最初に断っておくが、死ねばみな仏となるという日本的考えに私は組みしない。この思想には歴史の否定を含む。北朝鮮の独裁者金正日をその死後仏と価値づけた場合、生前に於ける北朝鮮国民に対する自由の抑圧、人権抑圧に見せたその歴史的独裁性と食い違いを起こすことになるばかりか、その独裁性を和らげる歴史の改竄を犯しかねない。
小泉元首相は在任中、靖国神社に祀られている戦没者を「死ねばみんな仏になる」と言って英霊・神と顕彰し、参拝正当性の口実としていたが、「仏」としたことは彼らが兵士として日本の侵略戦争に加担していた歴史的な罪の部分を抹消することでもあった。いわば小泉元首相は戦没者を「仏」とすることで、日本の戦争の歴史を改竄していたのである。
人間は生きた歴史そのものによって評価されるべきだろう。尤もその歴史たるや人によって解釈が異なるから始末に悪い。いわば歴史に絶対的解釈は存在しないものの、死んだら仏となるという解釈を歴史に紛れ込ませることはしたくない。
10月4日(09年)日曜日の午前8時過ぎ、自民党の中川昭一元財務・金融相(56)が東京都世田谷区の自宅二階でベッドにうつ伏せになって死亡しているのが発見された。
前日の3日午後9時頃、外出先から帰宅した夫人が、中川氏が「上半身だけをベッドにもたれ掛けるようにしてうつぶせで寝ているのを確認、異常は感じなかった」(スポーツ報知)が、起きてこない夫の様子を見に来た夫人に発見されたという。
「上半身だけをベッドにもたれ掛けるようにしてうつぶせで寝て」いた。記事を言葉通りに解釈すると、なぜちゃんとした姿勢でベッドに伏せることができるように全身をベッドに持ち上げてやるといったことをせず、そのままに放っておいたのだろうかという疑問が生じるが、どの記事も外傷はなく、事件の可能性はないとみられると報じるだけで済ませている。行政解剖の結果、アルコールと睡眠薬の成分が検出されたものの、自殺の可能性はなく、死因は循環器系の持病の可能性が浮上、病理検査にまわすという。
中川昭一にはアルコールに纏わるエピソードに事欠かないそうだ。このことも死んで仏となったからと言って消すことはできない彼の歴史的事実であろう。
このことは「Wikipedia」が「飲酒癖にまつわるエピソード」として取り上げている(参考引用)。
自他ともに認める大の酒好きである。しかし中川が政界で重要な地位を占め、ニューリーダーの一人と目されるようになるにつれ、周囲からも酒癖を注意されることが増え、本人もしばしば禁酒・断酒を宣言するが、長続きしなかった。
経済産業相時代の中川を知る(中川を追い落とした)キャリア官僚は「見かけによらずプレッシャーに弱いのか、大きな交渉の前に酒を飲まずにはいられないようだった」と、仕事中に酒を常飲していたともとれる発言をしている。
2009年8月31日第45回衆議院議員総選挙では飲酒報道が祟り、比例代表でも復活できず落選した。
だるまの目を塗り潰す
2000年の総選挙で当選を決めた際、選挙事務所で酒に酔い、ふらふらとしながら万歳三唱している姿が全国に放映された。当選直後、だるまに目を入れる際に、酔っ払っていたことや墨の量も考えずに行ったために黒い涙のようになってしまい、周囲を慌てさせた。
酔ったまま初閣議
経済産業相当時、2004年9月の小泉政権時の内閣改造では、お別れ会見後に経産省を出て別の場所で酒を飲んだが、再任されて慌てて官邸に向かい、酔ったまま初閣議に臨んだ。
酩酊状態で後援会で挨拶
2005年夏に十勝管内本別町で行われた後援会パーティーに酩酊状態で現れ、10分間を予定していた挨拶はろれつが回らずに、数分間で終了した。中川は、その時に同席していた同管内の首長から「ちゃんと挨拶した方がいい」と一喝されたという。
宮中晩餐会で悪酔い騒動
2008年11月20日のスペイン国王フアン・カルロス1世夫妻を迎えて開催された、天皇・皇后主催の晩餐会において、悪酔いして騒動を起こしたことが『週刊新潮』で報道され、本人もこれを認めている。晩餐会では、テーブルを挟んで正面にいた妻に、何度も「お酒、もうやめなさい」と言われていたにも関わらず多量飲酒。その後、中川は東宮大夫の野村一成に対して、「水問題について皇太子殿下もお詳しいと聞いたので是非お話しさせていただく機会がほしい」と絡んだところ、素っ気なく「無理」と返されたことに対して中川が激怒、「分かった、帰る!」と大声で怒鳴ったとされる。また読売新聞は、酔った勢いで「宮内庁のばかやろう」などと怒鳴って途中退席したと報道している。
中川本人はインタビューで「まぁ、お酒が入っていましたから、“帰る”と大声で言ったかもしれません。言ったような気がします、はい、大声で。殿中ですよね…。酔ってるな、という自覚はあったんですが」、「場所が場所だけに…失態をしてしまいました。お酒が悪い。本当にお酒が悪い」と語っている。
