安倍晋三も下村博文も「戦争には反対」なら、戦前の日本の戦争を侵略戦争と認め、国家と戦争肯定の靖国参拝をやめよ

2018-11-20 11:02:01 | 政治

 自身の後援会が無届けの政治団体のまま政治活動をしていた疑惑や不正な寄付疑惑が報じられたり、加計学園の獣医学部認可問題でも安倍晋三の政治関与に一枚噛んでいた疑惑が持たれている自由民主党憲法改正推進本部長下村博文の憲法改正に関わる熊本県合志市での講演発言を2018年11月18日付「NHK政治マガジン」(2018年11月18日)が紹介していた。

 下村博文「憲法9条に自衛隊を付け加えることは、話し合いの中で一部修正は入るだろうが、丁寧に議論していけば、ほかの党も含め、賛成が得られる可能性は十分ある。

 安倍政権は、いかにも戦争をしそうなイメージで捉えられているところがあるかもしれないが、我々も戦争には反対だ。戦争をさせないための抑止として、自衛隊をきちんと憲法に明記することを訴えていきたい」(文飾当方)

 講演後、記者団に対して。

 下村博文「何らかの形で憲法に自衛隊を明記すべきだと考えている他党の人もいる。先ずは(今国会で憲法審査会を開き)自民党の案を説明する機会を作ってもらいたい」

 「戦争には反対だ」と言うなら、戦前の日本の戦争を侵略戦争と認めなければならない。戦前の日本国家とその戦争肯定の儀式である靖国神社参拝をやめ、戦後の日本国憲法の平和主義を貫徹しなければならない。

 こういった歴史認識から距離を置いている者がいくら「戦争には反対だ」と口にしようが、果たして信用できるだろうか。

 ブログに何度も書いているが、靖国神社参拝での「国のために戦い、尊い命を犠牲にされた御英霊に対して哀悼の誠を捧げる」云々の英霊に対する称揚と哀悼は戦前日本国家と国民の関係性を理想としているからこそ発露される精神性であって、当然、参拝は靖国神社を舞台として戦争犠牲者に対する鎮魂の姿を借りた戦前日本国家を理想の国家像とする称揚の儀式でもあり、このような儀式を政治の次元で重要としているのは理想とする戦前の日本国家像を戦後日本国家に連続させたい、あるいは置き換えたいと欲しているからに他ならない。

 こういった精神性によって戦前回帰主義が戦後の日本社会に跋扈することになる。

 戦前日本国家を理想の国家像とする精神性なくして英霊に対して「国のために戦った」とする称揚の精神性は発揮されることはない。そして「国のために戦った」と称揚する精神性こそが、その戦争を肯定し、正当化している証拠そのものとなる。もし戦前の日本の戦争を侵略戦争だと歴史認識していた場合、「国のために戦った」と称揚することは「国のために侵略戦争を戦った」との意味を持たせた称揚となって、自らの歴史認識と自らの精神性を破綻させることになる。

 「下村博文記者会見」(文科省/2014年8月15日)

 記者「靖国参拝についてなのですが、終戦記念日の今日、安倍総理大臣が参拝せず私費で玉串料を納めました。また、これまでに2閣僚、新藤大臣と古屋国家公安委員長が参拝されましたが、こうした閣僚の参拝についてどのように」

 下村博文「実は私自身、毎年8月15日、今年で4回目ぐらいだと思いますけれども、『下村博文と靖国神社を正式参拝する会』がありまして、今日も40人ぐらいの方が参拝されますが、私自身は参拝は今日はいたしません。

 それは、いろいろな信条の問題はありますが、私としては、特に教育・文化・スポーツ・科学技術を扱う立場から、この分野においては政治的な、近隣諸国と直接的な対立というのがあると思っていませんから、9月には、例えば日中韓文化大臣会合を横浜でやるということでもありますし、周辺諸国や国際情勢をトータル的に配慮した中で、私自身は今日、靖国には参拝しないということを決めております」――

 下村博文は日本会議を支える国会議員懇談会のメンバーで、安倍晋三は懇談会の特別顧問を務めている。日本会議は戦前の日本の戦争を「自存自衛と大東亜の解放を掲げて戦われた」としていて、そのことを公式の歴史認識としている。

