岐阜基地航空祭に関して、短報以来詳報をお送りしていなかったが漸く詳報をお送りできる運びとなった。
航空自衛隊岐阜基地は名鉄各務ヶ原線三柿野駅隣にある航空基地で日本で最も古い飛行場の一つである。2005年3月まで各務原飛行場前駅(現各務原市役所前駅)というのがあり、多くの航空ファンがここで下車し、正門が遠い事を知り絶望したというが、これはかつての陸軍航空隊基地の正門の傍に駅が設けられたことに由来している。なお、名鉄には学校前駅というのがあったが既に廃校になって久しい事から運動場前駅に改名されるなど、かつての名残を思わせる駅名が多く見受けられる。
閑話休題。岐阜基地は航空自衛隊唯一の航空自衛隊専用飛行場であり、ここには飛行開発実験団が置かれ、各種装備の実験が行われている。
ここ岐阜基地は、その性格から最新鋭の戦闘機などが実験や運用試験を行う為に配置されており、F-2初号機など貴重な機体を見る事が出来、加えて川崎重工の工場に隣接している事からP-XやC-Xといった今後登場するであろう新型機が生み出される航空一大拠点である。他には中部日本の予備部品保管を一手に引き受ける第二補給処や第四高射群司令部があり、以前見学した際、全自動の部品倉庫や小山の上に置かれるペトリオットミサイルの威容に、鉄道や国道から見る岐阜基地とはまったく異なった印象を受けたものである。
岐阜基地航空祭はこうした理由から例年人気があり、本年もブルーインパルスの飛来こそなかったが(入間基地航空祭から時期が離れていない事でスケジュール的に参加が不可能)大勢の人出で賑わっていた。
岐阜基地航空祭当日は雨であるが人では多く、日曜日ながら通勤電車並の混雑にあった。急行の遅さに若干忸怩たるものを感じながら三柿野駅に到達するとすでに発動機の音が、先に基地に入っている友人から急ぐように催促の電話が。聞くところでは救難展示が行われているというではないか。
岐阜基地航空祭で救難展示を行うヘリコプターはV-107救難ヘリコプターである。本機は新潟県中越地震などでの災害派遣で一躍有名となったが、現在、陸上・海上自衛隊では引退し、航空自衛隊でも新型のUH-60J救難ヘリコプターに更新中である。V-107はUH-60Jの二倍の人員を搭載できるものの、残念ながら夜間飛行能力に限界があり、20年前の日本航空ジャンボ機墜落事故ではその能力の限界が指摘されている。しかし、水上着水能力を有する本機は今しばらく現役に置かれよう。
悪天候にあって緊迫感の高い救難展示の後、開催すら危ぶまれた第一空挺団による降下展示が行われた。千葉県船橋市にある習志野駐屯地から入間を経由して展開した空挺隊員は、悪天候もさることながら空挺降下を実施した。若干の横風があろうとも精鋭無比、勇猛果敢を持って知られる空挺部隊の降下は技術的には可能であるが、なんとなれここは東富士演習場ではなく航空基地、万一市街地に流されれば明日の新聞一面は確実である。風量と視界、降下長の決断に至るまでの緊張は如何程のものであろうか。
こうした中で、落下傘の操作を誤ったか、突如の突風に煽られたか定かではないが、降下中に接触してしまいそのまま絡まってしまうという事故があった。そのままでは着地の際に大怪我をする可能性がある、観客一同緊張の一瞬であったがこの後無事着地に成功し、観客から拍手が沸き起こった。不開傘(落下傘が開かない)という大事故は旧軍では多くあったものの、戦後自衛隊が発足した後福岡で米軍指導の下再建された陸上自衛隊空挺部隊では幸い三回しかなく、今回も大事には至らなかったのは幸いであったが、絡まってしまった隊員は望遠レンズでみた限り着地後蹴りを入れられていた。なお、降下の際に、出身地と官姓名を放送でアナウンスされる。岐阜県出身者は最初に降下を許される為故郷に錦を飾る事が出来る。
しかし、空挺降下が終了した頃から降雨が激しくなり、飛行展示が一時中止されることとなった。取り敢えず離陸したV-107もあがっては見たもののさりとてすることは無し、万策尽きたと見えて救難要員と搭乗員がヘリコプターから手を振っていた。こちらも両手を大きく振ってみるが周りを見ると中年のオッサンとかも同じように手を振っていた。ヤケなのかもしれないがそれはそれはシュールな光景であった。V-107は暫く飛行していたが姿が見えなくなった。おそらく更なる天候悪化の前に所属基地へ帰投したのであろう。
既に傘(落下傘ではなく、この場合普通の雨傘)が満開の様相を呈していたが、こちらはカメラを持っている以上傘を差すわけには行かずポンチョを着用した。
