《首相らの「答弁資料」作成指示 内閣総務官室、すぐ撤回》(asahi.com/2009年10月27日15時1分)
指示したのは首相官邸の内閣総務官室。22日付のものだという。
「脱官僚だ」、「政治主導だ」だと散々言っていた政党の、「脱官僚」・「政治主導」を率先垂範し牽引すべきその司令塔のすぐ足許で「官僚依存」の背信が演じられた。
記事によると、指示文書は「国会答弁資料について、これまで同様、各省庁のご協力をお願いします」で始まり、〈「国会答弁資料についての留意点」として、「総理答弁にふさわしい格調高い表現にしてください」「質問の趣旨を踏まえた簡潔な内容に」「『~に資する』『適切に対応する』など役人にしかわからない表現は使わないで」「両論併記は認めない」など、書きぶりに至るまで具体的に注意喚起する内容になっている。 〉と事細かな要請内容となっているという。
これは以前問題になった教育タウンミーティングで予め決めた質問者に質問の内容を言葉遣いまで指示したヤラセと同じ仕掛けであろう。
結構毛だらけ、ネコ灰だらけの指示だが、“格調の高さ”は自身の知性・教養に恃むしかない自身で表現すべき資質のはずだが、それを官僚がつくり上げた文章に恃むのはいくらそれらしく見せることができたとしても、見せ掛けの“格調の高さ”で国民を欺くペテンとはならないだろうか。
記事は指示文書は自公政権時代に国会開会前に出されていた内容とほぼ同じだとする関係者の話を伝えている。いわば慣例となっている官僚作文・閣僚読み上げ国会答弁ということなのだろうが、そのことを記事はある省の担当者の話で補強している。
「目新しい内容ではない」――同じことの繰返しとしてあるいつもの「答弁資料」作成指示だとうことである。
官僚や閣僚はそれでいいかもしれないが、国民は閣僚の声として、あるいは主義主張として聞いてきたはずだから、これまで長い間騙されてきた国民からしたら、バカにされた思いがするはずである。
政治家の側から言うと、国民をバカにしてきた。
だが、国民を欺くことだなどとはつゆ程も考えていない首相官邸高官の政権交代後も各省による答弁資料づくりを事実上認める内容の談話を記事は紹介している。27日に記者団に語ったという。
「答弁は官僚が書けばいい。官僚から上がってきたものに(政治家が)手を入れればいい」
では、「脱官僚」・「政治主導」は一体何だったのか。記事も触れているが、民主党の小沢一郎幹事長が官僚の国会答弁を禁じる国会法改正を目指している動きに刃向かう“官僚依存”となる。
但し首相官邸内閣総務官室指示によるこの国会答弁の“官僚依存”を平野官房長官は27日の記者会見で関知していないことだったと語ったという。
「(指示文書が)出されたことを初めて知った。私から指示したわけでは全くないし、首相からも指示していない。私どもが求めている政治主導からみれば、逆行していると認識している。(指示文書の)撤回を含めて考える」(同asahi.com)
鳩山首相も「指示していない」と否定している。
このことが事実とすると、首相官邸という組織全体に亘って「脱官僚」・「政治主導」で意志の統率を図ることがができていないことを示す。統率を行き届かせることができていなかった鳩山首相や平野官房長官の責任は重大なものがある。
なぜなら、指示を受け取った各省は、「なーんだ口程にもない、脱官僚だ、政治主導だと散々言っておきならが、結局は官僚依存か」と見くびったことだろうからである。例え指示を撤回したとしても、「脱官僚」・「政治主導」の看板の手前撤回したに過ぎない話だと高を括るだけのことで、見くびる気持は残したに違いない。
官僚が見くびったと言うことは当たり前の起承転結だが、政治家側が見くびられたということである。新聞記事は既に触れたように指示文書は自公政権時代に国会開会前に出されていた内容とほぼ同じだと関係者の話を伝えているが、森自民党政権から9年続いた自公連立政権以前から続いていた霞ヶ関の文化・伝統・歴史と化していた官僚作文・閣僚読み上げ答弁だったろうから、このことと併行して官僚の政治家側に対する見くびりにしても長年続いていた文化・伝統・歴史と化していて、自らの体質にまで高めていたはずである。