演説で26ヵ所の読み間違い
2009年1月28日の衆議院本会議で、財務・金融担当大臣として財政演説を行ったが、「渦中」を「うずちゅう」、「改正」を「改革」、「削減」を「縮減」などと読み間違え、財務省が計26ヵ所の訂正を申し出るという事態になった。後日、議事録の訂正に衆議院議院運営委員会の野党側の理事の了承も必要であるため訂正箇所を減らして再度要請した(政府批判の材料になる可能性もあるため、重要な間違いでない部分=話が通じる部分はそのまま訂正しないことにしたとされる)。また、年度予算の計数について、2009年度の税収の減収額(7兆4510億円減)を「7兆4050億円減」と間違えた。財務省によると、間違えた理由として「風邪で体調が悪かった」のが原因としている。麻生太郎の漢字の読み間違えが話題になる中での現職閣僚の読み間違いであったことで、メディアがこれを取り上げた。
なお、自民党国会議員の秘書によると、中川は前日に東京都内で酒を飲みながらテニスをし、持病の腰痛を悪化させていたという。
G7での居眠りと閉幕後の泥酔記者会見
2009年2月14日にイタリアのローマで開催されたG7の財務大臣・中央銀行総裁会議終了後の内外記者を集めた日本銀行総裁の白川方明と財務官の篠原尚之との共同記者会見の場にて、中川はろれつが回らず、あくびをし、表情は目がうつろで記者の質問にまともに答えることができないという醜態を曝した。さらに、中川は日銀の政策金利を言い間違えたり、質問した記者が見つけられず「どこだ!」と突然叫んだり、「共同宣言みたいなものが出ました」などと不明瞭な発言をしたことから、各国の各方面から「時差ぼけ」の影響だけでなく、健康不安や深酒を疑われている。対照的に、この会見に同席した白川は冷静に対応していた。会見中、白川の前に置いてあった水飲み用コップに中川は間違えて手を伸ばしたりもした。
この記者会見での中川の姿は日本の新聞やテレビのニュースで「深酒居眠り会見」として大きく取り上げられ、その結果、世界中に報道された。
帰国後の2009年2月16日の衆議院財務金融委員会での答弁で、中川は会見前に「(ワインを)飲んだのをごっくんということであれば、ごっくんはしておりません。たしなんでいるんです。グラス一杯飲んでおりません」と発言している。
原因は機内での風邪薬の大量服用と同時に飲んだアルコールの相乗効果によるものとしている(ただし佐藤優によると、この釈明では海外メディアに「アルコール中毒」どころか「薬物」を連想させかねないため、釈明の意味をなさない恐れがあるという)。当初飲酒の事実を否定していたが、その後、当日G7の公式行事を中座し、複数の女性番記者と飲食していた事実が判明したこともあり、状況として本人の酒好きから泥酔疑惑が指摘されたが、帰国後の番記者との会話で、当時、会議に行く機内での飲酒と服用した風邪薬の併発の副作用であると釈明している。中川は、機中でも度の強いアルコールを数杯飲用していたことを認めている。この場合、酒と薬による複合中毒を起こし、本来よりも強い効果を示してしまうことが報告されている。
官房長官の河村建夫は会見で、「風邪薬の大量服用が原因。昼食にワインが出て、ぜんぜん手つかずだったということではないが、深酒したとかとは全く関係ない」と述べた。自民党幹部からは「前代未聞の珍事で世界に対して恥ずかしい」「国辱だ」との批判が出た。また、アメリカABCテレビの記者のブログでは、「トヨタ自動車や日産が何万人も解雇していることは目を覚ますのに十分な理由だ」「各国首脳が集まったが、起きているだけでも難しいことが判明した」「(眠いのであれば、会議が開催されたイタリアには)いつでもエスプレッソがある」などと、皮肉交じりの批判などが記載された。
この事態を受けて2月17日、民主党・日本共産党・社民党・国民新党・新党日本の野党5党による、参議院への中川に対する問責決議案提出が固まった。同日、中川は昼過ぎからの財務省での緊急記者会見で、平成21年度予算案およびその関連法案の衆議院通過後に辞表を提出し、財務・金融担当大臣を辞任すると表明したが、即座の辞任ではないために野党側はさらに態度を硬化させ、問責決議案を野党5党で提出、自民党内では「(衆議院通過後の辞任というのは)わかりづらい」(塩崎恭久)、「即座に辞任すべき」(山崎拓)との声が出たほか、公明党の北側一雄も自民党幹部を訪ねて即座の辞任を要請、予算審議における、民主党など野党側の「辞任しなければ予算審議しない」、「辞任表明した閣僚に質問しても意味がない」という、予算委員会欠席の国会対応もあり、結局、同日に辞表を提出するに至った[31]。辞任の際、中川は「予算委員会の雰囲気を見て、自分が辞めた方が国家のためになると判断した」と述べている。後任は経済財政担当大臣の与謝野馨が、財務大臣と金融担当大臣を兼任することとなった。
