日本人の行動様式権威主義の上が下に強いていて、下が上に当然の使用とする丁寧語が日本人の労働生産性を低くしている(1)

2022-04-30 07:10:46 | 政治
 《労働生産性の国際比較2021》(公益財団法人日本生産性本部)

 [要約]

 1. 日本の時間当たり労働生産性は、49.5ドル。OECD加盟38カ国中23位。

・OECDデータに基づく2020年の日本の時間当たり労働生産性(就業1時間当たり付加価値)は、49.5ドル(5,086円/購買力平価(PPP)換算)。米国(80.5ドル/8,282円)の6割の水準に相当し、OECD加盟38カ国中23位だった(2019年は21位)。経済が落ち込んだものの、労働時間の短縮が労働生産性を押し上げたことから、 前年より実質ベースで1.1%上昇した。

ただし、 順位でみるとデータが取得可能な1970年以降、 最も低い順位になっている。

2. 日本の1人当たり労働生産性は、 78,655 ドル。 OECD加盟38カ国中28位。

2020年の日本の1人当たり労働生産性(就業者1人当たり付加価値)は、78,655ドル(809万円)。ポーランド(79,418ドル/817万円)やエストニア(76,882ドル/791万円)といった東欧諸国と同水準となっており、 西欧諸国と比較すると、 労働生産性水準が比較的低い英国(94,763ドル/974万円)やスペイン(94,552ドル/972万円)にも水を開けられている。前年から実質ベースで3.9%落ち込んだこともあり、OECD加盟38カ国でみると28位(2019年は26位)と、 1970年以降最も低い順位になっている。

3. 日本の製造業の労働生産性は、 95,852 ドル。 OECDに加盟する主要31カ国中18位。

2019年の日本の製造業の労働生産性水準(就業者1人当たり付加価値)は、95,852ドル(1,054万円/為替レート換算)。これは米国の65%に相当し、ドイツ(99,007ドル)をやや下回る水準であり、OECDに加盟する主要31カ国の中でみると18位となっている。

 報告書題名は「労働生産性の国際比較2021」となっているが、「2021」は発表年で、内容は2020年の統計である。日本の時間当たり労働生産性も、1人当たり労働生産性も、下から数えた方が早いという名誉を担っている。但し2019年の日本の製造業労働生産性水準(就業者1人当たり付加価値)は、OECD加盟主要31カ国中18位と少しマシな位置。

 なぜマシなのか、10年以上も前にブログで取り上げたことがある。的確な解釈となっているかどうかは分からないが、自分の考えが変わっているわけではないから、製造業の労働生産性に関する個所をここに取り上げてみる。

 労働生産性から見る公務員削減(2006年4月9日)<

 小泉首相は国家公務員の総人件費削減に関して、「平均して5%の定員純減を5年間でという目標を掲げている」が、「各省一律に公務員を減らせと言うことではなく、国民の安全に関する部門以外で定員純減に取組む」方針を示した。

 「国民の安全に関する部門」とは、「警察官、入国管理局の公務員は増やしている。必要な点は増やす」ということらしい。

 定員純減に関して各省との交渉役の中馬行革担当相は、「能力主義の人事・給与制度導入の公務員制度改革でなくては定員純減は難しい」と言う考えを示している。
 
 「能力主義」をムチに尻を叩くことで一人一人の能率を上げ、全体の仕事量の底上げを図って少数精鋭の形を取り、そこから余剰人員を弾き出して定員削減を可能とすると同時に、そうしない場合の弊害を取り除こういうことなのだろうが、小泉改革のこれまでを見ると、どうせ中途半端に終わる運命にあるのではないか。少数精鋭が可能なら、既にそういう態勢を取っただろうからである。小泉首相本人はこれまた今までのように、実を結ばないうちから成果を誇るだろうが、一旦は削減したものの、この人数では満足に仕事が消化できないからと、後からこっそりと採用して元の状態に戻るといった後退はよくあることである。

 「能力主義」と小泉首相の「警察官、入国管理局の公務員は増やしている」は矛盾していないだろうか。警察や入国管理局にも中馬某の言う「能力主義」を導入して仕事量の底上げを図り、少数精鋭態勢を取ったなら、「増や」す必要はなくなる。そうせずに増やすのは、小泉首相がひそかに日本を警察国家にしようと企んでいるからだろうか。安倍晋三が教育基本法に愛国心の涵養を盛り込もうと企んでいることと考え併せると、どうもそういうふうに勘繰りたくなる。

