家康の謎。正室の築山殿と長男信康を殺したこと。
そして、松平を「徳川」と改名。本家の松平太郎左衛門
家筋は、江戸時代を通じて、わずか500石で、三河松平郷に
閉じ込めたこと。
そこで「家康替玉説」が出る。
「家康 ( 松平元康 ) は、桶狭間の混乱の中で戦死した。
松平の家臣としては、駿府にいる竹千代 ( 信康 ) を
取り返して、今川からの独立を図る好機。それまで
元康の死を秘して、替え玉を立てた」というもの。
替玉のはずの元康が力をつけ、まず、反対する家臣団
を押さえ込んだのが「三河一向宗」との争い。そして、
築山殿と信康を殺して、松平の当主に収まった。
家康は、本家筋の松平一族を冷遇し、自らは「徳川」と
改姓する。その理由として「先祖は、上州(群馬県)の
得川(とくがわ)郷から 時宗(じしゅう)の僧となって
流浪し、松平に養子として迎えられた」などという
伝承を作った。
松平郷は、京賀茂神社領の荘園で、松平氏は、その現地
荘官であり、「藤原姓」だった。それを、新田一族で
「源氏姓」に変えたのも不可思議。あえて「時宗の僧」
などと言い出したのは、家康の本当の出自をカムフラージュ
して、伝え残したかったのではないか。
もしそうなら、次の問題に飛躍してくるのだ。諸国を
遍歴する遊行聖(ゆぎょうひじり)、時宗の徒(時衆)が、
江戸時代になって、幕府の政策で、藤沢の「浄光寺」を
本山として、「時宗」という一宗を確立したこと。
同じく、高野聖や鉢叩きと同類だった「こも僧」も、
時衆の公認に期待して、我もとばかりに『家康公お墨付』なる
ものをでっちあげた。幕府はこれを黙認してきた、
その謎が解けるのである。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
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家筋は、江戸時代を通じて、わずか500石で、三河松平郷に
閉じ込めたこと。
そこで「家康替玉説」が出る。
「家康 ( 松平元康 ) は、桶狭間の混乱の中で戦死した。
松平の家臣としては、駿府にいる竹千代 ( 信康 ) を
取り返して、今川からの独立を図る好機。それまで
元康の死を秘して、替え玉を立てた」というもの。
替玉のはずの元康が力をつけ、まず、反対する家臣団
を押さえ込んだのが「三河一向宗」との争い。そして、
築山殿と信康を殺して、松平の当主に収まった。
家康は、本家筋の松平一族を冷遇し、自らは「徳川」と
改姓する。その理由として「先祖は、上州(群馬県)の
得川(とくがわ)郷から 時宗(じしゅう)の僧となって
流浪し、松平に養子として迎えられた」などという
伝承を作った。
松平郷は、京賀茂神社領の荘園で、松平氏は、その現地
荘官であり、「藤原姓」だった。それを、新田一族で
「源氏姓」に変えたのも不可思議。あえて「時宗の僧」
などと言い出したのは、家康の本当の出自をカムフラージュ
して、伝え残したかったのではないか。
もしそうなら、次の問題に飛躍してくるのだ。諸国を
遍歴する遊行聖(ゆぎょうひじり)、時宗の徒(時衆)が、
江戸時代になって、幕府の政策で、藤沢の「浄光寺」を
本山として、「時宗」という一宗を確立したこと。
同じく、高野聖や鉢叩きと同類だった「こも僧」も、
時衆の公認に期待して、我もとばかりに『家康公お墨付』なる
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