バチカン美術館でのトラブル
上記の問題の記者会見が終了してから15分後、バチカン市国にあるバチカン美術館を約2時間観光した。そこで、触ることが禁止されている美術品に素手で触ったり、柵を越えて警報を鳴らしたり、ラオコーン像の台座に座るなど非常識な行動をしていたと報道された。中川の事務所は「体調が悪かったため、見学中に入ってはいけない区域に入ってしまって警報が鳴ったのは事実だ。関係者に迷惑をかけることになり申し訳ない」と釈明した。しかし、中川自身は2009年3月14日午前に放送されたCS番組で「非常に事実と違う」「(博物館を)案内してもらい、つつがなく終わったと思っていたらあの報道。(バチカン側も)全く警報機も鳴っていないし、私に注意もしていないとお怒りになっている」と述べ、事実関係を否定したが、政府は2009年4月7日の閣議で決定した答弁書で、中川が2月にバチカン市国のバチカン博物館を視察した際、立ち入り禁止区域に入り、同博物館の警報機が鳴っていたことを明らかにした。答弁書では、同博物館に確認し、「警報機は鳴ったが、その音量は全館に響くほど大きくなく、気づいた人も気づかなかった人もいただろう」としている。(以上)――
なまじっかではないアルコール依存症に陥っていた様子を窺うことができる。アルコール依存者は薬を服用するとき、水や白湯を使わずにアルコールで服用する傾向にあるということを聞いたことがある。これは水や白湯よりもアルコールの方が身近な存在となっているからではないだろうか。
中川昭一の死を若すぎる死として関係者はその死を惜しんで数々の賛辞を捧げた。
自民党伊吹派会長・伊吹文明元財務相「中川先生は同期当選でもあり、年齢的にもこれからの政治家であっただけに、日本のためにも残念です。詳しいことが分からないので、これ以上のコメントは現時点では差し控えますが、ご家族にお悔やみ申し上げ、心からご冥福をお祈りいたします」(msn産経)――
「日本のためにも残念」な死だと、その死を最大限に惜しむことで賛辞に代えている。
河村建夫前官房長官「落選の衝撃が大きくて心身ともに疲れていたのかなあと思う。中川氏の政策能力は高く、将来の日本の政治を担う人だった。再起を期してくれると思っていたので本当に残念だ」(msn産経)
谷垣禎一自民党新総裁「今まで体調が十分でないところがあったのを、つとめて公務に督励されていた。心配していたが、こんな知らせを聞くとは思っていなかった。有能な方で、まだこれから日本の政治にも中川さんの力を発揮していただかなくてはならない局面が必ずあったはずだ。ご冥福(めいふく)をお祈りしたい」(msn産経)
麻生太郎前首相「保守の理念を再生していくうえでは最も期待されておられる人物だと思っていました。自由民主党としても大きいダメージを受けたと思っています」(asahi.com」)
究極の賛辞は自民党幹部が言ったという次の言葉であろう。
「首相になる人だった」(msn産経)
誰もが死を惜しむ声と賛辞を通して中川一郎なる政治家を有能・立派な人物像に描いている。
だがである。誰にとっても過ぎた月日は短く感じて、年をとった人間以外、これから先の時間は長く感じるものだが、中川昭一にとっては過ぎた過去の時間そのものは同じく短く感じるだろうが、財政・金融相を辞任せざるを得なったG7での酩酊記者会見の恥ずべき記憶ばかりか、その影響で今回の総選挙を落選して議員の資格と同時にいくつかの大臣を歴任して築き上げた名誉をも失墜させた悔やむべき記憶を二重に抱えた次の総選挙までの最悪4年間は日々後悔に苛まれる、ある意味地獄を感じさせて長く、それを癒すためのアルコールと睡眠薬とでますますボロボロとなっていって非難や嘲笑を受けかねない可能的事態からすると、死んだことによってそれを避けることができたとも言える。
いわばアルコールと睡眠薬の懲りない常用が次の当選を約束しない障害となって立ちはだかったとき、その懲りない常用に反して関係者が庇い立て、その能力を評価する賛辞を送ったとしてももはや効き目を失って、逆に賛辞を送る者にマイナス要因として働く危険から、見放さざるを得ない状況が生じかねない場面を想定した場合、やはり死がそれを防いだと言えないことはない。
言ってみれば、そうならないうちに死んだことによって、このような賛辞は受けることができたとも言える。
病死の可能性が伝えられているが、自殺ということでなければ、賛辞を損なうことはない。
言葉が数々の失態を取り返してつくり上げることになる名誉回復だが、今のうちなら、それが実像としてとどまる。 |