(群馬県利根郡片品村 日光国立公園 特別天然記念物 2004年8月14日)
決断
山ノ鼻から東へと進むと、湿地の括れた部分を意味する牛首となる。前方の単独ハイカーは猛スピードで歩いている。私も追随するかのように歩いた。陽が昇るにつれ薄雲が出始めた。今日は昼頃から雨という予報が出ている。午前七時、この先の道程を考えた。湿地を横切り、県境を越える道が一番見応えがあるらしいのだが、十二時間かかるという。私はあと九時間後にはここを離れる。かといって同じ道を戻るのも残念な気がする。そこで所要時間が六時間という長沢新道を選ぶこととした。湿地の「竜宮」という地点から分かれ南進、暫く緩やかな傾斜が続くが、山肌に差し掛かると急な道へと変わる。途中二組の登山者とすれ違っただけで、あとはオコジョと出会っただけであった。
富士見峠へ
(きたおおどおり・ぬさまいばし 北海道釧路市)
湿原から釧路へ戻り、駅から市街地へと向かう。途中、幾つもの大規模小売店舗の空きビルが見られた。北海道という土地柄、早くから郊外化が進んでいた大地でも更にそれが進んだことが分かる。北大通は、釧路駅から幣舞橋を経て南大通に至る釧路を代表する通りである。
釧路駅前ラルズ跡
丸井今井(丸三鶴屋)跡
マルト北村跡
くしろデパート(KOM)跡とオクノ(そうごデパート)跡のある末広町
北大通、釧路川に架かる橋は幣舞橋である。地元の人が初代の橋は愛知県の人によって架けられたと話してくれた。現在の橋は昭和52年(1977)に竣工した五代目であり、全長124m,幅34m,架橋当時の207m,幅4mと比べると、長さは短くなり、幅は広がっている。五代目の幣舞橋の欄干には、彫刻「四季の像」が建つ。橋名の幣舞は、アイヌの祭祀場のあった所を意味し、ヌサ(幣:和語)・オマ(ある:アイヌ語)・イ(ところ:アイヌ語)の混合語に由来する。釧路川に橋が架けられたのは、明治22年(1889)渡船に代わる有料の橋として、愛知県名古屋の愛北物産が釧路に支店を出すのを機に、「愛北橋」と名付け架けられたものが初代の橋である。然し、9年後に崩落してしまったため、明治33年(1900)官設による「幣舞橋」が架けられた。
(念仏寺山古墳 奈良市油阪町 2003年8月13日)
三条通りに面する全長100mの前方後円墳は、稚日本根子彦大日日尊(わかやまとねこひこおおびびのみこと:開化天皇)を埋葬する陵である。開化天皇は、孝元天皇二十二年 (B.C.255) 立太子、孝元天皇五十七年 (B.C.214) 即位。皇居は春日率川宮(かすがのいざかわのみや:奈良市本子守町率川神社) であり、子に御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと:崇神天皇)、 御真津比売命(みまつひめのみこと)、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)、彦坐王(ひこいますのみこ)、建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのみこ)がある 。
(豊橋鉄道田口線 愛知県新城市長篠・富保・門谷)
久し振りに田口線跡を辿る。かつて田口線の発着ホームであった本長篠駅舎に面する旧1番線は、今は使われていない。本長篠を出ると、上り勾配で左にカーブを切る。そして、緩やかな勾配で最初のトンネル、内金トンネルを潜る。このトンネルは田口線廃止後に、その先にある民家を結ぶ道路に変わり、私も何度か通ったが、今回訪れてみると崩落の恐れがあるため通行止めとなっていた。つい最近というか、今さっきとられた措置のようであった。
迂回して進むと、変わらず聳える大井川橋梁の橋脚と橋台が残る。
高所にある峰の峠と鳳来寺駅に合わせるため、集落より高い位置を通る路盤は、今でも築堤とトンネルを残し、上大草集落と下大草集落の中間位置に三河大草駅のホームがある。近くに民家はなく、麓の里から上がってくる感じである。故に、同線区の中で最も利用者が少なかった。駅は山の斜面を開削したものであり、ホームは2両分、僅かに弧を描いているのが分かる。
