先日姉が言いました。
「今度は痴漢冤罪のドラマだね。」
水谷豊さん主演の次のドラマの事を言っているのです。
「そうね、でも私見ないと思うわ。苦手なの、そういうの。」
だからノーチェック。
だけど昨日やっていました。
夫も言いました。
「俺、こういうの苦手なんだよね。だって、イライラしちゃうから。」
まったくもって同感です。そう、イライラしちゃうから苦手なんです。でも二人してそうは言っても、やっぱり見てしまったのでした。
そのイラつく感情は、映画の「それでも僕はやってない」を見た時にインプットされた先入観でした。でも不思議にそれは感じませんでした。なぜなら分かってもらいたいのに、分かってもらえないもどかしさ、または現実の常識からかけ離れた裁判の有り様を中心に描いていたからではなかったからです。
はっきり言って、最後はあり得ないご都合主義のハッピーエンド風な終わり方でした。でも、これで良いのだと思いました。なぜならドラマだからです。このドラマを見始めたときから、そういう終わり方であって欲しいと思いました。99,9%の有罪率。これは0.1パーセントの無罪家族の成長の物語でした。
仕事人間だった主人公。安穏な生活の中で、自分のやりたいことも分からなかったような専業主婦だった妻。いい加減な子どもたち。
信じられないような一日から、失ったものは多かったと思います。でも、それを通して得たものもあったというのは救いです。
ただ現実的に考えてみたら、それは綺麗事です。そこで見せた家族の変化は、イザと言う時には引き出せたそれぞれの力の預金にすぎず、失ってしまったものはあまりにも多く、実際にこのような事に巻き込まれたら、その不条理に失ってしまったものを数えてしまうのは必定だからです。
主人公の男性の無罪が確定した後、被害者少女が
「じゃあ、犯人は誰だって言うのよ。」と呟いた一言は心に残りました。
この少女が被害者として、本当に苦しみのた打ち回るのはこの瞬間からだと思いました。
しかもテレビ前のあなた、思いませんでしたか?
この少女には民事で訴えられる可能性もあるのだと。
ただ、ドラマですし、水谷さん演じる主人公の家族は人が良さそうな人たちなので許してくれそうだと、都合良く考える事にした方が精神的には救われます。
痴漢に限らず、恐ろしいのは「冤罪」です。
本当の犯人は、藪の中、ほくそ笑みながら隠れてしまうからです。
ただ、痴漢冤罪の怖さは、まるで事故にあったが如く自分の誇りに蓋をしてしまえば、自分に降りかかってくる悲劇が最小で済むと言う、最大の矛盾を持っているからだと思います。
だけど99.9%の有罪率は有罪率であって、決して冤罪率ではありません。こういうドラマに勘違いし影響されてはいけない部分は、そこにあると思います。信じられないような女性蔑視の時代を経て、今の時代がやってきたのです。私ぐらいの年代の人たちに、痴漢の話をふれば、長々と書けば二つぐらい、軽い話に直したら五つは記事が書けるような、そんなテーマです。やっと今の時代を勝ち得たのに、逆行するような事はあってはならないと思います。
ただ、男子二人の母としてはこのような「被害」に遭ったらどうしようかと不安に感じるのも事実です。世の中には異常に自意識が強い女性も存在するかも知れませんし、そういう示談金サギもあるらしいですし。
そう考えると、男女双方が自衛しなければならない時代なのかもしれませんが、疲れる時代ですね。
少女は間違えただけで「嘘」は言っていない。もちろん主人公の男性も。
このタイトルの「嘘」は誰がついているのか。
それは99.9%の中の誰か・・・
生活を守らなければならないために、つかざるを得なかった「嘘」の自白。
その嘘をついて、留置所から出て行った男との再会のシーンは、心に残りました。生活は失わなかったけれど、いつか娘とこの事でどんな風に向き合ったらいいのだろうと男は言いました。なかったことにはならない過去の記憶は、ずっと深い傷になって残っていくのですよね。
もう一つ心に残ったシーンは、着替えを持って行った妻が、偶然窓から、縄でつながれた夫を目撃してしまうシーンです。見上げて妻を見る夫。
一瞬、ウッと涙が出そうになりました。
私だったら声を上げて泣き崩れてしまうと思います。そして、なんとしてでも家族を守ろうと決意する場面になったと思います。
アッ、でも感情移入が激しすぎて、この物語ではどうだったのか忘れてしまいました。たぶん、同じだったのではないかと思います。と、ちょっといい加減・・・・。
来週はいよいよ「相棒」がスタートですね♪