(祇園神社 京都市東山区祇園町 旧官幣大社)
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(愛媛県今治市朝倉南)
標高約328m,世田山と尾根続きの山である。平成20年8月の山火事により、ほぼ山全体に延焼し、無残な状態となった。然し、山頂の観音堂は火災を免れている。
寛弘年間(1004-11)河野為世が笠松山に城を築いたという。続いて、同氏族の岡氏が居城した。興国三年(1342)伊予においての南朝の拠点となっていたこの地に、篠塚重広が籠城し、北朝、細川頼春が攻め入り落城となった。その後、再び岡氏の居城となったが、天正十三年(1585)河野氏が滅亡すると廃城となった。山頂主郭の観音堂は、篠塚重広が落城して落ち延びる際に、兜の内側に秘めていた一寸八分の黄金観音像を山頂に安置したのを、後に村人が祠を建てて奉ったのが始まりという。
(愛知県豊川市三上町権現下)
かつてこの辺りは三渡野(みどの)村といった。三渡野は緑野(みどりの)が変化したものとされ、三渡野村は明治11年、(ママ)之上(ままのうえ)村と合併した際、双方の一字ずつをとって三上(みかみ)村となった。三渡野村の鎮守である緑野神社の起源は明らかではないが、飛龍三社権現と書かれた棟札が残り、鎮座する山を権現山というのも、この緑野神社が由来である。また、和泉式部が康平四年(1061)この地を訪れた際に、「春ふかく なりゆくままに みどり野の 池の玉藻も 色ことにみゆ」と詠んでいる。この、みどり野の池は、現在の間川下流部付近に存在した池とされ、その付近一帯を緑野と呼んでいたのだという。
(臨済宗慧日山東福寺 京都市東山区本町)
嘉禎二年(1236)九條道家が建立した寺院である。東大寺の東と興福寺の福をとり、東福寺としたという。鎌倉末期に火災により伽藍を焼失したが、一條経通により再建された。然し明治14年(1881)に仏殿、法堂、方丈、庫裡を焼失。方丈と庫裡は明治23年(1890)に再建、仏殿と法堂は本堂として昭和9年(1934)に再建されている。
(本堂)
(国宝 三門 室町初期)
(愛媛県今治市上朝倉)
弘仁十五年(824)越智為澄が、伏見より宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ:稲荷神) を勧請したとされる。南西側にある医王山光蔵寺が、神仏習合時代に飯成神社の別当寺であったという。
(北海道沙流郡平取町二風谷)
沙流川とユオイ沢に挟まれた丘陵地縁端に造られたチャシ(16世紀以降に造られたアイヌの祭祀場・見張り場・砦)である。 また、ユオイとはアイヌ語でユ=冷水、オ=ある、イ=ところという意味である。チャシの主体部は後の造田工事によって破壊されていたが、二風谷ダム築造に伴う発掘調査で、孤状の二重堀と内側に柵列跡が検出された。
(チャシ横のダム)
(堀)
(奈良市佐紀町 世界文化遺産 国指定特別史跡)
和銅三年(710)平城京は藤原京(橿原市)から遷都した。一時、恭仁京や難波京に遷都したこともあったが、延暦三年(784)長岡京に遷都するまで日本の首都であった。平城京の北端に位置するのが平城宮で、左右外郭にそれぞれ東大寺、西大寺が建てられた。
大極殿は平城宮北端に位置し、天皇の即位、元旦の朝賀など国家的儀式の時に天皇が出御する建物であった。天平十二年(740)の恭仁京遷都の際に取り壊されているが、再び平城京に遷都した際、旧大極殿の南東側に再建されている。平成13年から開始された「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想」に基づき、大極殿は旧大極殿の位置に再現された。
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墓参を終え、近くを流れる頓田川を遡る。
旧朝倉村役場や美術古墳館のある、下朝倉へは何度か訪れているが、上朝倉、いわゆる“カミアサ”は未踏であった。村内には推古天皇十年(602)小千益躬が創建した光蔵寺や、弘仁十五年(824)越智為澄が勧請したとされる飯成神社がある。三十七代斉明天皇が三ヶ月間滞在した地とされ、奈良高市にある斉明天皇陵を「越智崗上陵」(おちのおかのえのみささぎ)というのも、何らかの関係があるのかもしれない。
(真言宗医王山光蔵寺)
(小千族之碑)