 入国管理局の職員の収容外国人に対する暴力・暴行もそうだが、日本の警察は特に悪名高い。捜査協力費の流用・不正経理・警察官でありながらのワイセツ・強姦・盗み・万引き、そして怠慢捜査・調書改竄・事件揉消し・裏ガネ・移送中囚人逃亡等々。

 当り前のような状態で新聞・テレビを賑わすこういった姿は真面目で勤勉で仕事を能率よくこなす日本人を想像させるだろうか。すべてではないと言うだろうが、決して一人や二人ではない跡を絶たない状況が構造的な欠陥であり、日本の警察の体質となっていることを証明している。

 少なくとも管理の不行き届きが招いている醜態以外の何ものでもないはずである。醜態が常態化している状況は、管理側(いわば上層部側)の管理能力がいつまでも未熟で隙だらけ、下の無規律についていけない状況にあることを示している。言い換えれば、上が上なら、下も下と言うことであろう。組織の全体的な構造不全そのもので、その結果として警察の場合は検挙率の低さという機能不全に象徴的に現れている非能率なのではないだろうか。

 構造不全に陥っている組織に人員をいくら注ぎ込もうが、税金のムダ遣いと頭数を増やすだけで終わるのは目に見えている。「能力主義」を言うなら、警察官の職務怠慢、公金での飲み食い、犯罪、私腹肥やし等の体質を一掃して、逆に仕事が能率よくできる体質への転換を図る意識改革を強力に推し進めて、検挙率の高さに反映できるよう持って行く。体質のそういった改革によって、逆に人員削減につなげていくことこそ本質を把えた公務員改革と言えるのではないだろうか。

 小泉首相がその逆を行くのは、この男の力量と言ってしまえばそれまでだが、「公務員制度改革」に反する措置のように思える。

 「能力主義の人事・給与制度導入」がここにきて言われるのは、業務が能率的に発揮できていない状況が公務員の全体的問題として存在していることの裏返しで、その是正に向けた施策であろう。公務員業務が全体的に非能率であるということは、広く言えば当然のこととして、日本の労働生産性にも関わっているはずである。そこまで視点を広げて対策を講じないと、絵に描いた餅の運命をたどらないとも限らない。

 どれ程の余剰人員を弾き出せるか。元々日本のホワイトカラーの労働生産性は現場労働者と比較して低いと言われている。いわば、能率の点で劣っている。日本人は勤勉で真面目だという評価が労働生産性に成果となって現れていない。これは表面的にただ単に「勤勉で真面目」であるというだけのことで、評価自体が幻想に過ぎないということだろうか。

 警察官や社保庁、防衛施設庁、かつては大蔵省や外務省といった官公庁や特殊法人の不正行為を見たら、「勤勉で真面目」と言う評価は見せかけでしかなく、幻想に軍配を上げなければならなくなる。

 「勤勉で真面目」が事実であったとしても、労働生産性で見た能率の悪さはこれまた事実としてある数字であって、それが日本人の本質的な力量だとすると、「能力主義の人事・給与制度導入」を行ったからといって、本質を改善する力となりうるかということが問題となってくる。

 社会経済生産性本部が発表した2005年版「労働生産性の国際比較」によると、「購買力平価で換算した2003年の日本の労働生産性は5万6608ドルで、OECD加盟30カ国中第19位であった。先進主要7カ国の比較では、日本の労働生産性水準は最下位で、米国の7割の水準にとどまっている。日本の労働生産性の水準は国際的に見て決して高いとはいえない」とある。

 しかし「日本の2003年の製造業の労働生産性水準は24カ国中第4位であった」。「なお主要先進7カ国中で見ると、米国に次ぐ第2位であった」

 製造業の労働生産性水準が「24カ国中第4位」、「先進7カ国中で見ると、米国に次ぐ第2位」であるにも関わらず、全体に均すと、「OECD加盟30カ国中第19位」、「先進主要7カ国」中「最下位」というのは、サービス業やホワイトカラーの生産性がより低いことを物語っている。勿論、その生産性の低さに警察に限ったことではない官公庁、地方自治体の公務員のコスト意識の欠如、職務怠慢、非能率、放漫経営が大きく寄与し、足を引っ張っているのは間違いない。

 確かに農業部門の生産性が特に低いことが全体の生産性を低くしている側面もあるだろうが、日本は技術が優れているという評価を裏切って、知恵の出し具合が不足しているということもあるだろう。