飛行再開はいつか?観客一同、風速を計る吹流しに焦点を合わせていた。風雨が若干収まったあたりでF-4EJ改ファントムがJ-79エンジンを全開にして離陸を行った。1969年より運用が開始されたF-4であるが悪天候の怪我の功名というべきかJ-79エンジンからバーナーの焔がしっかりと写っているのが嬉しい。また、水煙が一層機体を引き立てている。なお、本機は要撃機から支援戦闘機に改修され運用されているが旧式化は否めず、いよいよ現在の中期防衛力整備計画には後継戦闘機7機の調達が見込まれており、後継機は確定していないがF-22、F/A-18E、ユーロファイター2000などが候補に挙がっている。
続いてF-15J要撃機が離陸する。本機は203機が調達された航空自衛隊の主力要撃機で、千歳基地・百里基地・小松基地・新田原基地にそれぞれ二個飛行隊が、築城基地に一個飛行隊が展開しており間もなく百里基地から一個飛行隊が那覇基地のF-4EJ飛行隊と交代で配備される見込みである。
F-15J戦闘機は出力に余裕のあるエンジンの双発、優れた電子戦機器、そして高い運動性が評価されているが価格は極めて高価で、アメリカと日本以外にはサウジアラビア、イスラエル空軍が運用するのみである。しかし、韓国空軍が採用を決定し既に二機を受領、最終的には40機程度を二個飛行隊に配属させて運用する事を想定しておりシンガポール空軍も導入を計画している。
F-15J戦闘機は1981年に最初の機体がアメリカ本土から岐阜基地に空輸されたが、いよいよ電子機器の一部に陳腐化した部分が目立ち、MSIP(段階近代化計画)に基づき装備の更新が行われている。これについてはコックピット後方の冷却ファン口の有無により区別が出来るとの事であるがこの改修で更に十数年間は運用に耐える事になると見られている。一方で非MSIP機とよばれる近代化改修に対応しない機体があるが、これらは今後、RF-4偵察機の後継として偵察機に改修される事となっており、航空自衛隊の主力としてその大任を今後も担っていく事が予想される。
再び天候が悪化し、午後まで飛行展示は見合せという事になり仕方なく地上展示機を回る事に。ここで今回注目する第一のものは今年度を最後に引退するT-1初等練習機である。かつて一式戦隼などを創った中島飛行機の後身、富士重工が中心となり開発された機体であるが空気取り入れ口の形状から分るように非常に古い機体であるT-1は、小牧基地第五術科学校と岐阜基地の飛行開発実験団に配備され運用されている。かつて多くの基地で見られた本機も残るはここと小牧(小牧基地航空祭は既に終了)とあって、多くのファンが別れを惜しんでいた。
写真は降雨の影響で水滴が写ってしまったが、地面の水溜りに映えるT-1練習機の写真を撮影した。特別塗装機である本機は岐阜基地航空祭名物の多機種編隊飛行に加わる予定であったが悪天候によって多機種編隊飛行そのものが断念されることとなった。なお、同じく今年度で全機退役となるF-1支援戦闘機のホームベースである九州の築城基地も岐阜基地と同日航空祭が実施されていたが、岐阜基地と同じく降雨に見舞われたようで、最後の晴れ舞台が雨となってしまったのは残念であった。
今回の外来機は岩国基地から米海兵隊のF/A-18C、F/A-18D各一機が飛来してきた。ちなみに現在進んでいる米軍再編では神奈川県の厚木基地で陸上空母発着訓練を行っている第五空母航空団が岩国基地に移転する事が決定しており、空母航空団は今後F/A-18の派生型でほぼ統一される見込みであるから岩国基地はスズメバチたちの一大拠点となろう。なお、このホーネット、帰投のバイバイフライトを悪天候の為見合わせていた。海兵隊をも飛行を断念させるほどに気象は厳しかった事がお分かりいただけよう。
外来機としては他に青森県三沢基地から飛来したE-2C早期警戒機が展示されていた。翼を折畳んでいる事から分るように艦載機である。F/A-18の隣に展示されていたが空母甲板では良く見られるこの並列も岐阜基地でみると一味変わった印象を受ける。外来展示機は岐阜基地航空祭としては少なめであり、これは天候のために外来を断念したものであるのかはたまたもともと外来機を少なく計画していたのかは定かではないが、天候と相俟ってもの寂しい印象を感じたのは私だけではないだろう。
降雨により格納庫はあたかも難民キャンプの様相を呈していた。写真はF-2支援戦闘機が展示されている格納庫であるが観客の関心は最新鋭の支援戦闘機ではなく、雨がいつ止むかということに向けられている。格納庫中ではエンジンを取り外されたF-2の両脇にスパロー空対空ミサイルやAAM-3空対空ミサイル、ASM-1空対艦ミサイルなどが展示されていた。なお、当日は多数の屋台が軒を連ねていたが野外とあって観客は少なく当然客足が落ちた事で一部では投売りが行われていた。
お弁当が五百円で二個になったがしばらくしてそれにお茶がつき、さらに航空祭が終了する頃には五百円で三つのお弁当という投売りが行われていた。それならば一個二百円で売ればいいと思うのだが・・・、少なくとも一人で三つ食べられる人はいないだろうし。
