1/14 中日新聞『親鸞』(五木寛之)
「物乞いを見て、哀れと思ってはならぬ。ありがたいと
手を合わせよ。病に身は膿み崩れ、身に糞まみれの
ボロをまとっていても、それはすべて仏の姿である。
あの者たちは皆、そなたたちの業を背負って苦しんで
くれている仏たちなのだ」
松本清張の『砂の器』も、ライ病を煩って、物乞いと
なった父の、惨めな生活が描かれている。そういう人に
対して、ゲドイン(外道院)は「哀れと思ってはならぬ。
有り難い仏と思って、布施せよ」という。
五木「親鸞」は、この「外道院」を是認するのか、
はたして、「外道」と断ずるのか。先が読めない。
虚無僧を見て「哀れ」と思って 布施される人もいれば、
「ありがたい」と手を合わせて喜捨される方もいる。
虚無僧は「忌み嫌われ、蔑(さげす)まされるる者」から、
「哀れみの目で見られる存在」。そして「崇(あが)め
奉られる対象」なのか?。
五木寛之の『親鸞』の読者は、虚無僧を見る目も変わって
いくことだろう。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
クリックお願いします。
「物乞いを見て、哀れと思ってはならぬ。ありがたいと
手を合わせよ。病に身は膿み崩れ、身に糞まみれの
ボロをまとっていても、それはすべて仏の姿である。
あの者たちは皆、そなたたちの業を背負って苦しんで
くれている仏たちなのだ」
松本清張の『砂の器』も、ライ病を煩って、物乞いと
なった父の、惨めな生活が描かれている。そういう人に
対して、ゲドイン(外道院)は「哀れと思ってはならぬ。
有り難い仏と思って、布施せよ」という。
五木「親鸞」は、この「外道院」を是認するのか、
はたして、「外道」と断ずるのか。先が読めない。
虚無僧を見て「哀れ」と思って 布施される人もいれば、
「ありがたい」と手を合わせて喜捨される方もいる。
虚無僧は「忌み嫌われ、蔑(さげす)まされるる者」から、
「哀れみの目で見られる存在」。そして「崇(あが)め
奉られる対象」なのか?。
五木寛之の『親鸞』の読者は、虚無僧を見る目も変わって
いくことだろう。
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