■東寺-紅葉
このお寺はは桜が美しいのですがこのように紅葉も美しいという話題です。
東寺、南区九条町の、というよりも京都駅新幹線ホームからも見える京都を代表する建物の一つが当時の五重塔なのかなあ、と思う印象的な情景を醸していまして、しかし京都の平安遷都の頃から今に至るも同じ場所に立地する寺院となっています。
延暦15年こと西暦796年に桓武天皇がこの平安遷都に際して造営した寺院であり、そもそも南都六宗からの独自性を政治に反映するべく、ということは平安遷都の目的のひとつでしたから、今寺社仏閣に溢れる京都に最初二つのみ認められた官寺のひとつ。
京都散歩、東寺のあたりは一つ突き抜けて東寺が存在感を護すものの、勿論探せば幾つも歴史湛える寺社仏閣はあるものの、大きな伽藍はこの一帯で一つ突き抜けて拝観者を迎える風情を醸しています。その当時も、実は紅葉の名所となっていまして。
西寺と東寺、平安遷都に際して、左右対称に造営された平安京の玄関口にあたるこの一角に東寺が、その西に西寺が造営されました。ただ、西寺はいま西寺あとという石碑が講演に佇むのみとなっていまして、再建する試みさえありません。
鎮護国家の密教寺院、西寺が再建される事がない背景には、結局京都という町は自由な街並みを目指していたもので、平安遷都の当時に構想された画一的は左右対称の都市計画は都市部の膨張とともに自由という概念に置き換えられ今に至る為なのですが。
五重塔、やはりこの寺院を象徴する建物は、京都最古の高層建築物という五重塔を望見した際の事でしょうか。これも幾度もの建て替えと修復を重ねているのですが、それは同時にこの情景風景が京都のなじみ深い風景として定着しているにほかなりません。
徳川家光の寄進により寛永21年こと西暦1644年に再建された五重塔、実はこの京都散歩に際しまして、敢えて東寺を散策しましたのは、この紅葉のきかんに京都文化財特別公開としまして、五重塔内部を拝観できる、というものがこの日の散策の趣き。
両界曼荼羅や真言八祖像を描いた東寺、といいますのも過日、高雄の神護寺を拝観しました際に、もちろん神護寺も多くの歴史を湛えていて、源頼朝さえかかわりある寺院なのだけれども、印象深く感じたのは映画の空海に描かれたような弘法大師空海で。
空海の寺院、この東寺が永らえたのは、もちろん平安遷都以来の官寺という荘厳美麗な歴史が彩ることは確かなのだけれども、もうひとつの官寺である西寺が廃れていったことと整合性がありません、それは東寺には新しい役割があったゆえ。
治水、という面から、西寺が廃れた背景というものはもう一つあり、そう、東寺と西寺という視点に立って京都を見ますと、堀川通などいまの京都の中心線からずれていることが東寺の平安遷都における都市計画から見出すことができるでしょう。
長岡京からの平安遷都は治水計画の失敗で行政機構を含め定期的に浸水被害を受けていたために廃都せざるをえなかったという事情があるのですけれど、西寺も同じように浸水被害が続いたことで、幾度か復旧するものの長期的には蜂起された歴史が。
紅葉の東寺、さて、南都六宗から距離を置いた日本ですが、仏教は変化する宗教であり、空海により大陸からつたえられた密教の寺院ということで、当時は新しい役割を担う事となりまして、いま、紅葉に包まれている情景をお伝えする事が出来るのですね。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
このお寺はは桜が美しいのですがこのように紅葉も美しいという話題です。
東寺、南区九条町の、というよりも京都駅新幹線ホームからも見える京都を代表する建物の一つが当時の五重塔なのかなあ、と思う印象的な情景を醸していまして、しかし京都の平安遷都の頃から今に至るも同じ場所に立地する寺院となっています。
延暦15年こと西暦796年に桓武天皇がこの平安遷都に際して造営した寺院であり、そもそも南都六宗からの独自性を政治に反映するべく、ということは平安遷都の目的のひとつでしたから、今寺社仏閣に溢れる京都に最初二つのみ認められた官寺のひとつ。
京都散歩、東寺のあたりは一つ突き抜けて東寺が存在感を護すものの、勿論探せば幾つも歴史湛える寺社仏閣はあるものの、大きな伽藍はこの一帯で一つ突き抜けて拝観者を迎える風情を醸しています。その当時も、実は紅葉の名所となっていまして。
西寺と東寺、平安遷都に際して、左右対称に造営された平安京の玄関口にあたるこの一角に東寺が、その西に西寺が造営されました。ただ、西寺はいま西寺あとという石碑が講演に佇むのみとなっていまして、再建する試みさえありません。
鎮護国家の密教寺院、西寺が再建される事がない背景には、結局京都という町は自由な街並みを目指していたもので、平安遷都の当時に構想された画一的は左右対称の都市計画は都市部の膨張とともに自由という概念に置き換えられ今に至る為なのですが。
五重塔、やはりこの寺院を象徴する建物は、京都最古の高層建築物という五重塔を望見した際の事でしょうか。これも幾度もの建て替えと修復を重ねているのですが、それは同時にこの情景風景が京都のなじみ深い風景として定着しているにほかなりません。
徳川家光の寄進により寛永21年こと西暦1644年に再建された五重塔、実はこの京都散歩に際しまして、敢えて東寺を散策しましたのは、この紅葉のきかんに京都文化財特別公開としまして、五重塔内部を拝観できる、というものがこの日の散策の趣き。
両界曼荼羅や真言八祖像を描いた東寺、といいますのも過日、高雄の神護寺を拝観しました際に、もちろん神護寺も多くの歴史を湛えていて、源頼朝さえかかわりある寺院なのだけれども、印象深く感じたのは映画の空海に描かれたような弘法大師空海で。
空海の寺院、この東寺が永らえたのは、もちろん平安遷都以来の官寺という荘厳美麗な歴史が彩ることは確かなのだけれども、もうひとつの官寺である西寺が廃れていったことと整合性がありません、それは東寺には新しい役割があったゆえ。
治水、という面から、西寺が廃れた背景というものはもう一つあり、そう、東寺と西寺という視点に立って京都を見ますと、堀川通などいまの京都の中心線からずれていることが東寺の平安遷都における都市計画から見出すことができるでしょう。
長岡京からの平安遷都は治水計画の失敗で行政機構を含め定期的に浸水被害を受けていたために廃都せざるをえなかったという事情があるのですけれど、西寺も同じように浸水被害が続いたことで、幾度か復旧するものの長期的には蜂起された歴史が。
紅葉の東寺、さて、南都六宗から距離を置いた日本ですが、仏教は変化する宗教であり、空海により大陸からつたえられた密教の寺院ということで、当時は新しい役割を担う事となりまして、いま、紅葉に包まれている情景をお伝えする事が出来るのですね。
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