 いずれにしても、部門に応じた不均衡は何が原因でもたらされているのだろうか。

 日本人の労働生産性とは詰まるところ、日本人の一般的行動性が労働の場に於いてどう対応するか、その姿勢がつくり出す仕事の能率のことであろう。ホワイトカラーであろうとブルーカラーであろうと、一般的行動性は本質的には同じである。となれば、部門ごとの労働環境での一般的行動性の対応とそれぞれの違いを見ることで、労働生産性のありようを解き明かせないことはない。

 解く明かす一つの鍵が、「2001~2002年の労働生産性上昇率のトップは金融保険の7・3%」であるとする同じ社会経済生産性本部の報告ではないだろうか。同じ報告で「全産業、製造業とも、1・0%の改善率であった」というから、製造業以外の一般的に低いとされている労働生産性に対して、「金融保険」の突出した「上昇率」「7・3%」は特別の理由付けなくして説明できない事柄であるはずである。
 
 日本人は一般的に主体的・自律的に行動するのではなく、権威主義を行動様式としている。権威主義とは言うまでもなく上は下を従わせ、下は上に従う行動傾向を言う。従わせ・従う行動を成立させる条件は命令・指示のシグナルによってである。命令・指示を発して従わせ、命令・指示に応じて従う。そのような従属が極端化した場合、命令・指示の範囲内で行動することとなる。例えばマニュアルに書いてある規則どおりにしか行動できない人間がそれに当てはまる。児童相談所等が子どもの虐待を事前に把握していながら虐待死に至らしめてしまうのは、規則(=マニュアル)に従うことでしか対応できない人間ばかりだからではないかと疑いたくなる。
 
 上は下を従わせ、下は上に従う行動は命令・指示が有効であることによって、より活動的とし得る。当然能率は上がる。

 「金融保険」業務に於ける就業者の業務行動は何によって条件付けられているか考えると、景気・不景気の動向とか、不良債権処理の進行といったことに左右されるものの、一般的にノルマが数値で示され、成果に対する相対評価にしても絶対評価にしても、これ以上明確なものはない数値で表され、誰もがそのノルマ達成に向けて邁進しなければならないシステムとなっている。特に組織間の競争が激しくなれば、ノルマもより厳しく設定される。

 ノルマとは言うまでもなく達成を目標に割り当てられた仕事量のことであって、ノルマに従って行動するよう仕向けられる。達成を目標に割り当てられること自体が既に命令・指示の形を取っていて、ノルマそのものが命令・指示の役目を本来的に体現していることを示している。

 いわば命令・指示が常にスイッチオンの状態になっていて、それが心理的な監視の役目を果たし、一方でノルマの達成度を見ることで、仕事量が一目瞭然と分かる仕組となっている。

 このような状況は日本人の一般的な行動性に於ける命令・指示に従って行動する構図と符合する上に、ノルマが命令・指示を監視する役目を果たしていることと、ノルマとして表されている命令・指示への忠実な従属が各自の業績に関係してきて、それに刃向かうことができない強迫行為(=従属一辺倒)が可能とした「7・3%」ではないだろうか。

 もしこの分析が妥当であるとしたら、製造業に於ける労働生産性の国際比較値の高さも、命令・指示の有効性をキーワードに説明できなければならない。

 製造現場では1日の生産量がノルマとして決められていて、なおかつ流れ作業に常に追いついていかなければならない命令・指示に当る強制が常に働いている。その上製造現場では上司の監視の目が行き届いていて、無言・有言の命令・指示の役目を果たしている。そういった二重三重の命令・指示の強制力学が日本人の一般的な行動性となっている下の上に従う従属性を否応もなしに活性化させて、そのことが製造業の労働生産性水準を「24カ国中第4位」、「先進7カ国中で見ると、米国に次ぐ第2位」という地位を与えているとする分析でなければならない。

 そういった強制力学の影響が少ない場所が公務員や一般企業サラリーマンのホワイトカラーの労働現場であろう。労働を促す命令・指示への従属を監視する制度の希薄さが、比較対照的に労働生産性の低さとなって現れているということである。
 
