ある時、姉妹のline集会でスノウさんが、
「予言の書によると、この後核攻撃が起きて世界は滅んでいく。」と言ったかどうか。
この一言は、メチャクチャツッコミどころマックスのはずだと思う。例えば「予言の書」って何だってところから始まって・・・・となるわけだが、そこは誰も突っ込まない。咄嗟にどうせ「ノストラダムスの大予言」あたりじゃないかと勝手に思い込む。古いね、私。
それどころか、その一言に大真面目に
「何ら否定する根拠もないな。」などとのたまう。誰がって ?
まぁ、だいたい・・・・私だけどね。
正常性バイアスに思考を乗っ取られた人々が、知らず知らずに終息して欲しいと誰もが願っているアレを拡散して歩いている。それを何とオクニがどうぞどうぞとお手伝いをしているような、変な国、それが今の日本なんだと私には思えてしまう。
頭脳が死んでいるー。
これじゃあ、ゾンビの国じゃないか。
人々はどんどん不安ばかりが増幅されて、そしてかつて太古からある、あの予言の書に思いが行きつくのだ。
天使がその時ラッパを吹いてってあれ。
そのための方法はいくらでもあるでしょう。
何処かの大国の山奥での細菌(兵器)研究所で、新型ウィルスを敢えて生み出して、まだそれに対するワクチンが作られていないうちに、その宿主である動物が、地元の市場に横流しされて村人の腹の中に納まってしまったりとか。悪意なくとも無知なるゆえに、そんな事もあ起こり得るかもしれない。
地球はるか上空で、それらの風景、つまり感染した人々やそれに怯える人々がまるで色が付くように描かれていたとしたら、そしてそれを眺めていたら、きっとそれらは音もなく、静かに悲しい風景を描いて行くに違いない。だけど悲しいと言うのは単なる主観だ。その風景はまるで春が夏に、そして夏の風景が秋に変わっていくように、静かに変化して行くのだろう。
そして大いなる不安は疑心暗鬼の心も増幅させ、力なき為政者は自分の力を誇示もしくは守るために、人々の心を惑わして、憎しみの対象を指し示すだろう。
そしてある時、何処かでラッパの音が聞こえたと思ったらー。
空の特等席からその風景を見ていたとしたら、キノコの形の雲や幾重もの風が大地を包み込むのが見えるかもしれない。
或る日、スノウさんが言いました。
「予言の書によると、この後核攻撃が起きて世界は滅んでいく。」
「何ら否定する根拠もないな。」と、私は答えたのでした。
☆
仕事のパターンが変わると、それに合わせて生活のパターンも変わると思います。2011年に病気になって、私は10キロも痩せました。それはもう理想の体重みたいなもので、そのまま行くのかと思ったけれど、その頃の私は全然元気が出なくて、もう残りの人生は余生かと思えるような毎日でした。予約外に病院に受診に行く事もままあって、そんな時に薬が変わって、私はすっかりと元気になったのです。いろいろとヤル気と気力が満ちて来て、今の生活になったわけですが、とんでもない事にあっという間に私は20キロも太ってしまい、すっかりコンコンのデブな人になってしまったのです。
「途中で気が付くでしょ、そんなの。」と冷たく言った人もいたけれど、気が付くのも間に合わないスピードで、・・・・もういいや、そんな話は意味もなく疲れるし、とってもくだらないから。
だけど最初はもう恥ずかしくて、それに人の言葉にも凄く傷ついたし、引き籠りたいような気持ちでいたのは事実。
ある時スーパーに行ったら、結婚したばかりの頃に縁のあった人に出会いました。結婚したばかりの頃と言う事は、私は20代の真ん中で、その人は夫殿を君付けで呼び、私をちゃん付けで呼んでいました。その頃の彼女の娘が中学生で、そんな年の差のあった方です。