大臣でございます、首相でございますと偉そうに構えていても国会答弁一つ自分では満足にできないではないか。何様だと格好をつけていられるのは誰のお陰だ、官僚様のお陰ではないか。
このような見くびりの経緯は官僚の存在なくして内閣を構成する各政治家は成り立たないという論理を学習させていたはずである。
だが、官僚の存在なくして内閣を構成する政治家は成り立たないというこういった関係構造に反して官僚を散々こき使うだけで自分たちだけ楽をして、閣僚様だ、総理大臣様だといい思いをしている。
当然、代償として政治家側のいい思いに代る官僚側のいい思いを求めたとしても、人情の自然としてある感情の発露であろう。
それが随意契約で与えた利益の業者からのキックバックであったり、接待であったり、盆暮れの高額な贈答品であったり、その最大の収穫が天下り・渡り等の“いい思い”となって現れたとしても不思議はない。
厚生労働省国民健康保険課の職員30人が冊子などを外郭団体等に発注、その「監修料」として99年から03年までの4年間に1億8千万円の報酬を受け取って職員に配り、飲食費に使ったり現金で配ったりしていた“いい思い”は幹部キャリアが天下りや渡りをして高額の報酬を得る特大のいい思いに対抗する自分たちのいい思いであったろうし、かつての社会保険庁職員の保険料を財源として各種マッサージ器を購入して仕事中にマッサージをしたり、パソコンの1日に叩くキーの回数などを上層部と取り決めて仕事を楽にしていたのは天下ってきた長官が実務を知らなくても幹部に任せて自分は単にお飾りで居座っているに過ぎないのに高額報酬を手にするいい思いに対抗する自分たちの「バカらしくてまじめに仕事などやっていられるか」から発したいい思いであったろう。
そしてそのような仕事の怠慢の先に年金記録の改竄や年金横領があった。
上のいい思いが下のいい思いを誘い出す。上のいい思いが下に対する人事管理の手を縛ってしまうために下がそれを見透かして上のいい思いに対抗する下のいい思いを恣(ほしいまま)とする。
いわば上の恣のいい思いと下の恣のいい思いは相互対応関係として生じる。
官僚の国家予算を随意契約で何らかのキックバックを受ける、あるいはもっと直接的に備品等をカラ発注してその代金を裏ガネとしてプールさせて飲み食いの不正流用にまわす、あるいは補助金を大盤振舞いして後の天下りに備えるといったムダ遣いにしても、政治家の政治は官僚任せで自分たちは何様ヅラし、何様と振舞ういい思いに相互対応した官僚たちのいい思いであろう。
日本の政治家が自らの骨とすべき責任観念を持たないから、政治家に準ずる責任観念のない日本の官僚を出現させ、ムダ遣いに走って自分たちの利益とする。
民主党党政権が「脱官僚」、「政治主導」を掲げながら、かつての自民党政治家の二の舞を演じて官僚依存に擦り寄るかどうかの性根の見せ所であろう。
各省に出した国会答弁作成指示書が知れたのは「共同通信が入手した内部文書で分かった」と「47NEWS」が伝えているが、「脱官僚」を掲げ、官僚側からしたら天下り・渡りを敵視している民主党に対して一矢報いる意図で放った一種の内部告発、あるいは情報漏洩といったところではないだろうか。
少なくとも今回民主党に投票した国民の少なくない有権者が「脱官僚」・「政治主導」に疑いの目を向けたはずで、官僚たちが望んでいるに違いない民主党の失点につながったことは確かである。
自民党の政治手法を長年「官僚依存だ」と批判、自分たち民主党は「脱官僚だ」、「政治主導」だと散々言ってきて多くの国民に期待を抱かせ、「脱官僚」・「政治主導」を厳密に実行していくのかと思いきや首相官邸は臨時国会の「答弁資料」を各省庁の事務方に指示していたという。