 以上のことの傍証となる日本人の一般的な行動を例示することができる。川の草刈といった地域活動は、地域が年に1度とかの決めた日に決められた人数で行うことが一般的となっているが、地域の役員と駆り出された人間との間に本人の生活に関係してくる雇用上の給与評価といった直接的な利害関係が存在しないから、遅刻や中途退出は当たり前の現象となっているし、集団が大きいほど、誰がどれ程の仕事をしたか判断しにくいために適当に仕事をする人間が現れる。少し手を動かしては、すぐに手を休めて、他人の仕事を眺めてばかりの人間もいる。どれもが自己の生活と様々な利害関係で結ばれている雇用先では許されない手抜きであろう。当然、草刈といった集団で行う地域活動の労働生産性は決して高いはずはない。

 そういった手抜き=労働生産性の低さを許しているのは、地域の役員の駆り出した人間に対する命令・指示が双方の生活上の利害が直接的に関係していないことも手伝って、彼らを従属させるまでの力を有していないことが原因しているのは言うまでもない。

 また、年に1度の草刈では、その間雑草が伸び放題となるために、誰かが本人の意志のみで一人で草刈でも始めようものなら、「決められてもいないことをやるべきじゃない。一人がやれば、みんなもやらなければならなくなる」と、それが新たな決まり事となって駆り出されることを嫌い、地域の決まりごとへの従属を最小限にとどめようとすべく拒絶反応を示す人間もいる。
 
 いわば決められたことはやるが、決められていないことはやらないという命令・指示の範囲内で従属することを行動に於ける習性とした、他との関係で自己の行動を決定する他律性としてある権威主義的行動様式そのものの現れは元々日本人の一般的傾向としてある姿だが、命令・指示が自己の利害に影響しない場合は、従属を最小限にとどめたり無視したりすることも、他律性(=権威主義的行動様式)に則った行動であろう。

 ホワイトカラーの労働生産性が地域活動の草刈といった労働生産性よりも低いものであるとしたなら、組織管理が無規律・無計画・無成熟であることを証明するだけのこととなるから、ホワイトカラーの一般的な労働生産性にも劣る地域活動の消極的・非能率な態様と見なさなければならない。日本人が事実勤勉であるとするなら、組織活動に於いても地域活動に於いても同等の勤勉さが発揮され、同等の労働生産性を上げるべきであるが、そのことを裏切るあってはならない両者の落差は命令・指示の監視の有無、及び従属に向けたその効力の度合いを条件として初めて説明し得る。

 このことは製造業とホワイトカラーの労働生産性の格差にも応用しうる説明であろう。

 最初の方に、〈警察に限ったことではない官公庁、地方自治体の公務員のコスト意識の欠如〉云々と書いたことの意味は当時の首相小泉純一郎が国家公務員総人件費削減のために5年間平均5%定員純減の目標を掲げる一方で国民の安全に関する部門の警察官や入国管理局公務員は増員するとしたことに関係させている。公務員定員純減の代替療法は「能力主義」の導入としている以上、警察官や入国管理局公務員にも「能力主義」を適用すれば、その増員は矛盾することなるし、「能力主義」がここにきて言われるのは、業務が能率的に発揮できていない状況が公務員の全体的問題として存在していることの裏返しだということを書いたことからの全体的な「コスト意識の欠如」と指摘した。そして、〈公務員業務が全体的に非能率であるということは、広く言えば当然のこととして、日本の労働生産性にも関わっているはずである。〉と関連付けた。

 要するに日本人が行動様式としている上が下に命令・指示して従わせ、下が上の命令・指示に従って行動する権威主義は他律性を基本原理としていて、このことに反して例え命令・指示が常にスイッチオンの状態になっていなくても、相互に自分から考えて行動する自律性を行動様式としていたなら、能力主義だ何だと尻を叩かれることもなく、労働生産性は欧米先進国と比して継続的に見劣りすることはないはずであり、労働生産性の劣りの原因の一つに本質のところで日本人の行動様式となっている権威主義が関係していると見ないわけにはいかない。

 このことと関連することになる2007年1月11日エントリーの当ブログ記事を紹介する。2007年1月9日付の「朝日新聞」朝刊が、「字体を15日から一部変更します」という知らせを載せた。2000年の国語審議会が書籍等に残っている伝統的な康熙(こうき)字典体に基づいて「表外漢字体表」を答申。このことを踏まえて、900字を「表外漢字体表」内にある康熙事典体を使用するというもので、例として、「鴎→鷗」「涛→濤」を挙げている。

 この知らせに触れて、字画が細かくなることから弱視者や目の遠くなった高齢者に読みづらく、優しくないといったことを書き、難しい漢字が情報処理に少なからず影響することと、このことに関連付けて国会質疑や記者会見で丁寧語を用いることで長くなっている質疑応答のムダな部分を用いずに省き、逆に実質的な情報を増やして、情報処理能力の向上に資することになる、読み返してみると、少し説明足らずな部分もあるが、そういったことを書き連ねた。