さてさて、飛行展示再開である。小生は中止になるだろうと絶望して牛串(かつて飛騨牛とか神戸牛とか書かれた屋台が乱立していたが、産地表示の義務化により?)やラーメンに舌鼓を打っていたがどうやら飛ぶ模様であると友人がいう。スープを一気に飲み干すと脚立を引っ掴んで小走りにエプロン地区に向かう。続けざまにF-4EJ改やF-15J、F-2が離陸して激しい機動飛行を展開するが、暫くすると着陸してしまった。C-1輸送機も滑走路脇で待機しているのだが多機種編隊飛行はやはり無理なのだろうと思わせる光景であった。
飛行開発実験団所属のF-2支援戦闘機がウェーキを曳きつつ飛行する。本機は1987年から開発を開始した日米共同開発の航空機で、日本側が60%、アメリカ側が40%を担当して開発が進められた。初飛行は1995年であるから既に初飛行から10年以上を経た機体である。母体となったF-16と類似する点も多いが、三沢基地などでF-16と並んだ光景をみればその相違点は容易に見る事が出来る。即ち、本機は対艦攻撃に重点を置いた機体である為対艦ミサイルを多数搭載するために主翼を拡大した点にある。これにより8084kgという戦闘爆撃機並みの爆弾搭載量を誇っている。
加えて、主翼を軽量で強度の高い複合材による一体成形とし、レーダーは三菱電機が開発したアクティヴフューズドアレイレーダーとした。前者はAV-8BハリアーⅡに次ぐもので後者はMiG-31以来の実用化であるから、技術的にはある種冒険的な内容であったが、F/A-22やF-35といった事例を観る限り新世代航空機の潮流として定着しつつある現状をみれば日本の選択は間違いではなかったといえる。なお、残念ながらレーダーの不具合や主翼の強度の関係などにより所定の性能を発揮できなかったとされ、石破防衛庁長官時代に調達数の削減が決定され、130機調達の計画が98機程度へと下方修正されることに決定されている。
続いてF-15Jの飛行である。やはりプラットアンドホイットニーF100PW220エンジンの双発は力強い。自重13㌧、最大離陸重量は30㌧にも及ぶF-15Jであるが離陸距離は余裕のあるエンジンによって274㍍で可能となっている(ただし、この離陸距離での離陸重量は最大離陸重量ではない)。しかし幾度かタッチアンドゴーや機動飛行、旋回などを繰り返した後着陸してしまった。写真はエアブレーキを開き着陸している写真だが、悪天候により珍しく西側から着陸を実施している。
F-15Jが着陸すると再び強さを増した豪雨により飛行展示が中断し、結果的にこの日の航空祭は飛行展示全てを終了とする決断が下された。天候だけは誰にもどうにもならず、残念であった。
写真は飛行展示を断念して格納庫に向かうF-4EJ改、F-2、F-15Jである。なお、伝え聞くところではこの降雨により多くのカメラのトラブルが起こったようで、特にデジカメの損耗が多かったという。銀塩式一眼レフに関しては友人が携行していたものを含め大丈夫であった。ちなみに小生の一眼デジカメはタオル(迷彩2型をプリントしたもの)を幾枚も買い集め必死の防水努力成って幸いにして無事であった。
管制塔を背景に翼を休めるUH-60(悪天候で帰宅難民状態)。なお、蛇足ながら、新しく救難部隊を描いた『よみがえる翼』というアニメーションが始まったそうだが、浅学にして小生はまだ観ていない。どうやらUH-60Jが主人公たちの使用する機体となるようで、航空幕僚監部広報が全面協力しているという。近未来の海賊を相手に戦う民間警備会社のイージス艦を舞台に繰り広げられるアニメーション『タクティカルロア』も放送を開始し、こちらは海上幕僚監部が協力しているそうだ。
さて、そうした中で空挺隊員を乗せて入間基地に向かうC-1輸送機が離陸している。巻き上げる水煙が他の航空機とは桁違いに大きい。
C-1輸送機は、川崎重工において1973年から1981年にかけて31機が製造された国産輸送機で、YS-11で培われた技術の継承者でもある。高い機動性に定評があるが政治的理由から航続距離や搭載量が制限されてしまったのは残念である。なお、恐らく揺れたであろう。
こうして岐阜基地航空祭は終わった。魅力ある写真を提供できなかった事は残念であったが、多機種編隊飛行や例年では行われるブルーインパルス飛行展示など岐阜基地航空祭は見所が多い。名鉄が名鉄名古屋駅から三柿野駅まで臨時特急を運行しており新幹線岐阜羽島駅からも一時間ほどで三柿野駅に行く事が出来る。来年度航空祭の詳細など、情報が入れば本ブログに掲載する予定であるので、興味がある方は一度足を運ばれては如何であろうか。
HARUNA