(京都府木津川市加茂町東小上東谷 当尾磨崖仏文化財環境保全地区)
首切り地蔵の東の藪の中には、その呼び名の通り三体の磨崖像がある。弘長二年(1262)の刻字があり、左から阿弥陀如来、地蔵菩薩、十一面観音が彫られている。
(青森県西津軽郡深浦町・秋田県山本郡八峰町・能代市)
十二湖から再び五能線に乗り込む。本数の少ない列車に乗るということで混んでいると思いきや、乗客は疎らであった。国鉄色40系×48系各駅停車でゆっくりと能代へ向かった。
48系五能色
(川崎市多摩区登戸)
小田急小田原線向ヶ丘遊園駅に降り立つ。古くからのまちがある北口側とは違い、南口側は人口増加と向ヶ丘遊園開園によって開かれた地区である。およそ10年ほど前まではモノレールが発着していたが、そのモノレールの終点であった向ヶ丘遊園も無くなり、駅名だけが面影を残している。
(生田緑地へ)
(北海道夕張市)
今回の北海道初日は雨天で札幌市街地のみの散策となった。加えて仕事の疲れが出て予定を大きく変更した。北海道は何度となく訪れているが、札幌に隣接する小樽には訪れたことがない。今回、その小樽と、我が家との血縁関係にある竹鶴の地、余市。そして夕張、千歳、恵庭等を予定していた。然し、バスの予約状況やいつもの如くの青信号にならって歩く習慣、直近発車の列車の流れで身を任せたところ、夕張行きの急行バスに乗っていた。およそ六年振りの夕張、前回の「南部」に続いて、「北炭」を訪れた。北炭は北海道炭擴汽船の略であり、三菱の大夕張・南部に対して三井の夕張・北炭をあらわす。
付近は、本格的な春はまだ遠く、残雪が多く見られた。然しながら、その雪によって辺りが白く輝き、衰退のイメージが和らいで感じた。雪国は総体的に言えることだが、構造物の老朽化が早い。故に定期的なメンテナンスが必要となってくる。然れど夕張ではそれがままならず、負のイメージに拍車をかけている。
以前訪れたときはなかったように思う「バリー屋台」なるものが夕張駅の横にあった。我が起源の今治も同様なネーミングを使うことがあり、同じように苦しい時期を過ごしている両者が協働できたらと感じた。急階段を上がると市の中心地、本町となる。そこには市役所と、命名権で名称が変わった旧夕張市民会館(昭和38年建造)がある。
傷んだ階段
ポンポロベツ川を渡ると、朽ちた図書館が視野に入った。平成19年、福祉保健センターの一角に規模を縮小して移転した跡である。看板を見ると、夕張市美術館の文字を消した跡があった。昭和54年(1979)に、市役所別館であったこの建物の一階に図書室、二階に美術展示室として利用したのが始まりで、昭和63年(1988)向かい側のボーリング場跡地を利用して美術館は移転した。然しながら昨年、積雪により地上S構造部分が倒壊し、そのまま解体されてしまい、元々のRC造りの地下部分だけが残っている。この場所に今度は図書館を移転する計画もあったようだが、何れにせよ川に面しており、美術品、蔵書資料の保管には不向きな場所であることは一目瞭然である。図書館の最盛期には小さいながらも図書館、美術館、青少年相談センターの複合施設であったが、今は閉鎖され、蔵書の三分の二がこの場所に眠っている。
旧ボーリング場・美術館跡
私は基本的に自治体が有する教育支援施設の民間委託は反対に思っているが、自治体そのものが破綻した場合はその限りでないと考えている。設置から所有、運営まで一括して民間が行う「民有官貸」の体制をとって、商業収入により財源を図り、他の教育施設、福祉施設等と濃密な連携を図ってそれぞれの既存の業務の無駄を取る。そして、相互関係による付加価値を生み出し、「教育文化改革の先駆け夕張」として根本的な部分からの復活を願いたい。そこでまちの信用力、ブランド力が付いてくれば、旧来から関係する企業も含め、誘致も進むであろう。
郷愁の丘
旧高松跨線橋
北炭夕張炭鉱専用鉄道跡
石炭露頭
市街地を過ぎると、総合病院の規模を縮小した診療所があり、更に進むと夕張にとって二回目の往古盛衰を巻き起こした食品事業所がある。用途が二転三転し、広大な空きスペースとなっている向こう側には夕張炭鉱跡地の敷地を利用した「石炭の歴史村」があり、時間が止まったかのように動かない光景が広がっていた。
寿命の短かった旧旭小学校(後の宿泊施設も閉鎖)
(浜松市天竜区水窪町地頭方 市指定史跡)
標高420m,水窪の町を見下ろすようにこの城はある。応永二十一年(1414)に奥山定則によって築かれたという。永禄十二年(1569)遠山氏に攻められ落城、その後武田氏によって改修されている。
平成6年から11年まで発掘調査が行われ、検出遺構を基に往時の再現がなされた。
大手門から天空集落を望む
主郭に建つ稲荷社
井楼櫓
土塁
修繕中の井楼櫓
主郭から次郭・三の郭を望む
堀切
次郭
南郭
弘前から「リゾートしらかみ青池編成(HB-E300系)」に乗り込む。事前の予約はしなかったが、セミコンパートメントの座席になった。次の停車駅である川部からスイッチバックで奥羽線を離れ、五能線区内に入る。辺りはリンゴ畑が広がり、青森津軽の演出が窓越しに伝わってくる。
津軽鶴田
五所川原 津軽21形
キハ22系 オハフ33
岩木川
「リゾートしらかみ」内での津軽三味線の演奏
鳴沢を過ぎると日本海が現れる。ここからは深浦千畳敷、行合崎、八森岩館海岸と、能代まで風光明媚な車窓が続く。
岩木山
北金ヶ沢
リゾートしらかみ橅編成(キハ48形)
弁天島
ウェスパ椿山
岩崎漁港
五能線は国鉄能代線と陸奥鉄道五所川原線が全通し、双方の頭文字を取って名付けられた全長147.2km(奥羽線川部~東能代間)の路線である。
(五能線 十二湖~東能代へ)
元善光寺から普通飯田行の列車に乗車した。長野―飯田間の「快速みすず」にも使用される長野色の車両で、運用は飯田以北(信越線・篠ノ井線・中央東線・飯田線)である。169系は昭和43年(1968)信越線碓氷峠越えのために165系電車をベースに開発された、電気機関車協調運転可能の形式である。(1998年4月28日)
(山口県美祢市秋芳町秋吉 特別天然記念物 秋吉国定公園 ラムサール条約登録湿地 日本地質百選93番)
雨の中、長州の山間を訪れた。このときは小京都萩とこの秋芳洞の順序を考えていたが、萩は記録的雨量との情報が入ったのと、秋芳洞は洞窟内の行動であることからこの地を先に選んだ。
青天井 長渕 百枚皿 南瓜岩
地下川の浸食によって形成された石灰岩の秋芳洞は、かつては洞窟を滝穴、洞内の川を稲川と呼んだが、大正15年(1926)の東宮(昭和天皇)行啓の際に、秋芳洞と正式に名付けられた。洞窟の総延長は8850mであり、最広部は80m,最高部は35mである。
黄金柱 クラゲの滝のぼり