 《復古的字体変更と情報処理の関係 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》(2007年1月11日)

 日本の政治家や官僚の情報処理能力の見劣りは国会審議での言葉の遣り取りを見れば一目瞭然で分かる。以前ブログ記事で引用したものであるが、06年11月22日の「教育基本法参議院特別委質疑」での蓮舫議員の質問とそれに答えた安倍首相の答弁を使って説明してみる。

 蓮舫「安倍総理にお伺いします。小泉前総理大臣の時代から私ども与野党で共通認識で持っていたのは、もうムダ遣いはやめようと、行政改革を進める上でムダを省いて、そしておカネを、税金を、戴いた保険料を、預かった保険料を大切に使っていこうという意識は共有させていると思うんですが、足元の内閣府で行われているタウンミーティングでさえも、殆どデタラメな値段付けが当たり前に使われていて、通常の恐らくタウンミーティングの額よりも膨らんでいると思うんですね。そういうおカネの使われ方はよしとされるんでしょうか」

 安倍総理「競争入札で行ってきたところでありますが、えー、先程来議論を窺っておりました。この明細を拝見させていただきました。やはりこれは節約できるところはもっともっとあるんだろうと、このように思うわけでございました。私共政治家も、よく地元で色んな会を開いて、色々と地元の方々とご意見の交換を行うわけでありますが、それは勿論パイプ椅子等をみんなで運びながらですね、最小限の経費で賄っていく中に於いて、意見交換も活発なものが当然できるわけでありますが、そういう精神でもう一つのタウンミーティングの先程申し上げましたように運営を行うよう、見直してまいります」

 安倍首相の発言を文字に起こすと、現在形を用いる箇所を「このように思うわけでございました」と過去形で用いたのは単なる間違いだろうから、無視するとして、政府主催のそれなりに大掛かりなタウンミーティングを地元の個人的な会合と比較したりするピント外れな客観的合理性、さらに蓮舫議員の「殆どデタラメな値段付け」の「おカネの使われ方はよしとされるんでしょうか」という質問の中にヤラセ問題が含まれていなくても、関連事項として踏まえた答弁をしなければならないのだが、「節約できる」とか、「最小限の経費で賄っていく中に於いて、意見交換も活発なものが当然できるわけでありますが」とか、「節約」も「活発」もヤラセがあったなら無意化することも考慮せず、「経費」との関係でのみ活発な議論の可能性を云々する判断能力のズレはそのまま情報処理能力の程度の問題に関係していく事柄であろう。

 さらに安倍首相だけではなく国家議員・官僚が国会答弁や記者会見で結び語によく使う言葉として、「このように(かように)思うわけでございます」とか、「かように考えるわけでございます」「と言うところでございます」、「致しておるところでございます」、「しておるわけでございます」といった「ございます」語は丁寧語と言ったら聞こえはいいが、「です・ます」で簡潔に結べるにも関わらず、そのことに反して余分に付け加えて言葉数を多くする発言は、簡潔・スピード・確実・理解をモットーとする情報処理能力に密接に関係しているはずである。1日で使う「ございます」語をすべて省いて、「です・ます」で済ませたなら、かなりの時間短縮が可能となり、その時間分、実質的な質疑応答に回すことができて、当然情報処理量をも増加させて情報処理の向上に役立つはずである。

 また、質疑応答に於ける相互的な情報伝達は政治のあるべき姿の議論を実質とすべきを、実質の議論から離れて結びをことさらに「ございます」語とするのは、伝えるべき情報の実質部分でたいしたことを言っていないからこその、そのことの逆説として、自分が言っていることを正しい・筋が通っていると思わせるダメ押しの役目を持たせた装飾補強材であろう。

 上に上げた安倍首相の答弁もまさにその通りだが、たいしたことを言っていないということも、要件の一つとしている“確実性”に反する情報伝達ということになって、情報処理に関係した能力と言える。日本語の敬語の多用も、耳に聞こえはよくても、言葉数が多くなることによって、逆に情報処理を遅くする逆説を呼び込んでいると言える。

 かくかように戦略性や危機管理能力と密接に結びつくことになる情報処理能力がただでさえ見劣りする状況にあるのに対して、例え900文字の康熙(こうき)事典体への変化が、そのことによって僅かであっても情報処理をより困難としたなら、現在以上の戦略性と危機管理能力の欠如・劣りにきっと寄与するに違いない。まさに「美しい国」日本である。

