(愛知県新城市一鍬田 1991年8月5日)
一鍬田(ひとくわだ)公民館の前に三基の道標がある。中央の自然石の道標は正法寺前の川添道(豊川街道)から別所街道(宇利道)に至る分かれ道に置かれた、安政六年(1859)に建てられたものである。両側の二基は村内西の川添道字土合(豊川・新城と本宮山方面との分かれ道)と、東の別所街道字柄杓沢(豊川・新城と宇利道・半原方面との分かれ道)に置かれていたものである。
(川崎市中原区上新城)
年明け、近隣の新城(しんじょう)を訪れた。前回訪れたときより南側の商業面積が広いことも分かったが、加えて南武線沿線的な下町風情も感じ取ることができた。
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(愛媛県越智郡波方町水崎 1991年7月21日)
高縄半島先端の大角鼻の東、瀬戸内海燧(ひうち)灘側の海岸である。昨年9月に訪れたが、再度訪れてみることにした。海岸や海中からは、縄文時代前期から晩期にかけての土器が散見できる。これは、海岸に存在した遺跡が浸食によって海中に落ち込んだものと推定できる。
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(きたみがた 川崎市高津区北見方)
多摩川右岸のこの地は、隣の瀬田村に住した北見氏(江戸氏臣木田見氏と同じか)という武士が開拓したことに始まると伝わる。然し、文化・文政時代に編集された地誌『新編武蔵風土記稿』には、「是もうけがたき説なり」とこの説を否定している。北見方より4km上流の左岸には「喜多見」があるが、この地の住民が「北見方」に移り住んだという説もある。尚、私の育った地域では、愛知県蒲郡市の地名由来の一つである蒲形(がまかた)、新井形(あらいがた)、形原(方原・かたはら)等があり、かつての海岸線の潟(がた)を示すものである。よって北見方(きたみがた)も、海岸線が海進していた当時の潟を由縁とするとも考えることができる。北見方の地は多摩川が運んだ肥沃な土によって畑作が盛んであり、大道耕地、上耕地、山王下耕地、下倉耕地、宮前耕地、向河原と六つの字が存在した。村内には江戸時代前期に開山の真言宗白王山正福寺と、北見方村の総鎮守である白髭神社がある。白髭神社は、慶長15年(1610)に北見方総社として伊勢猿田彦神社より勧請したのが始まりとされる。然し、多摩川の洪水によって、元文元年(1738)と天保年間に社殿が再建され、水害に翻弄されている地であることが分かる。
二ヶ領用水
第三京浜
(お茶屋池古墳 愛媛県今治市唐子台 1991年7月20日)
この古墳を訪れるとき、正確な位置が分からなかったため、地理地形に詳しいであろう付近にあった測量事務所を訪ねた。対応してくれた人は我が家の親戚である医師と同級生であることが分かり、様々な話が弾んだ。古墳の位置も分かり、早速現地を訪れる。古墳のあった高台の端に喫茶店が建っているということであったが、既に廃業していた。古墳の範囲の一部は整地され平らとなり、周囲はブロックで覆われていたが、古墳の土砂自体は散逸していないようであった。全長49m,高さ4mの前方後円墳であり、竪穴式石室から珠文鏡、神獣鏡、鉄剣の各片が採集されている。外部施設として円筒、朝顔形、家形埴輪があり、5世紀中頃と推定される。古墳の麓の、かつて「お茶屋池」があった場所で耕作をする人に尋ねてみたところ、「あの古墳の土地は、うちの親戚が所有していたので、唐子台の宅地開発を免れたが、その後うちが発掘に参加し、写真も多数撮影した。数年前に喫茶店を建てるために整地した」と語り、「最近親戚が賭け事で土地を失ったので、この先どうなるか分からない。勿体ないことをした。昭和42年に愛媛県に文化財指定を要請したが受け入れられなかった」と話してくれた。 後円部側から石室石材が二枚みられる
前方部
(東京都大田区田園調布・田園調布本町)
庶民的雰囲気の田園調布駅東側と、丸子川(六郷用水・次太夫堀)沿いの五丁目の低地、南側の本町もあわせて漫ろ歩いた。
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(東京都大田区雪谷大塚町 都指定史跡)