大草駅を過ぎると大草トンネルに入り、抜けると上大草の集落を望む築堤となる。そしてすぐに富保トンネルを潜ると、その向こうに峰トンネルが見えてくる。
廃線45年を経ても残るケーブル支持金具
上大草の里を見下ろす
田口鉄道時代の二階建て鳳来寺駅舎は私も知っており、解体されて平屋和風の「ほうらいじ駅食堂」に建てかえられたのも知っている。然し今回訪れてみると、その食堂も無くなり駐車場となっていた。
(長野県松本市安曇上高地 特別名勝 特別天然記念物 中部山岳国立公園 )
田代池から梓川に沿って更に遡る。梓川右岸には上高地を世に知らしめた、イギリス人宣教師・登山家のウォルター・ウェストンのレリーフ(昭和12年設置)がある。
(旧所在地:愛知県西尾市下羽角町五釜 1985年)
昭和45年(1970)工場建設に伴って発掘調査が行われ、西尾市図書館(岩瀬文庫)敷地内に移築されたものである。直径10m,高さ3mの円墳で、横穴式石室を持つ。
(特別天然記念物 日光国立公園 2004年8月14日)
前日に熊野古道を歩いた私は、午前中に人間ドックを受け、バリウムがまだ体内に残った状態で東国入りをした。その後バスで関越道を北上、沼田、尾瀬戸倉を経て標高1590mの鳩待峠に到着した。
未明に軽い食事をし、夜明け前の峠を歩き出した。盆の朝の気温は14℃ 周囲はジャンパーを羽織る者が多かったが、私は半袖シャツ一枚であった。暗闇では谷底に転落してしまうため、一旦空が白々するのを待つ。そして再び出発すると、登山者の中で何故か私が先頭となった…熊避けの鈴を持っていたからであるらしい。然し気が付くと私だけとなっていた。
イワギキョウ
川上川に沿って歩いていくと、やがて日の出間もない山ノ鼻に差し掛かった。
(愛媛県今治市上浦町井口)
祖母の故郷に程近いこの地は、しまなみ海道が開通してから大きく環境が一変した。 多々羅大橋は平成11年に開通した西瀬戸自動車道の生口島と大三島を結ぶ斜張橋であり、全長1480m,最大支間長890mは完成当時世界一であった。橋ができるまで玄関口だった井口港
(奈良県北葛城郡王寺町本町 2003年8月13日)
この日は元興寺に訪れた後、大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)の陵を訪れた。 孝霊天皇は、 孝安天皇五十一年(B.C.342)に生誕し、孝霊天皇元年(B.C.290)一月十二日に即位、黒田廬戸宮(くろだのいほとのみや:奈良県磯城郡田原本町)を皇居とした。皇后は細媛命(くわしひめのみこと)、子に孝元天皇(大日本根子彦国牽尊:おおやまとねこひこくにくるのみこと)、千千速比売命(ちちはやひめのみこと)、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと:箸墓古墳埋葬者)、彦刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと:庵原氏祖)、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと:吉備津彦命: 吉備・児島・三宅氏祖)、倭迹迹稚屋姫命(やまとととわかやひめのみこと)、彦狭嶋命(ひこさしまのみこと:伊豫皇子:越智・河野氏祖)、 稚武彦命(わかたけひこのみこと)がある。孝霊天皇七十六年(B.C.215)二月八日崩御、片丘馬阪の台地に埋葬された。
(長野県松本市安曇上高地 特別名勝 特別天然記念物 中部山岳国立公園)
大正池から梓川に沿って遡る。水辺の森を歩いて行くと、やがて小さな田代池に出る。この池も大正池同様、焼岳の噴火によって上千丈沢が堰止められたものであるが、土砂の堆積もあり水深は浅い。また、周囲は湿原となって植物を育んでいる。
六百山