 以前のブログからの引用とは2006年11月22日記事《タウンミーティング/広告代理店の参考人招致を-『ニッポン情報解読』by手代木恕之》を指す。当ブログ記事の趣旨に関係しないが、蓮舫の追及が的確なものになっているかどうか、少し回り道をしてみる。

 蓮舫は「ヤラセ質問があった、岐阜でのタウンミーティングでの経費です。内閣府が広告代理店に指示をした最低コスト表です」と言って、「空港(又は駅)での閣僚送迎等」、「会場における送迎等」各任務と任務ごとの報酬金額を書き入れたフリップを提示する。対して政府参考人内閣府大臣官房長の山本某は「これはただ、これは業者の方で入れた額であるということをご理解いただきたいと思います」と答弁している。

 このグログを書いた当時、まだ理解が足りなかったことに遅まきながら気づいたが、この遣り取りからすると、「内閣府が広告代理店に指示をした最低コスト表」の金額を上回る金額を「単価内訳書」に「業者の方で入れた」ということになる。となると、広告代理店側の見積もりが正しかったかどうかという問題以前に内閣府が指示した最低コスト表の金額が妥当であったかどうかの問題に比重を置かなければならないことになる。

 ところが蓮舫が「その単価表適正だったんでしょうか」と質すと、山本某は「今申し上げましたように入札をするときに全体の各項目前後の項目につきまして、それぞれの業者が単価を入れまして、それで総トータルで一番安い所に落としているわけでございます」と答弁、各単価設定の権限と責任を広告代理店側に全て預けている。蓮舫はこの矛盾を追及しなければならなかった。最初に断ったようにこのブログを書くときは理解力不足でこの点に気づかなかったが、蓮舫はプロの政治家としての地位にある。相手の言葉の矛盾を捉える嗅覚を政治のプロなりに備えていなければならない。その嗅覚は言葉を張り上げることは得意だが、今以って鋭さを備えるところにまでいっていないように見える。

 回り道はこのぐらいにして、上記2007年1月11日のブログで意図している内容は「労働生産性」という言葉は使っていないが、丁寧語の廃止・普通語(=非丁寧語)の使用によって情報処理量を可能な限り凝縮することを通して情報処理の効率意識を高め、併行して情報の読み・解き・伝達の処理の速度を早めることに意を用いていけば、情報処理量能力が自ずと高まり、この能力アップは仕事の速度に影響して、労働生産性の向上にリンクしていくといったことである。

 生産性向上は新技術開発や仕事の進め方等の影響を多分に受ける。新技術開発は頻繁に日の目を見るものではない。そこで仕事の進め方を効率化の方向に様々に工夫することになるが、工夫から取り残されている一つが既に指摘済みのコミュニケーション(=意思疎通)に於ける言葉の使い方であろう。それが日本人の本質的な行動様式となっている権威主義が強いる下の地位の者が上の地位の者に対して慣習として使う必要に迫られている丁寧語の使用であり、丁寧語には勿論のこと敬語も含まれる。狭い知識からの物言いだが、日本人程丁寧語や敬語を使う国民はいないのではないだろうかと思っている。

 丁寧語や敬語を取り払って、普通語(=非丁寧語)で意思疎通を図ることができたら、行動開始までの時間短縮が可能となる。あるいは行動中の必要とされる意思疎通の時間短縮も可能となり、短縮された時間を行動に振り向けることも可能となる。前者の例で言うと、例えば下の者が上の者に対して何らかの作業開始の許可を得るのに、「取り掛かってもいいですか」とか、「取り掛かっても構いませんか」と丁寧語で尋ねる。これを目上や上司に対する敬意は気持ちだけにして普通語(=非丁寧語)で、「取り掛かります」と言うか、あるいは「取り掛かりますが」と許可を求める気持ちを込めて聞く。対して聞かれた方は「いいよ」とか、「もう少し待った方がいい」とか、イエスかノーの意味で答える。