 要するに下村博文は、安倍晋三も同じだが、戦前日本国家を理想の国家像とし、その戦争が侵略戦争であったことを否定、逆に肯定・正当化する歴史認識の持ち主に他ならない。

 戦前の日本の戦争は侵略戦争ではなかったとする歴史認識の持ち主が「戦争には反対だ」といくら口を酸っぱくして言おうと、果たして信用できるだろうか。

 2013年4月23日の参院予算委。

 安倍晋三「特に侵略という定義については、これは学界的にも国際的にも定まっていないと言ってもいいんだろうと思うわけでございますし、それは国と国との関係において、どちら側から見るかということにおいて違うわけでございます」

 侵略の定義が定まっていないことを理由に戦前の戦争が侵略戦争であったか否かの自らの歴史認識を曖昧にする。曖昧にすること自体が侵略戦争否定そのものの歴史認識を表している。

 2013年5月8日の参院予算では侵略の定義について次のように答弁している。現在立憲民主党の衆議院である大河原まさこが「この間の侵略の定義はないんだというご答弁は私は撤回していただきたい」と求めた。

 安倍晋三「絶対的な定義は、あのとき申し上げたのは、学問的には決まっていないということを申し上げたわけでございます」

 「絶対的な定義は学問的には決まっていない」くても、そうであればこそ、歴史的事象や歴史的事件に対して人は持てる自らの知識や経験をフル活用して、それぞれに自身の解釈を施して自らの歴史認識とする。

 つまり安倍晋三自身が戦前の日本の戦争を侵略戦争と解釈するのか、否定して日本会議の公式見解同様に自存自衛と大東亜解放の戦争だったと肯定的な解釈を施すのか、いずれの歴史認識に立つのかが問題となっていることに対して「学問的には決まっていない」ことを持ち出して自らの解釈・自らの歴史認識を明らかにすまいとしているに過ぎない。理由は正々堂々とは公にはできない前者の歴史認識に立っているからに他ならない。

 このような安倍晋三が「戦争には反対だ」と言ったとしても、誰が信用できるだろうか。

 「安倍晋三内外情勢調査会講演」(首相官邸サイト/2014年9月19日)
 
 安倍晋三「これから安倍内閣が取り組む、新しい安全保障法制の整備もまた、我が国の更なる平和と繁栄の基盤となるものであると確信しています。

 いかなる事態であっても、国民の命と平和な暮らしを守り抜く。内閣総理大臣である私には、その大きな責任があります。

 7月に閣議決定を行いました。いわゆる「グレーゾーン」に関わるものから、集団的自衛権に関わるものまで、切れ目のない安全保障法制の整備に向けて、準備を進めてまいります。

 自衛の措置をとる場合も、それは、他に手段がないときに限られ、かつ、必要最小限度でなければならない。憲法解釈の基本的考え方は、何ら変わりません。自衛隊が、かつての湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことも、決してありません。

 このように明確に申し上げてもなお、『日本を戦争する国にしようとしている』といった、いわれなき批判があります。『戦争に巻きこまれる』、果ては『徴兵制につながる』といった、まったく根拠のない、不安を煽るだけの批判は、60年安保改定の時もたくさんありました」(文飾は当方)

 戦前の戦争が侵略戦争であったことを否定し、自存自衛と大東亜解放の戦争だったと肯定・正当化している安倍晋三が「日本を戦争する国にしようとしている」「戦争に巻きこまれる」「徴兵制につながる」等々の云々は新安保法制に対する「まったく根拠のない、不安を煽るだけの批判」に過ぎないと言おうと、信用のカケラも置くことはできない。

 毎年終戦記念日の8月15日が近づくと、安倍晋三は談話を発表して、「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない」とのたまうが、日本の戦争が侵略戦争だったことを否定して正しい戦争だったとする精神性の持ち主である安倍晋三の言うことを誰が信用できるというのだろうか。

 信用されたいなら、戦前の日本の戦争を侵略戦争と認め、その国家と戦争肯定の靖国神社参拝を中止しなければならない。このように改めた歴史の解釈・歴史認識こそが戦前の戦争に対する心からの深い反省を証明することになり、初めて「戦争には反対だ」という言葉にしても、「いかなる事態であっても、国民の命と平和な暮らしを守り抜く」という言葉にしても、信用に値することになる。

 「侵略の絶対的な定義は学問的には決まっていない」などと歴史に対する自らの解釈、自らの歴史認識を隠すような首相は何を言っても信用出来ない。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 安倍晋三の日ソ共同宣言ベー... | トップ | 安倍晋三・山下貴司の技能実... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

政治」カテゴリの最新記事