(愛知県豊川市麻生田町大橋 1982年7月22日・23日)
主要地方道東三河環状線の築造に伴い、側道となる市道6-20号線築造の事前発掘調査が開始された。大橋遺跡は縄文時代晩期後葉(三河地方編年五貫森式~)からの複合遺跡で、旧豊川沿いに形成された住居跡及び甕棺墓の遺跡である。
(浄土真宗無礙智山大通寺 長浜御坊 長浜別院 滋賀県長浜市元浜町)
長浜の町並みから門前へと向かう。以前訪れたときには、鐘楼の屋根にシートが被せられているような状態であったが、綺麗に修復されていた。
(市文 山門 天保十二年) (重文 本堂 江戸初期)
(重文 大広間玄関 宝暦十年)
(神奈川県横須賀市猿島)
東京湾入口の軍事的要所であった猿島は、幕末には台場が置かれ、近代、そして第二次世界大戦時にも砲台が置かれた。明治17年(1884)には、愛知県西尾産の煉瓦を用いてトンネルが造られた。
(発電所跡 明治28年)
(対空司令部観測所であった展望台 昭和16年)
(高射砲陣地跡 昭和16年)
(大阪市中央区大阪城)
旧大坂城三の丸石垣遺構のある追手門学院小学校の前から現在の大阪城敷地内(京橋口)に入る手前、北外濠と寝屋川の間に放置されている一角がある。大正8年(1919)に築造された、煉瓦造二階建、地下一階、延床面積1887㎡の化学試験場軍事施設跡であり、終戦まで化学試験場として使用された。その後は昭和62年(1987)まで自衛隊大阪地方連絡部庁舎として使用され、平成6年まで防衛施設庁の管理であった。
(詰所跡)
百万以上の人口を抱える都市の中で唯一、地下鉄及び地下鉄構想のない広島。それは路面電車・軌道線として日本一の規模を誇るからである。
(3800形 稲荷町)
(元西鉄1000形の3000形)
(T字型の相生橋を渡る3800形)
(5両連接車の5000形)
(元大阪市電2601形の900形)
(元京都市電の1900形)
「広電」は大正元年(1912)広島電気軌道として開業したのが始まりである。現在の路線は、広島駅-広電西広島の本線5.5km, 広島港-紙屋町の宇品線5.7km,江波-土橋の江波線2.6km,白島-八丁堀の白島線1.2km,皆実町六丁目-的場町の皆実線2.5km,横川駅-十日市町 の横川線1.4kmと、鉄道線である広電宮島口-広電西広島の宮島線16.1kmからなる。
(二代目800形 紙屋町)
(3800形3803 紙屋町)
(5100形 紙屋町)
(5100形 宮島線広電五日市)
広島には、市北西部を結ぶアストラムラインがあるが、軌道線を超える高速性と地下鉄より建設コストの低い高架方式によるモノレールを採用したものの、採算性に問題があり、延伸計画の変更及びLRT推進への構想が持ち上がっている。
(900形 横川)
(二代目700形 横川一丁目)
(1900形 横川一丁目)
(原爆ドーム前)
(3000形)
(広電宮島口)
(5000形と3900形)
(宮島口)
(名古屋市熱田区 旧官弊大社 名神大社 1982年7月参拝)
景行天皇四十三年(113)に創建と伝わる。祭神は天照大神(あまてらすおおみかみ)が御霊代を草薙の剣として熱田大神(あつたのおおかみ)と称するという。
(地域関連記事:南方貨物線 白鳥庭園 宮宿 熱田神宮平成二十五年)
(小西城 熊本県宇土市古城町 市指定史跡)
宇土氏が築いた宇土(古)城に代わって、天正十六年(1588)キリシタン大名と呼ばれた小西行長がその東側の城山に新たに築いたのが、宇土(新)城である。宇土、益城、八代、天草二十四万石を領し、文禄慶長の役で活躍したが、慶長五年(1600)小西行長は関ヶ原で敗戦し、行長の処刑が伝えられると、兄の留守中宇土城を守っていた弟の小西行景は自刃し、宇土城は加藤清正のものとなった。 清正は、宇土城の改修を行ったが、清正が没すると城は破却され、更に寛永九年(1632)子の忠広は徳川家光への謀叛の疑いをかけられ改易となった。その後、正保三年(1646)になると、細川行孝が三万石を熊本から分封され、宇土藩が再興した。