 一見すると、丁寧語の廃止は意思疎通の言葉数のうち、数語の省略が期待できるのみで、仕事の進め具合に左程の変化がないように見えても、数語の省略が職場数に応じて増えることになり、会社全体で、しかも経営規模が大きい程、数語の倍率は無視できない言葉数となる。さらに1日8時間労働を掛ける、あるいは1カ月20日出勤を掛ける、さらには年間労働の240日を掛けていくと、従業員1人1人の1日の言葉の省略はたいした数ではなくても、全体の省略は相当量にのぼって、その分の時間を実質的な労働に回すことができる。その上、こうなることを認識して行動した場合、効率化意識が涵養される方向に向かうはずで、このことと平行して誰に対しても丁寧語や敬語を普段から使わずに日常的に普通語(=非丁寧語)を使うことが習慣化すれば、権威主義的行動様式が薄れていき、脱却するところにまで行き着くことによって自分の頭で考えて自分で行動していく自律性の獲得が自ずと可能となり、効率意識の強化と権威主義からの脱却=自律性の獲得の両方が合わさって、労働のスピードアップ、労働成果の向上、即ち労働生産性の向上に結びついていくという道筋を取ることは決して不可能ではない。

 政治は常に労働生産性の向上を掲げる。だが、日本の労働生産性に関する世界の統計は見てきたとおり芳しい順位を与えてくれない。日本の低い労働生産性の改善は日本人の行動様式である権威主義の力学が強制している地位の高低を、あるいは先輩・後輩に応じた上下関係、格式を丁寧語の廃止と普通語(=非丁寧語)の使用によって擬似的に対等な関係に持っていけば、情報処理の時間的な短縮化を図ることができる。

 情報処理そのものの本質的な部分は的確な判断能力に負うが、どのような仕事も何をどうすべきか、何をどうしたらいいかはその場、その場に応じた瞬時の情報処理で答を得て、それらの答のトータルが仕事の効率性と効率性の反映としての仕事量となって現れる。つまるところ、仕事というものを成り立たせている基本的な条件はその場のひと手間ひと手間に応じた情報処理であり、その連続が仕事全体を支えることになる。情報処理の時間的な短縮化と的確な判断能力に基づいた情報処理自体が最終的には労働生産性の向上に行き着くことになる。

 国会質疑の場では首相以下の閣僚と質問者との間の先輩後輩の関係、年令や地位に応じた上下関係の力関係とは無関係に双方共に丁寧語を、それも過剰なまでの丁寧語の数々を用いているが、このことは権威主義的な人間関係の力学から自由になっているからではなく、世間に対して紳士的な振る舞いを必要とする改まった場での一般的に生態化した姿としているからに過ぎない。もし自由になっていたなら、回りくどい言い方の丁寧語自体を上の立場の人間も下の立場の人間も、双方共に必要としないはずだが、上の立場にある人間が下の立場にあったときに丁寧語の使用を習慣として根付かせてしまっているから、改まった場では結果として双方の力関係とは無関係に双方共にバカ丁寧なまでに丁寧語を使う羽目に至っている。権威主義的な人間関係の力学に囚われていることの証明にほかならない。

 では、丁寧語の廃止と普通語(=非丁寧語)の使用によってどの程度の情報処理の時間的な短縮を図ることができるのか、2022年2月7日衆議院予算委員会での立憲民主党小川淳也の質疑応答を用いて、その全文から丁寧語を普通語に転換、全文の文字数と出した省略文字数の比率から小川淳也の質疑応答時間に対する普通語を用いた場合の節約時間を割り出し、その節約時間を情報処理の時間的短縮率と看做して、その時間的短縮率を2月7日1日の実質的な質疑開始時間から終了時間までの所要時間に掛けて、大まかな結果値となるのは避けられないが、1日分の短縮時間と短縮文字数を算出して、それを以って情報処理量の短縮と見ることにする。

 勿論、情報処理量を短縮できたからと言って、それがそのまま的確な判断能力の向上に繋がるわけではないが、既に触れているように丁寧語の廃止と普通語の使用という話し言葉に対する効率意識の芽生えが情報処理の時間的短縮や話し言葉の短縮で終わらずにこれらのことを取っ掛かりに情報を如何に処理するかに意識を集中すれば、自ずと的確な判断能力の質の獲得に向かわせて、情報処理量能力を高め、結果として労働生産性の向上へと進ませる可能性は決して否定できない。

 小川淳也の質疑時間は《国会中継 @ ウィキ》から2022年2月7日の質疑者一覧と共に記載されている持ち時間に依った。過去の記録はそのまま消去されるようである。その日は質疑開始時間が「09:00」、休憩1時間を挟んで終了時間が「17:00」、7時間の質疑となる。小川淳也は「11:06-12:00」の54分間。「国会会議録検索システム」から2022年2月7日衆議院予算委員会の質疑応答全文を「テキスト印刷用ファイル」で抽出、根本匠予算委員会委員長の「これより会議を開きます」からの全文をMicrosoft Wordに貼り付けた文字数は「135284」文字。小川淳也の質疑応答全文は「17634」文字。ここから丁寧語を普通語に直すと「16799」文字となって、「835」文字の省略。

