2001年、水上勉の「虚竹の笛/尺八私考」が出た。
明暗寺の開祖「虚竹禅師」がモデルで、我々虚竹禅師奉賛会
会員にとっては、こんなうれしいことはない と喜んだが、
買って読んでみると???であった。
水上勉は、「中国で『和漢竹簡往来』という書を手に入れ、
その中に、「普化尺八の伝来、虚竹の素性、一休と虚竹のこと
などが書かれていた」というのだが、ほんとうだったら、
大変なことだ。しかし、水上氏は『和漢竹簡往来』を公開
しない。どうやら水上勉の創作のようだ。
これを読んだ人はすっかり事実と思い込まされる。中国の
新聞にも「普化尺八のルーツが判った」とニュースで取り上げ
られたほどだ。
小説家の創作はどこまで許されるのか。
歴史小説では、どこまでが真実で、ここは作者の創作だろうと
感じさせる暗黙の手法がある。水上勉は、その著『一休』でも、
存在しない書物を「出典」として、事実であるかの如く思わせて
いる。
五木寛之の『親鸞』は、「五木・親鸞」として、フィクション
であることを承知して楽しめるが、「水上・一休」は、一休を
「エロ坊主」としてしか描いていないことに不快を感じる。
「尺八と一休語りの虚無僧一路」のホームページも見てください。
クリックお願いします。
明暗寺の開祖「虚竹禅師」がモデルで、我々虚竹禅師奉賛会
会員にとっては、こんなうれしいことはない と喜んだが、
買って読んでみると???であった。
水上勉は、「中国で『和漢竹簡往来』という書を手に入れ、
その中に、「普化尺八の伝来、虚竹の素性、一休と虚竹のこと
などが書かれていた」というのだが、ほんとうだったら、
大変なことだ。しかし、水上氏は『和漢竹簡往来』を公開
しない。どうやら水上勉の創作のようだ。
これを読んだ人はすっかり事実と思い込まされる。中国の
新聞にも「普化尺八のルーツが判った」とニュースで取り上げ
られたほどだ。
小説家の創作はどこまで許されるのか。
歴史小説では、どこまでが真実で、ここは作者の創作だろうと
感じさせる暗黙の手法がある。水上勉は、その著『一休』でも、
存在しない書物を「出典」として、事実であるかの如く思わせて
いる。
五木寛之の『親鸞』は、「五木・親鸞」として、フィクション
であることを承知して楽しめるが、「水上・一休」は、一休を
「エロ坊主」としてしか描いていないことに不快を感じる。
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