住宅地の一角にこんもりとした塚と、その上を一部削って稲荷社が祀られている。現状の直径27m,高さ6mの円墳で、大塚の地名の基となっている。現状の直径に対し高い墳丘は、後世に墳裾が削られたものであろうと推定できる。また、稲荷社の狛狐が嘉永年間に寄進されていることから、江戸時代末期には既に稲荷社があったことが分かる。
(とよがわげじょうばし 愛知県豊橋市下条西町・豊川市行明町 1999年4月18日)
豊川下流としては昭和53年(1978)と、比較的新しく架けられた下条橋からの眺め。遠くには、ほの山(本宮山)が見える。橋の上流で放水路と分かれ、水流が穏やかになってくる区域である。
(ほの川とは、三河国統合前の穂の国と呼ばれた東三河地域を代表する川であり、穂→豊(ほう)になったという説に基づく)
(東京都大田区雪谷大塚・南雪谷・東雪谷)
雪ヶ谷の内、中原街道の北西を雪谷大塚(ゆきがやおおつか)と呼び、南を南雪谷、呑川の東を東雪谷と呼ぶ。かつては雪ヶ谷村と鵜ノ木村であったが、昭和35年(1960)南雪谷、東雪谷、石川町の一部に分割され、雪谷大塚は、鵜ノ木村大塚であったものが調布大塚町となり、池上線の雪ヶ谷大塚駅(1966-雪が谷大塚駅)最寄りであることから、昭和37年(1962)に雪谷大塚と改称された。雪ヶ谷の地名由来に氷室説があるが、「ユキ」は崖崩れのいわゆる災害地名でもあり、また東雪谷には雪見坂があって、富士の頂の雪が見え名付けられたとされることから、氷室説を単に断定することはできない。
池上線
自由通り
中原街道
呑川
安永三年に中原街道の橋の安泰を願って建てられた石橋供養塔
(愛知県蒲郡市相楽町・豊岡町 1999年4月11日)
御津町広石から蜜柑の里相楽(さがら)を通り御堂山を越え、牧山(豊岡)、五井、清田(せいだ)を経て幸田町深溝(ふこうず)を結んでいた街道である。かつて御堂山付近では幅2m未満の山道であったが、昭和27年から30年にかけて、自衛隊の協力により改良された。道路改良後の昭和33年(1958)愛知県青少年の家相楽山荘が開所し、更に昭和50年(1975)山荘改築時に道路が現在のように拡幅された。途中には、昭和29年(1954)に西田川支流山林川を堰止めた豊岡池(総貯水量100,000m3)があり、昭和52年(1977)豊川用水蒲郡調整池として500,000m3に拡張整備され、平成9年に中心遮水ゾーン型ロックフィルダム、612,000m3の「とよおか湖」として再整備された。 とよおか湖堰堤から
豊岡池竣工記念碑
三河大島を望む
砥神山
蒲郡市街地を望む
とよおか湖
全福寺跡
丹野城跡
馬頭観音
聖観音
寶國山養圓寺奥ノ院御堂山観音堂
相楽集落を望む
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(東京都目黒区大岡山・大田区北千束)
目黒、大田両区に跨がるこの辺りは、岡の頂きのような地形となっている。かつては「おおかんやま:大官山」「おおかやま」と呼ばれたとされ、地形以外の何らかの経緯があるのかもしれない。
(東京都目黒区緑が丘)
自由が丘の東隣のこの地は、かつて自由が丘の旧地名である衾(ふすま)村大字谷畑の一部に含まれていた。住宅開発が進み、新たに地名を興す際に残された多くの緑をあて、緑が丘と名付けたという。九品仏川の緑道が印象的である。
九品仏緑道の桜
大井町線緑が丘駅
緑ヶ丘小学校のある緑小通り
(愛知県宝飯郡御津町広石 1999年3月28日)
浄土宗大恩寺の背後にある標高95mの山である。私は幼い頃からこの御津(みと)山の外観が巨大な前方後円墳に見えて仕方がなかった。平安時代中期、三河守であった大江定基が館を構えた地と伝わる。そして、徳川家康が大恩寺の寺領としてこの山を寄進したため大恩寺山とも呼ばれる。また、昭和8年から12年にかけて、有視飛行の航空灯台が設けられた。御津山は御堂山等の山系から張り出し山で、三方の眼下が平地であるため、三河湾、豊橋、豊川方面を望むことができ、あらゆる目的に重宝したことだろう。 国府・本宮山
三河湾・渥美半島
大塚・蒲郡
豊川・吉祥山
石巻山