 小川淳也の質疑応答全文「17634」文字に54分間掛かっているから、1分間に直しと、17634文字÷54分=327文字(四捨五入)。丁寧語を外して835文字省略できた16799文字÷327文字(1分間)=51分(四捨五入)。全体の54分-51分=3分間の省略となり、時間上の省略率は54分-51分=3分/54分x100=5.5%。

 小川淳也の質疑応答の場合はたったの3分間、5.5%の省略だが、質問者によって発言の早い遅いや中断時間があること、大臣席から答弁台までの往復の時間、半日の場合等があることを考慮し、控えめに見て4.0%の時間省略率に割り引いて、1日の質疑7時間の420分にかけると、16.8分、小数以下を切り捨てて1日16分間の省略時間とする。

 《令和3年衆議院の動き》に記載の2021年の「本会議、委員会等の開会回数及び公述人数等」によると、

 第204回国会(常会)(令和3. 1.18~ 6.16 150日間)本会議、委員会等の開会回数は本会議と常任委員会342回 特別委員会53回
 第205回臨時国会本会議と常任委員会10回、特別委員会9回(11日間)
 第206回特別国会本会議と常任委員会21回、特別委員会18回(3日間)
 第207回臨時国会本会議と常任委員会36回、特別委員会18回(16日)

 合計すると507日の開催日数となっている。半日開催の場合もあると思うから、これを500日として、500日x16分=8000分÷60分=133時間(四捨五入)÷8時間/1日=16.625日となるが、少なく見積もることにして、小数以下切り捨て16日とする。

 要するに1年間の国会開催で丁寧語抜きだと、衆議院だけで16日間の時間が節約できる。参議院もほぼ同程度の質疑日数があることと仮定すると、1年間で1日8時間質疑として優にひと月の日数省略ができることになる。決して小さくない情報節約量である。このことを裏返すと、政府閣僚も国会議員も丁寧語を無闇に使うことによって国会質疑の生産性を落としていることになる。ちょっとしたことを伝えるのに話が長過ぎて理解するのに苦労するという場面を作り出す人間が時折り存在するが、国会議員が全員してそういった場面を少なからず演出していることになる。

 自身が発信する情報の量的節約への意識傾注は自ずと自らが提供する情報の簡略化と情報の精度を高める作用を促すはずで、情報の受け手である国民に対しても情報理解を助けることになって、国民をも巻き込んだ国会質疑の生産性の向上に貢献していくことになる。そしてこういったことが国会の場で手始めにであっても慣習化された場合、この慣習は一般社会が生産性向上意識を持ちさえすれば、情報処理に向けた効率化意識を自ずと芽生えさせて一般社会にも受け継がれていき、上下関係が強いる丁寧語の使用の省略自体が上下関係意識を希薄化させると同時にその希薄化に応じた意思疎通の余分な時間の掛かりを省いて、仕事の効率化を促し、最終的に労働生産性の向上に行き着く可能性は否定できない。

 では、小川淳也の2022年2月7日衆議院予算委員会での質疑とその応答から丁寧語をどのように普通語に変えたかを参考までに記載してみる。変えた普通語は丸括弧内に太字で示した。既に文字数を数え上げたあとだから、「国会会議録検索システム」の行の開きもないテキストを読みやすいように改行ごとに1行ずつ開け、質疑者、答弁者の名前は太字にして、発言の始まりと終わりにカギ括弧つけ、漢数字を算用数字に変えた。

 中には丁寧語を普通語に変換することによって文字数が1、2語増えるケースがあるが、全体的な情報処理(発言数と発言時間)の短縮化が証明される限り、この短縮化と丁寧語の普通語への変換が誘発することになるだろう上下の権威主義的行動様式の希薄化を通した生産性向上の目論見を優先させるために個々のケースでの文字数の1、2語の増加は無視した。

 断っておくが、変換した普通語が最適な言葉とは限らないが、自身の判断の範囲内だと了解して貰いたい。

 《日本人の行動様式権威主義の上が下に強いていて、下が上に当然の使用とする丁寧語が日本人の労働生産性を低くしている(2)》に続く

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