天皇が84歳を迎えた2017年12月23日、皇居・宮殿の東庭に集まった参賀者に次の言葉を発したと「朝日デジタル」(2017年12月23日18時04分)記事が伝えている。
「晴れ渡った空のもと、誕生日に当たり、みなさんの祝意に深く感謝いたします。この1年もさまざまな出来事がありました。寒さにむかう今日(こんにち)、台風や豪雨により被害を受けた地域の人々、また、東日本大震災など過去の災害により、いまだ不自由な生活を送っている人々のことを、深く案じています。今年もあとわずかとなりました。来たる年が国民みなにとり、少しでも穏やかな年となるよう願っています」 |
天皇がその存在が象徴であるように天皇が案じる願いも実質の伴わない象徴としての願いに過ぎない。
政治こそが国民の暮らしの安心を生み出す意思決定機関であって、天皇は政治のようには国民の暮らしの安心を生む実質的作用は持たない。
にも関わらず、天皇が国民の暮らしを案じなければならないのは政治が満足に安心を与えることができていないからだろう。いわば天皇の言葉は政治が国民の暮らしの安心を生む実質的作用を機能し得ていないことの裏返しということになる。
尤も天皇がそこまで気づいて国民の暮らしを案じたのかどうかは本人のみぞ知るである。単に象徴の身として言葉でしか発することができない国民の身を案じる心痛をせめての思いで口にしただけなのかもしれない。
いずれにしても、政治が国民の暮らしの安心を満足に生み出していないからこそ、天皇は国民の暮らしを案じることができる。生み出していたら、天皇自身が案じる余地を持ち得ないし、案じるどのような言葉も口にする余地はない。
皇居にまでわざわざ出かけて天皇の言葉を聞きに集まる参賀者は生活に余裕があって暮らしを案じることから程遠いために天皇の言葉を聞いて天皇の役目と政治の役目に思い至ることは先ずないのだろう。
生活に余裕のない者は自分の身だけを案じなければならないから、参賀に出かける余裕もないはずだ。但し天皇の国民の暮らしを案じる言葉が国民の暮らしの安心を生み出す実質的作用を持ち得ていたなら、生活に余裕のない者こそが参賀に集まるはずだ。天皇の言葉を聞いて、有り難や、有り難やとその場で踊り出すかもしれない。
生活に余裕のない者は天皇の言葉が生活に何の役にも立たないことを少なくとも肌で知っているはずだ。あるいはハッキリと意識している者もいるに違いない。
目下のところ高度成長期の「いざなぎ景気」を超す息の長い景気回復が続いているとは言え、政治が国民の暮らしの安心を満足に生み出していないために自然災害に見舞われたうちの少なくない被災者のみならず、多くの国民が暮らしの安心を得ることができずにいる。
当然、政治家は、その中でも特に一国の政治を統率する首相たる者は天皇が国民の暮らしを案じる言葉を発したとき、国民の暮らしの実質的な安心を生み出さなければならない意思決定機関としての政治の至らなさに思いを馳せなければならない。
日テレ放送「たかじんのそこまで言って委員会」(2012年5月20日放送) 安倍晋三「そもそも田島(陽子)さんもですね、編集長(加藤清隆時事通信社解説委員長のこと)も、いわば天皇という仕組み、天皇、皇室、当然、認めていないんだと思いますね」 田嶋陽子「そう」 安倍晋三「経緯もね。そうでしょ?そういう人がですね、どうあるべきかっていう議論をするのはあまり・・・・」 田嶋陽子「そんなことはない」 安倍晋三「(手を振って)いや、いや、いや。最後まで聞いてください。これは理性万能でもないし、合理でもないんですよ。・・・・(聞き取れない)でもないんですよ。 これは私達は軽薄だと思ってるんですよ、そういう考えっていうのは。 ですから、むしろ皇室の存在は日本の伝統と文化、そのものなんですよ。まあ、これは壮大な、ま、つづれ織、タペストリーだとするとですね、真ん中の糸は皇室だと思うんですね。 この糸が抜かれてしまったら、日本という国はバラバラになるのであって、天皇・皇后が何回も被災地に足を運ばれ、瓦礫の山に向かって腰を折られて、深く頭を下げられた。あの姿をみて、多くの被災地の方々は癒された思いだと語っておられたでしょ。あれを総理大臣とかね、私たちがやったって、それは真似はできないんですよ。2000年以上に亘って、ひたすら国民の幸せと安寧を祈ってきた、皇室の圧倒的な伝統の力なんですよ」 文飾当方。 |
天皇家は「2000年以上経って、ひたすら国民の幸せと安寧を祈ってきた」
例えそれが戦前であろうと戦後であろうと、“祈り”は祈りでしかない。その“祈り”は「国民の幸せと安寧」を実質的に生み出す力とはなり得ない。実質的に生み出し得る力となり得るのは政治であって、そのことへの思いもなく、「私たちがやったって、それは真似はできないんですよ」と天皇の“祈り”とのみ受け止め、その“祈り”を自らの政治で具体的且つ実質的な形で実現する意欲を言葉に表すことすらしない。
勿論、安倍晋三とて国民生活の向上に向けた「幸せと安寧」実現の政策を様々に打っている。だが、天皇の祈りや言葉を最大限価値づけるのみで、その祈りや言葉に政治の役目こそ重要であること、大切であることを一言も付け加えないのは国民の暮らしの安心に向けた感度が余りにも低い。
感度が低いということは安倍晋三が心の底から国民の生活に向き合っていないことを証明する。向き合っていたなら、天皇の祈りや言葉を有り難ってばかりはいられないだろう。
有り難がっているところを見ると、余りにも格差が拡大し過ぎたことと支持率が下がることから向き合わざるを得なくなったといった程度の真剣さなのだろう。