う。

 このことがそっくり世論調査に現れることとなっている。

 中山泰男衆議員「そういったことがあるたんびに若手が、こういった、あー、下らんことに巻き込まれてしまう、ということはやはり、いけないと思いますが――」

 若手の立場からの利害損得を言っている。

 伊藤達也元金融相「総理が今おっしゃるべきことは郵政民営化の中身を見直すということよりも、景気をちゃんと立て直すということだから――」

 ご教授いただいちゃった。

 塩崎元官房長官「総理、の発言ていうのは、大体重たい、もんであります。あの、ぶれているとね。・・・・・原点に立ち返って、もう、ぶれないというふうにしていただくほうがいいんじゃないですか――」

 元官房長官なのに、たいしたこと言えないなあ。

 若手であろうとなかろうと、総裁選挙で麻生に例え1票を投じなくても、自民党としては麻生を総裁に選び、総理大臣に仕向けた。誰もが党全体の責任に向けた視点を欠いているのは、欠いていなかったなら、所属国会議員一人ひとりの責任に撥ね返ってきてまずいことになる利害損得からの視点の欠如なのだろう。

 麻生がたいしたことのない総理大臣だということは自民党議員が全体としてはたいしたことのない議員ばかりだと言うことである。

 麻生が騒動を引き起こした自らの一連の発言を国会で謝罪する。
 
 麻生首相「(顔を下に向けて答弁書を読み上げる)私は常に一貫した主張をしてきておると、存じ、存じておりますので、(答弁書から顔を上げる)色々、誤解があるようでなければ、私にとりましては、今後誤解のないように務めていきたいと思います」

 録画を何度巻き戻して何回も聞き直しても、「誤解があるようでしたら」ではなく、「色々、誤解があるようでなければ」としか言っていない。答弁書自体が本心からの反省を書き込んだ文面ではないから、顔を上げた瞬間から本心が顔を覗かせたのだろうか。機械的に早口にパッパパと喋った様子にもそのことが現れていた。

 既に触れたように「誤解」とは話し手側の説明不足である場合を除いて、事実や言葉などを説明の受け手側の理解不足や勝手な解釈によって誤って判断されることを言い、その非は話し手側にあるわけではなく、説明の受け手側にあることになる。

 麻生にしても自分が国会や記者会見で喋った言葉を「誤解」だとして、自分に非はない、周囲に非があるとしている。いわば周囲の理解不足や勝手な解釈で起きている騒動に過ぎないと。だから「私は常に一貫した主張をしてきておる」という言い分が可能となる。

 すべては周囲の理解不足、あるいは勝手な解釈による「誤解」――自分に非のないことだから、答弁後段の「色々、誤解があるようでなければ、私にとりましては、今後誤解のないように務めていきたいと思います」は偽りの謝罪に過ぎないことになる。

 また本来はそれが説明不足である場合は「誤解のないように務め」るのは説明の話し手側にあるが、そうでなければ、「誤解のないように務め」るのは説明の受け手側にある。非が周囲にある「誤解」だとして置きながら、説明不足による「誤解」だと受取れる謝罪としているが、自分から矛盾を犯すようなものだが、やはり偽りの謝罪だから平気でできる矛盾に違いない。

 上記麻生の言葉だけからでも、なかなかの鉄面皮漢、あるいはハレンチ漢の姿を量ることができる。

 中川昭一財務・金融相が2月11日、都内開催の建国記念日を祝う式典で<首相や自身の漢字の読み間違い、給付金受領をめぐる首相発言のぶれなどを批判する報道に不満を示した>内容の挨拶したと同日付の「時事通信社」記事≪首相の給付金受領「どうでもいい」=読み間違い批判に不満-中川財務相≫に出ている。

 「(麻生太郎)首相が言い間違えたとか、中川が言い間違えたとか、定額給付金を(首相や閣僚が)もらうのか、もらわないのかとか、そんなことはどうでもいいだろうと思っている」

 「政府も与党も日本の経済をどうやってよくしようかと必死に頑張っているので、言い間違いもあるだろう」

 (今国会の財政演説で「渦中」を「うずちゅう」と読み間違えたことにも触れ)「国が一致団結して(景気浮揚のために)戦わないといけないときに、後ろを向いて『言い間違えてごめんなさい』と言っている間に、戦いがおかしくなったら皆さんに申し訳ない」・・・・・・・・

 言い間違えに気づかなければ、後ろを向いて『言い間違えてごめんなさい』」と謝罪はできない。1月28日の衆院本会議で行った財政演説では26箇所も間違えがあったというから、気づかないまま演説を終えたということで、後ろを向いて『言い間違えてごめんなさい』」と謝罪するどころではなかったはずだが、それを後ろを向いて『言い間違えてごめんなさい』と言っている間に、戦いがおかしくなったら皆さんに申し訳ない」などと薄汚い弁解をする。

 間違いに気づけば気づいた時点で咄嗟の反応として謝罪の言葉が出るのが人間の自然な心理のはずだが、百歩譲って気づいていたことにしても、「後ろを向いて『言い間違えてごめんなさい』と言っている間に、戦いがおかしくなたら皆さんに申し訳ない」からと謝罪を後回しにするだろうか。

 大体が政策に関わる法律が審議され、賛否の投票を受けて成立して実施されるまでの時間に比べたなら、「後ろを向いて『言い間違えてごめんなさい』」と謝罪する時間はどれ程のものだろうか。「戦いがおかしくな」る程の時間を必要とすると言うのだろうか。

 間違えの挽回は今後間違えないように努めるか、国民に称賛される政治を行って間違いを些細なことに変えるしかないはずだが、過ぎたことをいつまでも拘って「建国記念」の話題とは関係のない個人的な弁解の機会に利用する。

 些細な失敗にいつまでも拘るのは自尊心が過度に強すぎることも一因となる人間像であり、同時に合理的に物事を考えることができないことが原因する人間像でもあろう。

 7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)後の記者会見の場での酩酊疑惑が生じて、今朝のニュースが引責辞任したと伝えていたが、気が小さいことから些細なことにいつまでも拘る神経質な自尊心が強迫神経症にまで高まっていて、アルコールで殺すこととなっていた飲酒癖が災いした飲酒記者会見といったところではないかと見ていたが、テレビニュースで見ると、明らかに風邪薬が原因した朦朧状態ではない。

 そのことは辞任が証拠立てている。

 笹川尭総務会長「(首相が)独り相撲すると、時間のロスで体力を消耗するだけ」(「毎日jp」

 「独り相撲」なのは麻生だけではない。自分たちで総裁に選んで首相に押し上げた麻生である。その麻生に振り回されて、党内対立や党内騒動を引き起こしている。麻生では選挙が戦えないと周章狼狽している。いわば首相の「独り相撲」は自民党の「独り相撲」でもある。自民党も「時間のロスで体力を消耗する」。

 この短い言葉だけからでも、物事の全体を見る目を持たない笹川尭という人間を量ることができる。


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