■ひらかれた寺院
本日も東寺の紅葉を。
東寺の拝観、興味深いのは当時の有料公開されている区画は五重塔と一部であり、ご本尊は遠くから自由に拝観する事ができまして、毎回のように拝観料を収めずとも、仏教を身近に感じることについては、ひらかれた寺院だ、という事が出来るもので。
薬師如来坐像である本尊と日光菩薩そして月光菩薩の両脇侍像が安置されています金堂は、拝観料なしに、少し離れたところからではありますが拝観出来て。いや、おちついて京都の寺院を考えますと、ご本尊は自由に拝観できるところの方が実に多い。
寺院と布教、という視座をかんじられるのはこうした風情から感じ入ることができるのですが。ただもう一つ、仏教というものはイスラームやキリスト教のような一つの聖典に収まらない一つの哲学のような体系を構成していますのですから。
寺院を幾度も通う、もちろん協議の複雑さから浄土宗のように、阿弥陀念仏に特化するという選択肢もありはするようですが、このあたりは変容とともに親交のあり方と信仰する対象というものにより移ろうという信仰のありかたなのか。
京都は変化の街である、最先端建築物が平安朝の頃から鎌倉の様子は残念ながら応仁の乱で当時の建物が多く破壊され現存するものは例外的な僅かではあるのだけれども、室町時代と安土桃山時代、いや江戸時代に在っても変化をつづけていまして。
現代の京都を古都の趣が無い、と言われる事は確かにあるのですが、すると京都、として思い浮かべる、そういった方々の京都、という定義はどういうものなのだろうなあ、と考えてしまうのです。しかしそうした変化のある京都に在って、当時は不思議で。
伽藍の配置が、東寺だけは真言宗の寺院ということで、もちろん荒廃する時機は何度もあり、一つ歴史が違っていれば、京都が核攻撃を受けたかもしれないという危機もありましたから必然の今日、という訳では無いが、伽藍の配置が換わらないといい。
東寺の立体曼荼羅というものは、実のところ極楽浄土を分かりやすく再現して拝観者に示すためのものという、このあたり、東寺の拝観というものは、その目的という視座から、早い時代から拝観者に門戸を開いていたことを示すのですけれども。
大日如来、空海の時代から恵果和尚との出会いを経ての創建当初の配置を、建物は世代交代する事があったといいましても、当時の、空海が密教を伝えた世界観を伽藍の配置として維持しているという点が、これは考えてみると感慨深い訳でして。
立体曼荼羅があるならば、それを包む風景についても軽傷されているのだろうか。創建当時、しかし不思議と調べても出てこないものなのですが、東寺の寺域を構成する木々の情景というものは、東寺のままなのだろうか、という素朴な疑問を持ちまして。
極楽浄土の具現化、というものを立体曼荼羅から構成されているならば、情景というものも再現されているのではないか、と考えてしまうのですね。もっとも、木々の配置に関する記録が当時に残っているかも含めて、不明なのですけれども。
紅葉とともに春は桜花、東寺という寺院にはこうした、今では溢れているものだけれども極楽浄土、というものを再現している、そうした意趣がいまも湛えられている訳ですから、いつのじだいもここには拝観者が絶えないのだろうなあ、と思ったりするのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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本日も東寺の紅葉を。
東寺の拝観、興味深いのは当時の有料公開されている区画は五重塔と一部であり、ご本尊は遠くから自由に拝観する事ができまして、毎回のように拝観料を収めずとも、仏教を身近に感じることについては、ひらかれた寺院だ、という事が出来るもので。
薬師如来坐像である本尊と日光菩薩そして月光菩薩の両脇侍像が安置されています金堂は、拝観料なしに、少し離れたところからではありますが拝観出来て。いや、おちついて京都の寺院を考えますと、ご本尊は自由に拝観できるところの方が実に多い。
寺院と布教、という視座をかんじられるのはこうした風情から感じ入ることができるのですが。ただもう一つ、仏教というものはイスラームやキリスト教のような一つの聖典に収まらない一つの哲学のような体系を構成していますのですから。
寺院を幾度も通う、もちろん協議の複雑さから浄土宗のように、阿弥陀念仏に特化するという選択肢もありはするようですが、このあたりは変容とともに親交のあり方と信仰する対象というものにより移ろうという信仰のありかたなのか。
京都は変化の街である、最先端建築物が平安朝の頃から鎌倉の様子は残念ながら応仁の乱で当時の建物が多く破壊され現存するものは例外的な僅かではあるのだけれども、室町時代と安土桃山時代、いや江戸時代に在っても変化をつづけていまして。
現代の京都を古都の趣が無い、と言われる事は確かにあるのですが、すると京都、として思い浮かべる、そういった方々の京都、という定義はどういうものなのだろうなあ、と考えてしまうのです。しかしそうした変化のある京都に在って、当時は不思議で。
伽藍の配置が、東寺だけは真言宗の寺院ということで、もちろん荒廃する時機は何度もあり、一つ歴史が違っていれば、京都が核攻撃を受けたかもしれないという危機もありましたから必然の今日、という訳では無いが、伽藍の配置が換わらないといい。
東寺の立体曼荼羅というものは、実のところ極楽浄土を分かりやすく再現して拝観者に示すためのものという、このあたり、東寺の拝観というものは、その目的という視座から、早い時代から拝観者に門戸を開いていたことを示すのですけれども。
大日如来、空海の時代から恵果和尚との出会いを経ての創建当初の配置を、建物は世代交代する事があったといいましても、当時の、空海が密教を伝えた世界観を伽藍の配置として維持しているという点が、これは考えてみると感慨深い訳でして。
立体曼荼羅があるならば、それを包む風景についても軽傷されているのだろうか。創建当時、しかし不思議と調べても出てこないものなのですが、東寺の寺域を構成する木々の情景というものは、東寺のままなのだろうか、という素朴な疑問を持ちまして。
極楽浄土の具現化、というものを立体曼荼羅から構成されているならば、情景というものも再現されているのではないか、と考えてしまうのですね。もっとも、木々の配置に関する記録が当時に残っているかも含めて、不明なのですけれども。
紅葉とともに春は桜花、東寺という寺院にはこうした、今では溢れているものだけれども極楽浄土、というものを再現している、そうした意趣がいまも湛えられている訳ですから、いつのじだいもここには拝観者が絶えないのだろうなあ、と思ったりするのです。
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