「花子ちゃん、いったいどうしたの。こんなになっちゃって。」と、その人はその時から30年以上も経っているのに、やっぱりちゃん付けで私を呼び、そして私の腕をフニフニと掴みながら、そう言ったのです。
「ええ、まあ。」と、私は恥ずかしそうに言うと、その人は言いました。
「でも、可愛いから許す。」って。
斜め後ろに一緒にスーパーに来た、同年代の知人がいたので、私は思わず照れて「えへへ」と笑いました。
10の位で四捨五入したら、この人も私も、皆100歳ってわけですが、それでも「可愛い」と言われたら、やっぱり悪い気はしないものですよね。
おっと。
もしかしたら、今指を折って数を数えた人もいるかしら。でもまあ、息子たちがおっさんズと言っているくらいだからね、歳だってバレルってものですよね。
またその後生活パターンも変わり、その人に会う事はなくなってしまったのですが、少し前から「あの人、どうしているのかしら。」と思い出すことがあったのです。
だけど会わなかった年数を数えたら、もしかしたらと言う想いもなくはなかったのです。
4日の火曜日、買い物に行く時に、いつもと違う離れたスーパーに行ったので、またふと思いついてその人の家に行ってみました。
その人の家は、そのまま有りました。
だけど表札の名前が違っていました。でも苗字は違っていても、名前が彼女の娘の名前だったのです。
懐かしい引き戸の玄関。だけどその玄関は開け放されていて、中は空き家。外の壁に「解体」の看板が出ていて、壁に沿ってそのための車が止まっていました。
解体はその日からだったのでしょうか。
何かに呼ばれたのかしらと、私は思いました。また、何かに間に合ったようにも感じたのです。
私はとっても寂しく感じました。
人の世の変化に?
私を大切に思ってくれた人がいなくなってしまった事に?
いいえ、それは違います。
周りの人が老いて、もちろん私もですが、そして病になってこの地上から消えて行く・・・・。
そこにあった思い出の家屋が解体され、新しいものに変わっていく・・・・・。
そんな変化に慣れていっている自分がいる事に、寂しさを感じたのです。
その寂しさの正体こそが、「老い」なのかも知れません。慣れると言うのは、悲しいものですね。
昨日今日生まれた赤ん坊でも無ければ、今地上にいるものは100年後の世界には、もうみんないないのですよ。死は滅びの同義語ではないけれど、
何も疑い憎しみを増幅させ、醜い雲や恐ろしい風を吹かせなくても、いつかみなそれぞれににその肉体の滅びる日を迎えるのです。
その滅びの道に核などの道具は、まったく必要がない事です !
☆
その人の家の前を自転車を押しながら通り過ぎようとしましたが、やはり私は立ち止まりそして振り返り、マスクの中で声を出して言いました。
「ありがとうございました !!!」
目を瞑り軽く頭を下げると、頭の中で彼女のハスキーな声で「花子ちゃーん」と言う声が蘇えって来て、私は思わずにっこりと微笑んでしまいました。
そしてやっぱり、その想い出の中の声に、寂しさを感じたのでした。
8月4日の月
と
短い夏を頑張っているセミの抜け殻
絶対にこないとは言い切れませんね。
今の状況においては。
いざとなれば核兵器を使う指導者たち。
それを作る企業。それに賛同する集団。
無知なわれわれは黙っているだけなのか?
…この宇宙でもっとも危険な生物たち。!
そうなんですよね。別に不安をあおるわけではありませんが、今みたいな状況が続くと、人はどんどん不安になって、良からぬ方向に思考が偏るのかもしれません。
だけど良からぬ予言って、そうならないぞと言う注意喚起だと思うのですよね。
だけど間違いのない事は
>…この宇宙でもっとも危険な生物たち。!
今の地球では、(一応、影響力が大きいと言う意味で)人類は生き物たちのリーダーだと思うのです。その自覚を持って生きていくことも大切なことかもしれませんよね !